読みながら痛すぎるよ、と思う。なんで、こんなのばかり今読むのか、と自分を恨む。椰月美智子『伶也と』を読んだところなのだから、今度は少し明るい小説でもよかったはずなのに、偶然こういうパターンが連鎖する。
2冊はよく似ている。同じように不幸な女の生涯を描く作品。もちろん、そのアプローチも、描かれる状況、設定もまるで異なるが、それでもその底を流れるものに共通点がある。何を根拠に「不幸」というかは、人それぞれだ。だいたいこの2作品の主人公を不幸だ、と断定するのはおこがましい。おまえの勝手な感想を押しつけるな、と言われるだろう。
人はそれぞれ自分の人生を生きるしかない。それは自分が選びとったものである、と自信を持って言えるような「おめでたい人」もまた、いるだろう。それはそれでいい。でも、普通ならなかなかそこまで断言できない。たまたま、こうなった。そうとしか、言いようがない。もっとほかの生き方もあったはずだ。みんな多かれ少なかれ、こんなはずじゃなかった、と思っているだろう。でも、そこで、今の自分を否定しても詮無いばかりだ。流れ始めた勢いは、おいそれとは止められない。流されるしかない(一面もある)のだ。
9つの短編からなる連作、というスタイルになっている。主人公の「塚本千春」は、各エピソードにわき役として登場する。語り手は彼女ではない。9人のお話の中に彼女が時系列で登場する。まだ赤ちゃんだった彼女が、最後には死ぬ。いくつもの彼女の横顔がそこには描かれる。その断片から彼女のたどった歴史が垣間見える。語り手となる9人もまた、決して幸せとは言えない。何が幸せで何が不幸と言うのかなんて、誰にもわからないから、何も言わない。でも、読み終わった時、なんだか寂しい。
実は嘘をついている。最後のエピソードには「千春」は一切出てこない。わざとだ。その代わり、彼女の産んだだけで一切関わりのない娘である「やや子」が登場する。というか、彼女が主人公だ。彼女が自分と関わることなく死んだ父に会いに行く話。なのに、ここには、母、の字も出てこない。
「なんだかね。いいような気がするの。すべてが、良い方向に向いて、それぞれが自分で選択した場所で生きて死んだんだって、そう思えるの」やや子のその言葉がこの小説のすべてを象徴する。