
「少女は駆け抜けない。」だから、もどかしい。でも、このもどかしさこそこの映画の持つ力だ。牛歩の歩み(「牛の歩み」だが)で前進していく青森の少女は、大好きだった三味線をもう一度手にしてメイドの装束で弾く。彼女の三味線が潰れそうになっているこのメイドカフェを再建させるわけではない。でも、この一歩をみんなは信じる。千里も道もこの一歩から、だろう。胡散臭い父親と再び登山するラストシーンも含めて、歩みはのろいが確実な一歩。そんな姿が胸に沁みる。
チラシには「少女よ、駆け抜けろ!」とある。勇ましい。でも、この映画は先に書いたとおりだ。主人公の少女いと(駒井蓮)は16歳。昔、三味線の天才少女と新聞に書かれたこともある。でも、今はもう弾かない。恥ずかしいからだ。足を開いて三味線を弾く姿が。内気な彼女は目立たない。教室でもしゃべらないから、友だちもいない。孤独な少女だ、というのではない。それでいいと思っているから、孤独ではない。ただただ、身を潜めている。こんな地味な女の子が主人公の映画なんて見たことがない。駒井漣は華がない。映画は始まってかなり経つのに、彼女が主人公として映画が進行しているのに、ほんとうにこの子が主人公なのか、と疑う。ちゃんとした主人公はこの後登場するのではないか、と思いつつ、今は仕方ないからこの子を見ていようと思う、くらいに。(もちろん、冗談だが。)それくらいに彼女はその存在を消している。スクリーンに映っているのに、である。
そんな彼女がメイドカフェでバイトをする。メイド服に身を包んで、ご主人様に仕えるのだ。もちろん、無理。物怖じして、ちゃんと標準語もしゃべれないし、すごい訛りで、相手の目を見て話すこともできない。下を向いたまま。そんな彼女に接客業何て不可能。なのに、店のスタッフは彼女をそのままで受け入れる。邪魔にしかならないような彼女をチームの一員として拒絶することなく、一緒に過ごしてくれる。
これはいったいどういう映画なのか、と不安になる。そんな毎日のなかで、だんだん彼女が生き生きして輝きだす、というのならまたよくある安心のパターンになるのだが、もちろんそんな単純な映画ではない。最後まで彼女は訛ったままだ。ちゃんとしゃべれない。でも、彼女はこのカフェを辞めたくない。相変わらずの津軽弁(彼女はずっと津軽弁でしゃべるので、何を言っているのかわからないところもある)で朴訥と「この店を続けたい、」と訴える。みんなも同意する。「1か月頑張ってみる、」と店長も言う。でも、きっと存続は難しいだろう。それでもかまわない。これはそんな映画なのだ。こんなヒロインを見たことがない。地味すぎて映画ではないようだ。そんな彼女の存在感が光っている。素晴らしい。こんなにも魅力的な主人公にはなかなかお目にかかれない。