
このタイトルで、オレオレ詐欺の話からドラマがスタートするって、どうよ、と思う。そんな冗談のような始まりかた。しかし、そんなのは話のマクラでしかない。本題はそこではない。
これはちょっとしたミステリー仕立てにもなっている。三木聡監督の新作は、主人公の俺(亀梨和也)が、どんどん増殖していく話。コメディータッチではなく、結構ハードな感じの作品になっている。でも、そこは三木監督だから、ふぁっとしてゆるい感じは、いつも通り。自分が別人になってしまう。しかも、別人が自分になり変っている。しかも、お互いが全く同じ顔。俺があいつであいつが俺で、状態なのだ。そこに、さらにもうひとり、俺もどきが登場する。3人の俺を巡る話だ。やがて、俺は際限なく増えていくことになるのだが、4人目以降はもう俺じゃないから、と拒否してしまうところがいい。
だんだん楽しめなくなるのだ。というか、最初からこんなこと楽しくはない。恐怖だ。だが、最初はこの不思議な状況を利用して、お互いが入れ替わったり、確かに楽しんでいた。お互いの気持ちが手に取るように分かるというのも、うれしかった。だが、そんなことは最初だけ。だんだんこの不思議な状況に慣れてくる。しかも、自分が自分であるのに、自分じゃないことにいらだつ。
理屈ではなく、現実としてこの出来事があり、その前提の中で生きていくことになる。だが、どう考えてもこれはありえない。オリジナルの自分、というか、自分は自分だ。他の誰でもない。そんな当たり前のことに、悩まされる。だって、自分のコピーがそこここにいるのだから。自分はおかしいだけではないか、という気すらする。映画はこの事実を大前提にしているが、それすら疑うような展開をしてもよかったのではないか。ただ笑わせるだけの映画ではない。いつもの三木作品より、シリアスだ。それだけに映画としての理屈がもっとちゃんと描かれてあったほうがよかった。お話としての整合性がもう少し欲しい。なんでもありではなく、この世界がどうなっていて、彼はどうしてこんな事態に陥ったのか。そこを追及して見せたなら、ちょっとした安部公房になったのではないか。もちろん、そんな不条理劇にはしたくなかったのだろうが、この映画にはそんな怖さが必要だった気がする。加瀬亮演じる嫌な上司が俺になる終盤の展開はひとつの突破口になったはずだ。さらには、彼を彼自身として認識できる謎の女(内田有紀)が何者なのか、も同じ。
映画はいつものゆるさをベースにしている。だが、その先を視野に入れた作品にもなっている。それだけにドラマとしての整合性を詰め切れなかったのは残念だ。
それにしても加瀬亮。今日はこの映画の直前に『はじまりのみち』を見た。その直後にこの映画である。あの恐怖の8-2分けのヘアースタイル。あの演技。あまりの落差にあぜんとする。
これはちょっとしたミステリー仕立てにもなっている。三木聡監督の新作は、主人公の俺(亀梨和也)が、どんどん増殖していく話。コメディータッチではなく、結構ハードな感じの作品になっている。でも、そこは三木監督だから、ふぁっとしてゆるい感じは、いつも通り。自分が別人になってしまう。しかも、別人が自分になり変っている。しかも、お互いが全く同じ顔。俺があいつであいつが俺で、状態なのだ。そこに、さらにもうひとり、俺もどきが登場する。3人の俺を巡る話だ。やがて、俺は際限なく増えていくことになるのだが、4人目以降はもう俺じゃないから、と拒否してしまうところがいい。
だんだん楽しめなくなるのだ。というか、最初からこんなこと楽しくはない。恐怖だ。だが、最初はこの不思議な状況を利用して、お互いが入れ替わったり、確かに楽しんでいた。お互いの気持ちが手に取るように分かるというのも、うれしかった。だが、そんなことは最初だけ。だんだんこの不思議な状況に慣れてくる。しかも、自分が自分であるのに、自分じゃないことにいらだつ。
理屈ではなく、現実としてこの出来事があり、その前提の中で生きていくことになる。だが、どう考えてもこれはありえない。オリジナルの自分、というか、自分は自分だ。他の誰でもない。そんな当たり前のことに、悩まされる。だって、自分のコピーがそこここにいるのだから。自分はおかしいだけではないか、という気すらする。映画はこの事実を大前提にしているが、それすら疑うような展開をしてもよかったのではないか。ただ笑わせるだけの映画ではない。いつもの三木作品より、シリアスだ。それだけに映画としての理屈がもっとちゃんと描かれてあったほうがよかった。お話としての整合性がもう少し欲しい。なんでもありではなく、この世界がどうなっていて、彼はどうしてこんな事態に陥ったのか。そこを追及して見せたなら、ちょっとした安部公房になったのではないか。もちろん、そんな不条理劇にはしたくなかったのだろうが、この映画にはそんな怖さが必要だった気がする。加瀬亮演じる嫌な上司が俺になる終盤の展開はひとつの突破口になったはずだ。さらには、彼を彼自身として認識できる謎の女(内田有紀)が何者なのか、も同じ。
映画はいつものゆるさをベースにしている。だが、その先を視野に入れた作品にもなっている。それだけにドラマとしての整合性を詰め切れなかったのは残念だ。
それにしても加瀬亮。今日はこの映画の直前に『はじまりのみち』を見た。その直後にこの映画である。あの恐怖の8-2分けのヘアースタイル。あの演技。あまりの落差にあぜんとする。