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映画・演劇のレビュー

EVKK『タトゥ』

2017-02-03 00:51:22 | 演劇
ワンステージ30名(推定)限定。それ以上観客は入れない。舞台となる狭い空間を四方から観客が取り囲む。客席は一列で設定。4面それぞれ8名程度になる。(ちゃんと数えておけばよかった。一部2列になるが、それは定員を超える観客のせいで、演出家にとっては不本意だ。外輪さんの美意識には反する。)



観客が4人の家族(役者たち)を取り囲む。(途中から外部の人間が入り込むから役者は5名だけど)観客は安全で安心、ではない。この芝居の共犯者になる。彼ら(僕らは、だけど)はただの芝居の目撃者なんかではない。



当日、渡されたパンフには「俳優がとび出してきて、お客様にさわります。」とある。「さわる・さわられる」ということの「親和性」を描く、とある。外輪さんは「皮膚感覚のみならず、心にさわることができれば」と言う。



だから、観客は身構えることになる。確かに触られる。そうでなくとも、観客の足もと数センチ向こうに役者の体がある。寝転がる女優の顔のすぐ隣に自分の足がある場合なんて、もうそれだけで凄い緊張感が生じるはずだ。自分の足が女優の顔を蹴るかもしれない。



このそれでなくともとても過激なストーリーを、さらに刺激的な空間で見せる、という演出だ。外輪さんはこの家族の問題をただの傍観者として観客に眺めさせたりはしない。このドキドキするような緊張感は「触られる(巻き込まれる)」という状況が発するものだが、それはこれがキワモノだからではなく、この芝居の描くセンセーショナルな出来事そのものがそうだからだ。お話と状況がシンクロする。お芝居は、目で見ているはずなのに、それは、直接体に触れてくる気にさせられる。



ここに描かれる父と娘の性的な関係はただのセンセーショナルな出来事ではなく、家族という共同体が孕みうるある種の普遍性に通じる。ここに描かれるものは特異な状況ではなく、精神的な面ではどこの家にでも生じる問題で、これはそれを生々しい肉体の接触(セックス)として描いたに過ぎない。



禁忌を犯すこと。ボーダーラインを超える行為。そこから侵食してくる不快感。それを身体感覚として観客にもさわらせる。そんな作品なのである。いろんなことが象徴的に描かれる中、確かにさわることで、皮膚感覚に訴えかけてくる。紅い花びらが舞うのではなく、暗転の中、突然にどっさりと降ってくる(落ちてくるという感じだ)ラストまで、とことん「さわる」ことに拘って見せた。そして、家族というもののおぞましい正体を「自由と呪縛」という図式の中で突き詰めていく。そんな75分間の衝撃を体感する。
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