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映画・演劇のレビュー

劇団往来『セチュアンの善人』

2008-06-23 23:12:24 | 演劇
 3時間に及ぶ超大作。ブレヒトの戯曲を劇団往来がいかに消化していくのか。楽しみだった。仕上がった作品は「さすがベテラン劇団!」と唸らされるくらいに手馴れたものになっていて感心させられた。軽妙なタッチで「善とは何か」を問いかけてくる。正しい行為が人を救うとは限らない。人は他人の善意につけ込んで甘い汁を吸う。結局、人のよい人間は騙されて、利用されて、酷い目にあうこととなる。

 善人であろうとしたシェン・テは苦しみ、その苦しみを解消するために従兄のシュイ・タを生み出す。彼は冷静に状況を判断し結論を下す。シェン・テのように簡単に騙されたりはしない。ひとり二役。と、言っても同じ人間が2人の人物を演じるというパターンで、『リボンの騎士』状態なのだが、その2面性を通してドラマを展開していく。娯楽の王道を行くやり方だ。それをこの吹き溜まりの集う娼婦たちや、貧民たちのそれぞれの事情を絡めて描いていく。もちろん3人の神さまもそれに関わっていく。わかりやすく楽しいという当たり前の事をベースにして、誰もが共感できる芝居に仕立ててある。

 だが、芝居が描こうとすることは、必ずしも単純な人間賛歌なんかではない。かなり捻くれて厭世的な見方をしている。貧しい庶民は卑しいし、ハイエナのように小金持ちに集ってくる。金がなくなるとすぐ散っていく。むしりとるだけの禿たか状態だ。たとえ、主人公であろうとも、いいひとでい続けることは出来ない。

 人はずっと善人でいることはできない。それは「善と悪の間で揺れる」ということではない。善であり続けることで、身を滅ぼしてしまうわけにはいかないから、単純な善ではなく客観的な正義であろうとする。その結果、当然、善だけではいられなくなる、というだけの話なのだ。この芝居が見せようとするものは、どうしようもない現実の前で自分が生き延びていくためには誰かを踏み台にすることもやむなし、というリアルな現実である。だが、そんな現実の前でも、それでも善人であろうとする愚かさがバカ正直に描かれていく。

 それをシリアスに重いタッチで見せられたりしたなら、鼻白むだろうが、演出の鈴木さんは時には喜劇仕立てになったりもしながら、きちんとエンタメして、この寓意劇を楽しませてくれる。派手な照明と広い空間(OBP円形劇場)を最大限に生かした設定により、この大人数による大作を飽きさせることなく見せてくれる。3時間は確かに長いが、それを感じさせないのはさすがだ。

 話自体はちょっと地味めのこの作品を、わざとらしくすることなく、自然に見せていきながら、大作仕立てにするなんて、なかなか簡単に出来ることではない。初日に見たので、全体的に荒いが、そんなことは気にならないくらいに勢いがある芝居に仕上がっていた。

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