『バッテリー』の番外編である。映画のラストシーン。横手二中との再試合。その顛末を巧たち新田東中の側から描くのではなく瑞垣たち横手二中サイドから描いていく。あの日の練習試合が、彼らのその後にどんな影響を与えていくかが描かれる。高校生になった彼らの今から、あの日を振り返っていく。
正直言うと本編である『白球の行方』はあまり面白くない。ちょっとしつこすぎて胃にもたれる。門脇にしても瑞垣にしてもあまりにあの日に拘りすぎで、話が嘘臭いのだ。
それよりも、オープニングの短編『マウンドへと』が素晴らしい。巧のその日の朝の緊張感がよくとらえられている。(これでは結局この話は巧と豪の話でしかない、ということになる)
たかが、練習試合。しかしながら、あの1日が子どもたちのその後の人生さえ変えていく。全力を出して戦うことの清々しさが、しっかり伝わってくる。(あの映画のラストシーンも感動を再確認したにとどまるのは残念だ。)
ラストで再びお話は巧のところに戻ってくる。練習の後の巧と豪を呼び出し、彼の球を打つのではなく、ミットで捕ろうとする瑞垣。面白いことは、どこにでもある。ここに凄いピッチャーがいる。彼をどう打ち崩すか。そのために全力で練習に取り組むこと。勝ち負けも問題ではない。どれだけ楽しい時間を過ごすのか、ということなのだ。そのためには苦しい練習も厭わない。反対にそのほうがいい。それくらいしなくては楽しくないからだ。
最近中学のクラブ活動で燃え尽きてしまう子どもが増えてきている。「もうスポーツは遣り尽くしましたから」なんて15歳の子どもが平気で言ったりする。あきれてものも言えないが、彼らは本気でそう思っているみたいだ。僕のところのような、普通の高校にやってくる奴らですらそんなことを言う。なんだかとても可哀想になる。
「そんなことはない。おもしろいことはここから始まるんだよ」と説得を試みるが、取り付く島がない。しかたないから諦める。これ以上は時間の無駄。そんなことより今からクラブを始める初心者の相手をするほうが、ずっと面白い。あるいわ中学時代はクラブでは目立たなかった子の本との力を引き出して、素敵な高校生活を送ることの手助けをしてあげることの方が何より楽しい。それが自分の仕事だと思っている。
このささやかな小説を読み終えたとき、ふとそんなことを思った。仕事の話ばかりで恐縮だが、今年の僕のところのチームはなかなかいいメンバーが揃っている。今はまだまだだが、鍛えたらかなりいいチームになりそうだ。今からワクワクしている。
正直言うと本編である『白球の行方』はあまり面白くない。ちょっとしつこすぎて胃にもたれる。門脇にしても瑞垣にしてもあまりにあの日に拘りすぎで、話が嘘臭いのだ。
それよりも、オープニングの短編『マウンドへと』が素晴らしい。巧のその日の朝の緊張感がよくとらえられている。(これでは結局この話は巧と豪の話でしかない、ということになる)
たかが、練習試合。しかしながら、あの1日が子どもたちのその後の人生さえ変えていく。全力を出して戦うことの清々しさが、しっかり伝わってくる。(あの映画のラストシーンも感動を再確認したにとどまるのは残念だ。)
ラストで再びお話は巧のところに戻ってくる。練習の後の巧と豪を呼び出し、彼の球を打つのではなく、ミットで捕ろうとする瑞垣。面白いことは、どこにでもある。ここに凄いピッチャーがいる。彼をどう打ち崩すか。そのために全力で練習に取り組むこと。勝ち負けも問題ではない。どれだけ楽しい時間を過ごすのか、ということなのだ。そのためには苦しい練習も厭わない。反対にそのほうがいい。それくらいしなくては楽しくないからだ。
最近中学のクラブ活動で燃え尽きてしまう子どもが増えてきている。「もうスポーツは遣り尽くしましたから」なんて15歳の子どもが平気で言ったりする。あきれてものも言えないが、彼らは本気でそう思っているみたいだ。僕のところのような、普通の高校にやってくる奴らですらそんなことを言う。なんだかとても可哀想になる。
「そんなことはない。おもしろいことはここから始まるんだよ」と説得を試みるが、取り付く島がない。しかたないから諦める。これ以上は時間の無駄。そんなことより今からクラブを始める初心者の相手をするほうが、ずっと面白い。あるいわ中学時代はクラブでは目立たなかった子の本との力を引き出して、素敵な高校生活を送ることの手助けをしてあげることの方が何より楽しい。それが自分の仕事だと思っている。
このささやかな小説を読み終えたとき、ふとそんなことを思った。仕事の話ばかりで恐縮だが、今年の僕のところのチームはなかなかいいメンバーが揃っている。今はまだまだだが、鍛えたらかなりいいチームになりそうだ。今からワクワクしている。