
ワンシーン、ワンカット。フィックスで長廻し。どこかで見たようなスタイルだが、挑戦的な映画ならよくあることだ。気にしない。
音楽はなく、現実音のみ。セリフもほとんどない。 だが、中国語と韓国語を微妙に使い分け、自分と他者との距離感、孤絶する思いが表現されてある。寒々とした風景の中、朝鮮族の女とその息子の日常が、中国の東北部、架空の町を舞台に描かれていく。
季節は夏のはずなのに、誰一人とて汗をかかない。人通りのほとんどない市街地。何もない空き地のような場所。広い道路。通らない車。そんな中を三輪車(後ろが二輪になった自転車)を漕ぎ、自家製のキムチを売る女。
貨物の駅の中にある家(不思議だ)で暮らす女。幼い息子は貨車の間や線路を遊び場にしている。貧しさから夫が人を殺しをしてしまい、息子と2人追われるようにこの町に逃げてきた。ここでキムチを売り生計を立てている。露天商の許可がないから、いつも場所を変え、警察の目を気にしながら商売をしている。
チァン・リュル監督によるこの映画はきっと誰もが言うようにキム・ギドクやジャ・ジャンクーを思わせる。こういう独りよがりすれすれのアート・フィルムが中国から生まれてくることは嬉しい。それが傑作であれば、さらにいい。だが、当然のことながら、なかなかそれは難しい。
この作品も作家としての強い意志を感じさせるスタイルはとてもいいと思うが、作品の出来の方は、だからどうなんだ?と言わざる得ない出来だ。描こうとしているものは見えるし、ヒロインの頑なな生き方は目を惹きつける。彼女が何を考え、ここでどう生きていこうとしているのかは興味を引く。
ここまで無口な映画で、説明も極限まで切り詰め、想像力をフル稼働しなくてはストーリーの行間が読みきれないようになっている作り方も悪くはない。だが、それ以上のものがない。
この世の果てのようなこの場所で、誰に頼るでもなく、息子と2人で生きていく中国では少数民族でしかない朝鮮族の女の孤独な日常のスケッチを静か過ぎるくらいに静かに描いた佳作であることは認める。
だが、だからこそ、もう少し何かが欲しい。息子を事故で亡くし、生きる気力を失う。自分を慰み者にした男の結婚式のために作ったキムチに、猫いらずを入れ、食中毒を起こす。もうこの世界で生きていく気力を無くした彼女が、駅の改札を抜け、緑の中に行く。フラフラと歩いていくあのラスト・シーンの向こうには何があるというのだろうか。それが知りたい。なのに、これではただの状況確認にしかならない。
未来なんてものは最初からなかった。彼女はそれでも息子にハングルを教え、朝鮮人であることの誇りを伝えたいと思った。しかし、それすら無意味だと悟り、それならこれからどう生きていくべきかを考える。そんな彼女を息子の死が襲う。
同じ朝鮮族の男、自動車教習所の食堂の男、若い警察官。キムチを買いにくる男たちは彼女に救いの手を差し伸べる。彼らの手助けは、本当の優しさなんかではなく、まだ若く美しい彼女の体が目当てだったりする。彼女は彼らを受け入れたり、拒絶したりする。本当の彼女の思いは一切描かれない。誰かに頼ったり甘えたりは一切しない。
ここまでクールな描写で一貫し、感情を排した映画も珍しい。その徹底振りは見事だが、その先にある作者の描きたかったものが、ない。そこだけが残念なのだ。
音楽はなく、現実音のみ。セリフもほとんどない。 だが、中国語と韓国語を微妙に使い分け、自分と他者との距離感、孤絶する思いが表現されてある。寒々とした風景の中、朝鮮族の女とその息子の日常が、中国の東北部、架空の町を舞台に描かれていく。
季節は夏のはずなのに、誰一人とて汗をかかない。人通りのほとんどない市街地。何もない空き地のような場所。広い道路。通らない車。そんな中を三輪車(後ろが二輪になった自転車)を漕ぎ、自家製のキムチを売る女。
貨物の駅の中にある家(不思議だ)で暮らす女。幼い息子は貨車の間や線路を遊び場にしている。貧しさから夫が人を殺しをしてしまい、息子と2人追われるようにこの町に逃げてきた。ここでキムチを売り生計を立てている。露天商の許可がないから、いつも場所を変え、警察の目を気にしながら商売をしている。
チァン・リュル監督によるこの映画はきっと誰もが言うようにキム・ギドクやジャ・ジャンクーを思わせる。こういう独りよがりすれすれのアート・フィルムが中国から生まれてくることは嬉しい。それが傑作であれば、さらにいい。だが、当然のことながら、なかなかそれは難しい。
この作品も作家としての強い意志を感じさせるスタイルはとてもいいと思うが、作品の出来の方は、だからどうなんだ?と言わざる得ない出来だ。描こうとしているものは見えるし、ヒロインの頑なな生き方は目を惹きつける。彼女が何を考え、ここでどう生きていこうとしているのかは興味を引く。
ここまで無口な映画で、説明も極限まで切り詰め、想像力をフル稼働しなくてはストーリーの行間が読みきれないようになっている作り方も悪くはない。だが、それ以上のものがない。
この世の果てのようなこの場所で、誰に頼るでもなく、息子と2人で生きていく中国では少数民族でしかない朝鮮族の女の孤独な日常のスケッチを静か過ぎるくらいに静かに描いた佳作であることは認める。
だが、だからこそ、もう少し何かが欲しい。息子を事故で亡くし、生きる気力を失う。自分を慰み者にした男の結婚式のために作ったキムチに、猫いらずを入れ、食中毒を起こす。もうこの世界で生きていく気力を無くした彼女が、駅の改札を抜け、緑の中に行く。フラフラと歩いていくあのラスト・シーンの向こうには何があるというのだろうか。それが知りたい。なのに、これではただの状況確認にしかならない。
未来なんてものは最初からなかった。彼女はそれでも息子にハングルを教え、朝鮮人であることの誇りを伝えたいと思った。しかし、それすら無意味だと悟り、それならこれからどう生きていくべきかを考える。そんな彼女を息子の死が襲う。
同じ朝鮮族の男、自動車教習所の食堂の男、若い警察官。キムチを買いにくる男たちは彼女に救いの手を差し伸べる。彼らの手助けは、本当の優しさなんかではなく、まだ若く美しい彼女の体が目当てだったりする。彼女は彼らを受け入れたり、拒絶したりする。本当の彼女の思いは一切描かれない。誰かに頼ったり甘えたりは一切しない。
ここまでクールな描写で一貫し、感情を排した映画も珍しい。その徹底振りは見事だが、その先にある作者の描きたかったものが、ない。そこだけが残念なのだ。