こんなにもシンプルなタイトルの映画はなかなかないだろう。しかもこのタイトル通りの内容である。ある若い道士が山を下りて下界に下り、人生を知る。それだけのお話だ。陳凱歌の新作である。
世界を代表する巨匠の待望の最新作なのに、日本ではなんと劇場公開すらなされないまま、DVDリリースである。だが、その理由はわからないでもない。アート映画ならまだしも、こういう単純な娯楽映画を今の日本の観客は彼に求めない。
チェン・カイコーは、84年『黄色い大地』でデビューした。あの作品は劇場公開される前に何の予備知識もないまま、中国映画祭で見た。初めて見たあの時のあまりの衝撃は今も忘れることはない。それまでの中国映画は(今では考えられないことだが、)あまりレベルの高いものではなかった。そんな中、いきなりの彼の登場だったのだ。その後、チャン・イーモウが『紅いコーリャン』を作りベルリンで賞を取って注目されたが、出会った時の衝撃度ではその比ではなかった。続く2作目の『大閲兵』も1作目に勝るとも劣らぬ傑作で、ここから中国映画の歴史が始まったと言っても過言ではない。その後の大躍進はもう語るまでもない。
そんな彼なのだが、近年の作品は不遇だ。この作品も、日本ではまるで誰にも期待されないまま、数あるアクション映画の1本として埋もれてDVDリリースされても仕方がない。だが、僕が見たこの映画は、つまらないカンフー映画とは違う。期待通りのすばらしさで、興奮した。
こういう武侠映画を彼は撮りたかったのか、と溜飲を下げた。今まで誰もやらなかったことが、彼だからこそ、可能だった。これは彼の4作目である『人生は琴の弦のように』の流れを汲む作品である。あの時にはわからなかったことが今ならわかる。あの時には、「なぜ、こんな寓話を作るのか、」と思った。リアルな現実を見つめるハードな作品から一転して、あのファンタジーは何なんだ、と思った。あれから20数年が経ち、再び彼が挑むこのファンタジーを見た時、そこからは、中途半端な大作だった『プロミス
無極』の目指したものすらが、見えてきた。
派手なアクションシーン満載の娯楽活劇なのだが、そこにはとてもシンプルに人生の意味が描かれる。これは「人は何のために生きるのか」を問う哲学的な作品なのである。それを昔話として、(息子が父の若かりし日のお話を語る、というスタイルをとる)ほのぼのとしたタッチで、ゆっくりとしたスピードで、語る。アクションシーンも派手で、リアルじゃなく、いくつもの教条的な寓話を盛り込み、幼い子供に語るように見せていく。
世の中には自分よりもっともっと強い人がいる。この世界は広い。しかも、勝つことが戦うことの意味ではない。人間的に立派でなくては強くても意味はない。この映画は強くなるためのさまざまな修行が串団子式に描かれている。そのひとつひとつのエピソードを通して主人公は成長していく。なんとシンプルな映画だろう。
これがチェン・カイコーのたどりついたひとつの極致なのか。ここには悟空がお釈迦様の掌でした冒険のような旅が描かれる。本当の強さとは何か。人間の持つさまざまな欲。煩悩に打ち勝つとはどういうことか。物欲、性欲、名誉欲。ありとあらゆる欲のその先にあるもの。そこには大切な人を殺された後の、復讐もある。後悔に苛まされる。そんなこんなのいくつものお話が淀みなく流れるように描かれていく。そして、やがてはひとつの答えへとたどりつくことになる。
世界を代表する巨匠の待望の最新作なのに、日本ではなんと劇場公開すらなされないまま、DVDリリースである。だが、その理由はわからないでもない。アート映画ならまだしも、こういう単純な娯楽映画を今の日本の観客は彼に求めない。
チェン・カイコーは、84年『黄色い大地』でデビューした。あの作品は劇場公開される前に何の予備知識もないまま、中国映画祭で見た。初めて見たあの時のあまりの衝撃は今も忘れることはない。それまでの中国映画は(今では考えられないことだが、)あまりレベルの高いものではなかった。そんな中、いきなりの彼の登場だったのだ。その後、チャン・イーモウが『紅いコーリャン』を作りベルリンで賞を取って注目されたが、出会った時の衝撃度ではその比ではなかった。続く2作目の『大閲兵』も1作目に勝るとも劣らぬ傑作で、ここから中国映画の歴史が始まったと言っても過言ではない。その後の大躍進はもう語るまでもない。
そんな彼なのだが、近年の作品は不遇だ。この作品も、日本ではまるで誰にも期待されないまま、数あるアクション映画の1本として埋もれてDVDリリースされても仕方がない。だが、僕が見たこの映画は、つまらないカンフー映画とは違う。期待通りのすばらしさで、興奮した。
こういう武侠映画を彼は撮りたかったのか、と溜飲を下げた。今まで誰もやらなかったことが、彼だからこそ、可能だった。これは彼の4作目である『人生は琴の弦のように』の流れを汲む作品である。あの時にはわからなかったことが今ならわかる。あの時には、「なぜ、こんな寓話を作るのか、」と思った。リアルな現実を見つめるハードな作品から一転して、あのファンタジーは何なんだ、と思った。あれから20数年が経ち、再び彼が挑むこのファンタジーを見た時、そこからは、中途半端な大作だった『プロミス
無極』の目指したものすらが、見えてきた。
派手なアクションシーン満載の娯楽活劇なのだが、そこにはとてもシンプルに人生の意味が描かれる。これは「人は何のために生きるのか」を問う哲学的な作品なのである。それを昔話として、(息子が父の若かりし日のお話を語る、というスタイルをとる)ほのぼのとしたタッチで、ゆっくりとしたスピードで、語る。アクションシーンも派手で、リアルじゃなく、いくつもの教条的な寓話を盛り込み、幼い子供に語るように見せていく。
世の中には自分よりもっともっと強い人がいる。この世界は広い。しかも、勝つことが戦うことの意味ではない。人間的に立派でなくては強くても意味はない。この映画は強くなるためのさまざまな修行が串団子式に描かれている。そのひとつひとつのエピソードを通して主人公は成長していく。なんとシンプルな映画だろう。
これがチェン・カイコーのたどりついたひとつの極致なのか。ここには悟空がお釈迦様の掌でした冒険のような旅が描かれる。本当の強さとは何か。人間の持つさまざまな欲。煩悩に打ち勝つとはどういうことか。物欲、性欲、名誉欲。ありとあらゆる欲のその先にあるもの。そこには大切な人を殺された後の、復讐もある。後悔に苛まされる。そんなこんなのいくつものお話が淀みなく流れるように描かれていく。そして、やがてはひとつの答えへとたどりつくことになる。