プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

楠本秀雄

2014-05-01 23:32:23 | 日記
1970年

ドラフト三位で指名されて入団した小西酒造の楠本秀雄外野手(21)=1メートル73、72キロ、右投げ右打ち=は徳島県立小松島西高の出身。この学校は、創立して日が浅く野球部が誕生したのも五年ばかり前。そんな関係で同校のプロ入り第一号が、楠本というわけ。学校側は、プロ選手の誕生に大よろこび。しかも入団先が名門タイガースとあって、このところ生徒間でタイガース・ファンが続出。「小松島という土地は、南海ファンが多いのですが、楠本君がプロ入りしたので、タイガースの人気がぐっと出てきました」とは、地元のファンの話で、このところ楠本の話で持ちきり。「来シーズンは、後援会でも結成して、船でノボリを押し立てて甲子園浜に上陸。応援にかけつけようと計画している」というファンも出るありさま。小松島は楠本、楠本。ちなみに同選手はベース一周十四秒四の俊足。ことしの都市対抗で三割二分、優秀選手に選ばれた。
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東出康博

2014-05-01 23:14:07 | 日記
1971年

島本の台頭に刺激されたか、同じ和歌山出身でプロ入り三年目の東出が大器の片リンを見せはじめた。若手中心の秋のオープン戦、甲子園での対阪神戦で代打に指名された東出は、阪神の一軍半平山から内角よりの速球を物すごいライナーで左翼席に叩きこんだ。「一軍でもあれだけのホームランを打てる奴はザラにいないぜ」と穴吹コーチは大喜び。この試合、島本も四打数二安打と頑張ったが、東出の豪快な一発の前には影が薄い。「やっぱり先輩は凄いですね」と後輩の島本に冷やかされて東出は「どや、オレを見習えよ」プロ入りはじめてふんぞりかえったのである。「根性もまずまずや」と未完の大器と惚れ込んでいた穴吹コーチも愛デシの成長に目を細めた。
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原野一博

2014-05-01 22:23:23 | 日記
1971年

「バッティングピッチャーなんてもうやりたくない」と原野投手が、このほど任意引退し競輪選手への道を選んだ。原野投手は山口県の竜谷高校出身でことしで四年目。上背はあまりなかったが下半身のバネは抜群、サイドからの速球には目を見張るものをもっていた。しかし、プロに入ってからは芽が出ず、ここしばらくはくさり切っていた。原野自身はずい分前から競輪選手になることを考えていたようだが、藤井寺の合宿を出るときは誰にも詳しい事情を言い残していなかった。だから合宿の同僚も「消息はさっぱりわからないが、競輪選手になりたいといっていたのは事実です。一体どこへ行ったのですかね」と首をひねっていたものだった。その後、原野は京都の友人宅に仮り住まいして、第二の人生を力強く踏み出していった。いま、原野は京都競輪界の指導者飯村直次理事長の指導を受けているが、テストで初めて乗った自転車は意外にのびたという。抜群の下半身が競輪選手にぴったりだったのかもしれない。一流アマレーサーは千メートルを五十四秒で走る。この記録にはやや遅れをとったが、平均レーサーの五十八秒より数段速い五十五秒を出したというから有望。これから練習すれば速度はさらにますはずだ。だが、競輪選手になるには自転車学校に入学しなければならない。そのテストは厳重で一年に一度しかない。この試験にパスするまでペダルを踏み続けるという。野球選手から競輪選手に転向して成功したのは元巨人の西野忠臣選手ただひとりだが、自転車振興会も大乗り気で「原野君の育成には努力を惜しまない」といっている。原野は流れる汗をぬぐおうともせずにこういった。「もう野球に未練はありません。一生懸命やったつもりだが、ぼくのような無名選手に出場の機会はめぐってこなかった。入団する時は名選手になろうと思ったが、いまではその夢も消えてしまった。すべてを忘れて競輪に打ちこみます」新しい職業に飛びこもうとする若者の表情は生き生きとしている。「競輪界にはA級、B級とありますが、やるからにはもちろんA級をめざしますよ」こう語る原野を期待をもって見守りたいものだ。
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大沢勉

2014-05-01 21:55:49 | 日記
1971年

捕手難を嘆いている東映でルーキー大沢捕手の株が上がっている。田宮監督、毒島コーチも「強肩で脚も速い。バッティングが一寸荒っぽいが、これさえ直ればなかなかやりそうだ」と、一日から始まった伊東キャンプではつきっきり。種茂に続く捕手として、大沢の台頭に大きな期待を寄せている。この大沢、秋田県能代高からノンプロ日鉱日立を経て入団したもので、日鉱時代は常時クリーンアップを打ち、昨年の都市対抗では日立製作所の補強選手として活躍した。昨年のアベレージは三割三分、本塁打十三本。パンチのある大型捕手として、将来性は十分というところ。大沢は「ノンプロや高校時代の仲間だった千葉(広島)や山田(阪急)にだけは負けたくない。当面は種茂さんに追いつき、追い越すこと。最後の大目標は野村(南海)さんです。とにかく一日も早く先輩投手のクセを呑み込んで、一軍入りをしたい」と大張り切りだ。「ハッスル・プレー」を売り物にする田宮・東映のアキレス腱と言われる捕手陣だけに、期待のルーキー大沢の成長が楽しみである。
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倉橋寛

2014-05-01 20:45:36 | 日記
1971年

プロ野球ーサラリーマンープロ野球と再度のプロ入りでカムバックを狙っている大洋の倉橋がきびしいスタートを切っている。二十六日の対ヤクルト戦(大洋・多摩川)の春季教育リーグで初先発したが、いきなり二点を取られて敗戦投手。この倉橋、仙台育英高校から四十年に南海入り。三年間在籍したが、公式戦には登板しないまま、自由契約。その後、サラリーマンに転向していたが、プロ野球選手への夢を捨てきれず、昨年十一月、川崎球場で行われた新人採用テストを受け合格したもの。一メートル七三、六九キロと中柄でスピードも普通。二十四歳という年齢的なハンデを背取っての再起は前途多難だが、「もう一度、プロで勝負したいと思ってテストを受けたところ、幸いにも合格しました。精いっぱい、自分の力をぶつければ、たとえ、失敗しても悔いは残りません」と闘志満々だ。移籍選手でも見事に再起した例は多い。くじけずに頑張ってほしいもの。
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大河原栄

2014-05-01 20:38:53 | 日記
・1974年、都市対抗野球の準優勝捕手。冷静な判断と強肩が売り。地味ながら着実に力をつけてきている。

1980年・年俸420万、81年・460万、82年・520万、83年・550万

ファーム成績
1981年・打率250、本塁打0
1982年・打率308、本塁打5
1983年・打率305、本塁打4「打率ウエスタン6位」

1980年
・10月19日の静岡球場で左腕・都がヤクルト相手にプロ初の完投勝ちをした。Wヘッダーの第2試合ということもあり、前試合にマスクを被った木俣に代わり、この試合で都の女房役をつとめたのが大河原であった。新日鉄八幡から中日入りして2年目。木俣のカゲにあって、なかなか出場機会に恵まれないが、都とバッテリーを組むと不思議に都の左腕が息を吹き返す。実は昨シーズン、都が初勝利をあげたのが、ところも相手も同じ、静岡球場のヤクルト戦「9月20日」。このときの捕手もやはり大河原で、彼の構えたミットに投げ込む都は、グイグイと速球で勝負したのが成功した。中日を代表する捕手といえば間違いなく木俣があげられるが、こと都に関していえば大河原と組んだとき、妙にウマが合って見違えるような投球をやってのける。「きょうの都はストレートが、じつによく走っていたので、それを生かすようにしてリードしただけなんですよ。ボクのリードがいいなんて、そんな・・」地味な人柄の大河原は、照れくさそうに話す。さて、来季は近藤監督が就任する。この人はコーチ時代から、バッテリーの呼吸を非常に重視する人だった。味方の投手や相手のチームの状況によって、若くて生きのいい大河原を積極的に活用していくはずである。「木俣の後継者」として大河原捕手の急成長が期待されるわけだ。
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