1959年
四週間にわたる暖国湯之元でのスプリング・キャンプを終えた中日ナインは、二十八日、一、二軍に別れて、それぞれ湯之元を出発、杉下監督以下の一軍は対大毎とのオープン戦に、二軍は宮坂二軍監督を総帥に次のキャンプ地別府へむかった。キャンプでは例年にみられない意欲的な練習法、つまり実戦向きの練習でかなりの効果を上げ、前評判も上々だっただけに、中日のオープン戦によせる期待は大きかった。ところが、二日熊本でおこなわれた大毎とのダブル・ヘッダーは、第一試合が5対0、第二試合も3対2で連敗、オープン戦のスタートは、はかばかしいものではなかった。
四回からは地元出身の新鋭成田がマウンドを踏み、スタンドからヤンヤの喝采を浴びたが、立ち上がりに小森に棒球を呈して柵越えされ、五回にも榎本、田宮らに打たれてしまった。しかし、以後は持前の威力あるシュート、カーブを駆使してミサイル打線を無得点に封じ新人としてはまず立派な成績だった。「シュート、カーブのコンビネーションさえマスターできれば、第一線登用は間違いない。さすがは三羽烏の一人」と杉下監督は勝敗とは別に大変な喜びよう。試合後、成田は、「プロは恐いですね。ちょっとでもコースを間違えようものなら、とたんに柵越えだ」と頭をかいていた。
四週間にわたる暖国湯之元でのスプリング・キャンプを終えた中日ナインは、二十八日、一、二軍に別れて、それぞれ湯之元を出発、杉下監督以下の一軍は対大毎とのオープン戦に、二軍は宮坂二軍監督を総帥に次のキャンプ地別府へむかった。キャンプでは例年にみられない意欲的な練習法、つまり実戦向きの練習でかなりの効果を上げ、前評判も上々だっただけに、中日のオープン戦によせる期待は大きかった。ところが、二日熊本でおこなわれた大毎とのダブル・ヘッダーは、第一試合が5対0、第二試合も3対2で連敗、オープン戦のスタートは、はかばかしいものではなかった。
四回からは地元出身の新鋭成田がマウンドを踏み、スタンドからヤンヤの喝采を浴びたが、立ち上がりに小森に棒球を呈して柵越えされ、五回にも榎本、田宮らに打たれてしまった。しかし、以後は持前の威力あるシュート、カーブを駆使してミサイル打線を無得点に封じ新人としてはまず立派な成績だった。「シュート、カーブのコンビネーションさえマスターできれば、第一線登用は間違いない。さすがは三羽烏の一人」と杉下監督は勝敗とは別に大変な喜びよう。試合後、成田は、「プロは恐いですね。ちょっとでもコースを間違えようものなら、とたんに柵越えだ」と頭をかいていた。