・高校3年時「兵庫育英」、公式戦16本塁打。同夏の県予選では毎試合2つ以上の敬遠をされていた。プロ3年目「1982年」ジュニア・オールスター出場。
ファーム成績
1980年・打率207・本塁打4
1981年・打率250・本塁打2
1982年・打率306・本塁打3
1983年・打率271・本塁打1
1981年
・ことし巨人の多摩川グラウンドで最もドなられた男、それが山崎だ。「一日に必ず、2回以上は叱られた」そして、そのグラウンドで最も練習した男も山崎である。ポスト山倉として昨年ドラフト2位で入団したぐらいだから、素質はドカベンこと香川「南海」より上、というふれ込みだった。なにしろ、ホームランを打ったボールがゆがんでしまったというエピソードの持ち主。実際、宮崎キャンプではポンポンとサク越えを連発して、鈴木伸、林とともにドジャースの留学生にも選ばれた。しかし、シーズンに入ると株は暴落。カーブは打てない、おまけに肝心の守りはお粗末。何でもないキャッチャーフライを捕れず「あんなの見たことない」と周囲を驚かせ、ちょっとキレのいい変化球はたて続けにパスボール・・・。肩はよくてもスローイングは遅いときては、投手陣の信頼も薄かった。そこへ、同期のライバル、与那城「都城」の登場だ。肩の故障が治って試合に出始める。「負けられない」ようやくノンビリ屋の闘志に火がついた。親友の上野が腰の故障で退団したことも発奮材料になった。「プロは記録を残してこそ。このままファームにいてはダメだ。2,3年先には山倉さんと競い合うようになりたい」連日、与那城らとともに、ベテラン杉山からリード、キャッチングなど捕手としての基礎訓練。この英才教育が実を結びつつある。ホームランを連発するパワフルな打撃は消えたが、確実性が増した。イースタンの試合でもマスクをかぶり続け、投手陣の信頼も取り戻した。ポスト山倉として今季、一番成長した男、それが山崎だ。
ファーム成績
1980年・打率207・本塁打4
1981年・打率250・本塁打2
1982年・打率306・本塁打3
1983年・打率271・本塁打1
1981年
・ことし巨人の多摩川グラウンドで最もドなられた男、それが山崎だ。「一日に必ず、2回以上は叱られた」そして、そのグラウンドで最も練習した男も山崎である。ポスト山倉として昨年ドラフト2位で入団したぐらいだから、素質はドカベンこと香川「南海」より上、というふれ込みだった。なにしろ、ホームランを打ったボールがゆがんでしまったというエピソードの持ち主。実際、宮崎キャンプではポンポンとサク越えを連発して、鈴木伸、林とともにドジャースの留学生にも選ばれた。しかし、シーズンに入ると株は暴落。カーブは打てない、おまけに肝心の守りはお粗末。何でもないキャッチャーフライを捕れず「あんなの見たことない」と周囲を驚かせ、ちょっとキレのいい変化球はたて続けにパスボール・・・。肩はよくてもスローイングは遅いときては、投手陣の信頼も薄かった。そこへ、同期のライバル、与那城「都城」の登場だ。肩の故障が治って試合に出始める。「負けられない」ようやくノンビリ屋の闘志に火がついた。親友の上野が腰の故障で退団したことも発奮材料になった。「プロは記録を残してこそ。このままファームにいてはダメだ。2,3年先には山倉さんと競い合うようになりたい」連日、与那城らとともに、ベテラン杉山からリード、キャッチングなど捕手としての基礎訓練。この英才教育が実を結びつつある。ホームランを連発するパワフルな打撃は消えたが、確実性が増した。イースタンの試合でもマスクをかぶり続け、投手陣の信頼も取り戻した。ポスト山倉として今季、一番成長した男、それが山崎だ。