プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

小谷正勝

2014-05-18 20:00:27 | 日記
1968年

ドラフト会議で第一番目に指名した国学院大・小谷正勝投手(21)=1㍍79、74㌔、右投げ、右打ち、明石高出=の入団が決まった。小谷投手は東都野球リーグの二部随一のエース。右腕から投げ下ろす速球とカーブは一部専門家の間で高く評価され、巨人前川スカウト部長もたいそうご熱心だった。ところが、東部二部の悲しさ、その名前すら知らない人がほとんど。大洋はドラフト会議ができてから昨年の松岡(明大出)といい、ほぼ無名に近い選手をトップにランクしてきた。小谷もその例にもれないわけだ。しかし、いざ交渉してみると、本人の「自信がない」ということにプラスして、ノンプロ日立製作所(日立市)に誓約書を提出しているほど。父親の浪蔵さん=牧畜業=をはじめ周囲はほとんど反対。別当監督が説得をしても駄目で、一時は絶望と思われていた。それを入団に向けさせたのは藤井二軍監督(前スカウト部長)らスカウト陣の総力の結集といえる。十二月も押し迫った二十四日に、「日立側の了解さえ得られれば」の態度軟化をみせると、関西駐在の高松スカウトが日参。一方、小谷は七日に上京すると日立側に働きかけ、十日、十一日、十二日と迫畑顧問、多賀人事部長、先輩の渡辺氏らに了解を求めにいくといった熱心さに、日立側もついに折れて入団となった。
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上領義晴

2014-05-18 19:36:40 | 日記
1969年

花やかな入団発表もなかった。しかし、晴れてことしから、あこがれの巨人のユニホームを着て自主トレに励んでいる新人選手がいる。呉港商業を出て、手薄な捕手の練習生に採用された上領である。練習生というのは、なかなか首脳陣の目にとまらず、いつとはなしに消えてしまうのが常であるが、上領の場合半年間の地道な努力が、寮長兼二軍コーチにカムバックした武宮に認められたのであった。「高校でもレギュラーでなかったくらいだから、技術的にはまだまだ問題にはならないヨ。でも素質はあると見ているんだ。練習には熱心だし、生活態度も合宿の模範生だヨ。この半年の努力を買って支配下選手にしたんだが、彼なら奮起するだろう」が、武宮コーチの推奨の言葉である。
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平林二郎

2014-05-18 18:06:44 | 日記
・主に代走、守備要員としての出場が多い、控え戦力としては欠かせない存在だ。フィールディングと走塁の技術は素晴らしく、後はスイッチヒッター転向を機に非力なバッティングをどう向上させるかである。

年俸「77年・480万」「78年・360万」「79年・420万」「80年・420万」「81年・450万」

1971年
・ジュニア・オールスター当時23盗塁をマークしていた盛田「中日」が一軍入りしたスキに、スルスルと抜け出し、文字通り鮮やかなスチールで逆転、34盗塁を記録した、5年目、平林「阪急」の活躍は見事だった。元来、その俊足は定評があったが打撃が非力。脚力兼備の阪急で一軍入りはまだ遠いが、地道に力を蓄えている。
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