1968年
記録男金田や稲尾のような大投手にとっては公式戦の1勝などそれほど感激はないだろう。だがプロ入団十年目で初勝利をあげたとなれば話はガラリと変わってくる。その投手の名前は東映・松本俊一投手(27歳)だ。松本にとって生涯最高の思い出になるだろう日は、開幕一週間目の十四日。場所は大阪球場だ。相手は今季優勝の最右翼にあげられている南海だった。この試合まで東映は三連敗の二勝四敗、およそオープン戦の好成績とは程遠い戦績に甘んじていた。「おい松ちゃん!投げてみろ・・」大下監督の思いがけない大声に、一瞬松本はわが耳を疑った。松本は腹にいっぱい力を入れると、マウンドまでスパイクの歯を立てて歩いた。スコアは六対二と南海が四点のリード。南海の三連勝はだれもが九分九厘堅いと思っていた。恐らく大下監督自身も・・・。
だが、松本はそのときこう自分にいって聞かせた。「オレはことしで十年目の選手だが、昨年限りで整理されてたかもしれない。それがプロで生きのびたのはピッチャーに転向したためだ。土橋さん(二軍コーチ)の期待に報いるためにも腕がちぎれるまで投げてやろう・・」と。松本は歯を食いしばって投げた。腹がすわってみると、不思議なほど心のゆとりがでてきた。ストレートも得意のスライダー、カーブもよく決まった。広瀬、キーオ、国貞など三イニングスで五個も三振を奪い無失点に押えた。いままで逆境に生きた松本に勝利の女神も微笑みかけないではいられなかったのだろう。七回宮原の左前タイムリーで三点目を入れ、六対三と詰め寄ると、八回には大杉が新山から劇的な満塁逆転大ホーマー。八回からは僚友の宮崎が二イニングを締めくくり、勝利は松本に転がり込んできた。「ありがとうミヤ(宮崎)」。プロ入団十年目でつかんだ初白星に、松本はこれだけいうのが精いっぱいだった。
松本は、昭和十五年九月十七日、久留米がすりと筑後川で有名な福岡県久留米市のかまぼこ屋さんの長男として生まれた。久留米人気質は昔からずる賢いことで知られている。だが松本はまるで正反対のおとなしいお人好しだった。松本を投手として育ててきた土橋コーチにいわせてみれば「青野や岩下など後輩にどんどん先を越されていくのに、ちっともカッカしているように見えん。もっと競争心を持たなくてはプロの世界では生きられん」である。それでも、松本が久留米商高から、三十四年東映に入団したときは、大型内野手として首脳陣から期待された。「背番号1」を与えられたことを見てもわかるだろう。ところが、軽快な守備に比べて打てないのだ。昨年までの九年間の通算打率1割8分4厘では守備要員にしか使えない。それでも、昨年は投手兼内野手として二足のわらじをはいてはいた。ところがことしの伊東キャンプから、どこを認められたのか投手一本になった。「ピッチャーをやったのは江南中学三年のときちょっとだけ。久留米商高で硬球を握ったときは三塁手だった」こう自分の体験を語る松本は内野手として壁にぶつかり始めた三十八年、知人から山口県宇部市厚南区第二原の女性を紹介された。この女性と清い交際が甘い愛に結晶し、ふたりが結ばれたのは翌三十九年一月十五日の成人の日だった。現在の幸子夫人だ。「ことしからピッチャーに決まったんですが、あれほど無口だった主人がそれは明るくなったんですよ。毎日練習から帰るとその日の出来事を冗談まじりに話してくれるんです」川崎市新作1333のアパートで、幸子夫人は主人の初勝利に目をうるませながらこう話す。横ではひと粒種の宣彦たん(三つ)がプラモデルを相手に遊びにこけている。「とにかく二年ほど前は、久留米の実家に帰って、かまぼこ製造と卸しの商売を受け継ぐんだといつも話していました。それがことしはピタリとやめてしまいました。それどころか、毎日のように、宣彦にTV映画サンダーバードに出てくる新兵器のモデルを買い込んできてパパがピッチャーでがんばって、もっと沢山買ってあげようねって約束するほどなんですよ」十四日の南海戦に十年目の初勝利をマークした松本が、川崎の留守宅で待つ幸子夫人の耳に、主人から喜びの電話がはいったのは、なんと翌朝の十時ごろだったという。「このアパートは呼び出し電話でしょう。だから夜遅く電話をかけると管理人に迷惑がかかると思ってあくる朝まで延ばしたんですよ。無口で大変な照れ屋さん。それが主人なんです」こういう幸子夫人自身も「プロ野球夫人になってほんとうによかった」と喜ぶ。