1966年
・・・・田中勉投手(二六)
福岡県三池工から東洋高圧大牟田に入社して第三十一、二回都市対抗野球(昭和三十五、六年)に出場、三十二回大会では日立製作所を2安打完封、準々決勝では富士鉄広畑の大工投手と十二回投げ合って引き分けている。この大会後西鉄入りし過去五シーズンで百七十三試合に登板、49勝49敗、この中には9完封が含まれている。1㍍78、75㌔、右投右打。なお、先に完全試合をやった大洋の佐々木党首も都市対抗(日石)で活躍、橋戸賞をもらっている。
五月はパーフェクトの季節なのだろうか。それとも過去十六年の完全試合の確率からみて約千七百試合に一回しか起こらないこの偶然のでき事には連鎖反応というのがあるのだろうか。とにかくまた一人、投手としてこれ以上完ぺきなもののない完全試合を記録した男が生まれようとしていた。七回、八回、大阪球場一塁側のスタンドがひどくざわめきを増す。グラウンドでは・・守る西鉄の野手は気の毒なほど、シャチこばっている。八回先頭打者の野村が田中勉のグラブを強襲した。「あーッ、いかん」-思わず声が出たとたん、船田が鬼のような形相でフォローした。間に合った。ハドリの二塁後方のフライも船田が中堅手の方に回り込んでとった。広瀬は2-3からセンターフライ。待ち受ける玉造の肩から指まで、ハガネをとおしたようにガチガチになっているのが遠目にもわかる。「フライをとるのが仕事」の外野手には、何の変哲もない当りだろう。でもこの場合、ただのフライではない。玉造がグラブの奥深くおさめるまで、だれも目を離した者はなかった。いよいよ九回、代打のブルーム、井上が連続ストレートをカラ振りして三振。二十七人目に打撃コーチ兼任の杉山が止め男を買って出たが、二ゴロ、仰木がおがむようにしてつかむとソーッと一塁投球。「やった」。その瞬間、中西監督とともに、ベンチにいる選手の大半がマウンドへかけ上がった。和田捕手が田中勉をだきかかえてぐるぐる回す。みんながポンポンからだをたたく。一塁側南海ファンもヤジをやめて立ち上がりにくらしい男に祝福を送ったのは美しい場面だった。十一日前、佐々木は大洋の六連敗を食い止め、この夜田中勉は西鉄の五連敗に終止符を打った。これまでいためつけられた分を勝負の神が「完全試合」というすばらしい形でまとめて返してくれた点で、二つのケースは似ていた。やられたチームが広島と南海、ともに打撃好調のチームというのも、野球のふしぎさに輪をかけていた。「六回にいつもヘバるんですがね。シュート、フォーク・ボールは使いましたが、カーブはほとんどなし。ストレートで押していったのがよかったのですね」と和田捕手。「小細工しないのが、彼の持前のピッチングですよ」と中西監督。本当にそうだ。質問とフラッシュの雨を浴びる田中勉は、おそらく何と答えたかおぼえていないだろう。だが、その答え方はしっかりしていた。「シュートがよくきいた」「最後の杉山さんがいやだった」「何が何だかわかりません。うれしいという意識だけはたしかです」といっていた。「完全試合を意識したのは四回から」だそうだ。佐々木も同じようなことをいっていた。多少おこがましいように聞こえるかもしれないが、投手というものは試合開始の第一球を投げるとき「きょうは一本も打たれないぞ」とだれだって思うのだろう。それに失敗するのは投手につきまとう宿命のようなものだが、佐々木が、そして田中が二十七の難関を幸福にも突破できたのだった。
・・・・田中勉投手(二六)
福岡県三池工から東洋高圧大牟田に入社して第三十一、二回都市対抗野球(昭和三十五、六年)に出場、三十二回大会では日立製作所を2安打完封、準々決勝では富士鉄広畑の大工投手と十二回投げ合って引き分けている。この大会後西鉄入りし過去五シーズンで百七十三試合に登板、49勝49敗、この中には9完封が含まれている。1㍍78、75㌔、右投右打。なお、先に完全試合をやった大洋の佐々木党首も都市対抗(日石)で活躍、橋戸賞をもらっている。
五月はパーフェクトの季節なのだろうか。それとも過去十六年の完全試合の確率からみて約千七百試合に一回しか起こらないこの偶然のでき事には連鎖反応というのがあるのだろうか。とにかくまた一人、投手としてこれ以上完ぺきなもののない完全試合を記録した男が生まれようとしていた。七回、八回、大阪球場一塁側のスタンドがひどくざわめきを増す。グラウンドでは・・守る西鉄の野手は気の毒なほど、シャチこばっている。八回先頭打者の野村が田中勉のグラブを強襲した。「あーッ、いかん」-思わず声が出たとたん、船田が鬼のような形相でフォローした。間に合った。ハドリの二塁後方のフライも船田が中堅手の方に回り込んでとった。広瀬は2-3からセンターフライ。待ち受ける玉造の肩から指まで、ハガネをとおしたようにガチガチになっているのが遠目にもわかる。「フライをとるのが仕事」の外野手には、何の変哲もない当りだろう。でもこの場合、ただのフライではない。玉造がグラブの奥深くおさめるまで、だれも目を離した者はなかった。いよいよ九回、代打のブルーム、井上が連続ストレートをカラ振りして三振。二十七人目に打撃コーチ兼任の杉山が止め男を買って出たが、二ゴロ、仰木がおがむようにしてつかむとソーッと一塁投球。「やった」。その瞬間、中西監督とともに、ベンチにいる選手の大半がマウンドへかけ上がった。和田捕手が田中勉をだきかかえてぐるぐる回す。みんながポンポンからだをたたく。一塁側南海ファンもヤジをやめて立ち上がりにくらしい男に祝福を送ったのは美しい場面だった。十一日前、佐々木は大洋の六連敗を食い止め、この夜田中勉は西鉄の五連敗に終止符を打った。これまでいためつけられた分を勝負の神が「完全試合」というすばらしい形でまとめて返してくれた点で、二つのケースは似ていた。やられたチームが広島と南海、ともに打撃好調のチームというのも、野球のふしぎさに輪をかけていた。「六回にいつもヘバるんですがね。シュート、フォーク・ボールは使いましたが、カーブはほとんどなし。ストレートで押していったのがよかったのですね」と和田捕手。「小細工しないのが、彼の持前のピッチングですよ」と中西監督。本当にそうだ。質問とフラッシュの雨を浴びる田中勉は、おそらく何と答えたかおぼえていないだろう。だが、その答え方はしっかりしていた。「シュートがよくきいた」「最後の杉山さんがいやだった」「何が何だかわかりません。うれしいという意識だけはたしかです」といっていた。「完全試合を意識したのは四回から」だそうだ。佐々木も同じようなことをいっていた。多少おこがましいように聞こえるかもしれないが、投手というものは試合開始の第一球を投げるとき「きょうは一本も打たれないぞ」とだれだって思うのだろう。それに失敗するのは投手につきまとう宿命のようなものだが、佐々木が、そして田中が二十七の難関を幸福にも突破できたのだった。