プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田中勉

2014-05-08 22:29:45 | 日記
1966年

・・・・田中勉投手(二六)
福岡県三池工から東洋高圧大牟田に入社して第三十一、二回都市対抗野球(昭和三十五、六年)に出場、三十二回大会では日立製作所を2安打完封、準々決勝では富士鉄広畑の大工投手と十二回投げ合って引き分けている。この大会後西鉄入りし過去五シーズンで百七十三試合に登板、49勝49敗、この中には9完封が含まれている。1㍍78、75㌔、右投右打。なお、先に完全試合をやった大洋の佐々木党首も都市対抗(日石)で活躍、橋戸賞をもらっている。

五月はパーフェクトの季節なのだろうか。それとも過去十六年の完全試合の確率からみて約千七百試合に一回しか起こらないこの偶然のでき事には連鎖反応というのがあるのだろうか。とにかくまた一人、投手としてこれ以上完ぺきなもののない完全試合を記録した男が生まれようとしていた。七回、八回、大阪球場一塁側のスタンドがひどくざわめきを増す。グラウンドでは・・守る西鉄の野手は気の毒なほど、シャチこばっている。八回先頭打者の野村が田中勉のグラブを強襲した。「あーッ、いかん」-思わず声が出たとたん、船田が鬼のような形相でフォローした。間に合った。ハドリの二塁後方のフライも船田が中堅手の方に回り込んでとった。広瀬は2-3からセンターフライ。待ち受ける玉造の肩から指まで、ハガネをとおしたようにガチガチになっているのが遠目にもわかる。「フライをとるのが仕事」の外野手には、何の変哲もない当りだろう。でもこの場合、ただのフライではない。玉造がグラブの奥深くおさめるまで、だれも目を離した者はなかった。いよいよ九回、代打のブルーム、井上が連続ストレートをカラ振りして三振。二十七人目に打撃コーチ兼任の杉山が止め男を買って出たが、二ゴロ、仰木がおがむようにしてつかむとソーッと一塁投球。「やった」。その瞬間、中西監督とともに、ベンチにいる選手の大半がマウンドへかけ上がった。和田捕手が田中勉をだきかかえてぐるぐる回す。みんながポンポンからだをたたく。一塁側南海ファンもヤジをやめて立ち上がりにくらしい男に祝福を送ったのは美しい場面だった。十一日前、佐々木は大洋の六連敗を食い止め、この夜田中勉は西鉄の五連敗に終止符を打った。これまでいためつけられた分を勝負の神が「完全試合」というすばらしい形でまとめて返してくれた点で、二つのケースは似ていた。やられたチームが広島と南海、ともに打撃好調のチームというのも、野球のふしぎさに輪をかけていた。「六回にいつもヘバるんですがね。シュート、フォーク・ボールは使いましたが、カーブはほとんどなし。ストレートで押していったのがよかったのですね」と和田捕手。「小細工しないのが、彼の持前のピッチングですよ」と中西監督。本当にそうだ。質問とフラッシュの雨を浴びる田中勉は、おそらく何と答えたかおぼえていないだろう。だが、その答え方はしっかりしていた。「シュートがよくきいた」「最後の杉山さんがいやだった」「何が何だかわかりません。うれしいという意識だけはたしかです」といっていた。「完全試合を意識したのは四回から」だそうだ。佐々木も同じようなことをいっていた。多少おこがましいように聞こえるかもしれないが、投手というものは試合開始の第一球を投げるとき「きょうは一本も打たれないぞ」とだれだって思うのだろう。それに失敗するのは投手につきまとう宿命のようなものだが、佐々木が、そして田中が二十七の難関を幸福にも突破できたのだった。
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森安敏明

2014-05-08 21:09:19 | 日記
1966年

背番号32番が小さく見えるほど、大きな背中の東映森安敏明投手が、公式戦初のマウンドに登った。さてウォーム・アップの第一球を投げようとふり向いたとき、なんとホーム・プレートには六人の審判員が、彼の方を向いて並んでいた。試合前の国旗掲揚のセレモニーを忘れていたのだ。一回を十三球で投げ切ったとき、水原監督のアドバイスを帽子をとって不動の姿勢できいた。しかし、こんな虫メガネのような観察で、ういういしさを発見しない限り、これが十八才の少年投手であるとは信じにくかった。

木樽(銚子商ー東京)堀内(甲府商ー巨人)牧(高鍋高ー南海)ら今シーズンはおおぜいのルーキー投手が両リーグにはいった。木樽が甲子園で名を売ったのに対し、岡山関西高の森安は、センバツの優勝校・岡山東商の平松(日本石油)の名にかくれていた。しかし昨年の新人選択会議で東映が希望順第一位にあげ、産経とかち合って抽選でとった大物。オープン戦で随一の実績をあげ、予想どおりこの夜公式戦登場一番乗りを果たした。そのうえ完投、完封、初勝利・・。森安にはなまじっかの脚光を浴びたことのない無冠の男の力強さがあり、早くも「新人王はオレだ」といわんばかりだった。豊かな未来を持つ森安の公式戦第一球は、胸もとをつくシュートのストライクであり、第一打者広瀬を外角スライダーで三振にうちとった。スリー・クォーターからくり出す右腕は、ムチのようにしなり、投手の森中を含めて五人の左打者をならべた南海打線も、しきりに空を切った。二回野村のバットが折れそうになりながら辛くも右前へはじき返したのが、ただ一本のヒットらしいヒットだった。新人殺しでは定評ある南海の古強者たちが、逆にバタバタと新人にナデ切られていった。

野村を迎えたとき西園寺が、小池を迎えたときは種茂が、森安のところへかけよった。弟のデビューを盛り立てようと、兄貴分たちは心を使った。その兄貴分たちは、気持ちはそうでも、実際はなんどか弟の足を引っぱった。凡飛をテキサス安打にし、五回は宮原が飛球を落として一死二、三塁のピンチに森安を追いこんだ。堀込の痛烈な一塁ライナーがとんだときは、東映ベンチも東映ファンも息をのんだ。しかし一瞬併殺で終わったとき、森安は「当たり前さ」というようにベンチへ帰っていった。こうして森安は、新人王の先輩、尾崎をしのぐ末恐ろしいデビューを飾った。新人投手の初登板シャットアウトは、両リーグを通じて村山(阪神)以来七年ぶり、二十五年に二リーグ制になってから通算7人目の快挙だ。
黒山のような記者団の前で「試合の前に教わった打者のクセを思い出しながら、慎重に投げました。でもまだ打者の胸もとへのストレートののびやコントロールが足りません。いや、あがっていたんですよ。まあ65点の投球ですね」と話す口調が、また落ちついていた。おどろいたことに、ほとんど汗もかいていなかった。童顔に無精ヒゲが五㍉ほど。年に似合わず、この少年の力強さの象徴のようにのびていた。
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佐藤文彦

2014-05-08 20:44:47 | 日記
1983年
・ドラフト外、契約金300万。昨秋の川崎球場での公募テストに合格。家業の電器店で働くかたわら、クラブチームで活躍していた。当分は打撃投手をしながら実戦のマウンドを目指す。
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