プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

大塚徹

2014-05-11 21:52:24 | 日記
1975年・年俸300万
「南海時代」
・39年に産経アトムズに入団したが、ほとんど代打生活。47年、ホークス移籍後も相も変らず代打ひと筋に生きている。気は滅法強い。

1970年
・「毎日野球をやるのが、こんなにも楽しいとは思わなかった」トオルこと大塚外野手が7年目でつかんだレギュラーの生きがいを明るい表情で語った。この男、400勝投手・金田が在籍中たわむれの相撲で「金田天皇」をズッデンと投げ飛ばした怪力と度胸の持ち主。野球センスもあり歴代の首脳陣にも期待をされていた。ところが、入団後数年はどうも落ち着かず、私生活で再三のルール違反を犯した。あるときはコーチにこぶが出るほど殴られ、又あるときは数ヶ月も自宅謹慎を命じられるほど脱線が多かった。1番ショックだったのは飯田監督のころに命じられた自宅謹慎で「ふるさとの川でつり糸をたれながら自分の将来を考えました。でも、もう一度野球がやりたくでどうしょうもなかった」そうだ。その後、謹慎が解け大塚は再びヤクルトのユニフォームを着ることができた。捕手から外野へポジションは変ったが、いつかレギュラーになってみせると努力したのであった。
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土橋修

2014-05-11 19:03:30 | 日記
1967年

交通戦争のさなか、チームに痛ましい犠牲者が出た。若手の土橋修投手(22)で、同投手はオフの間を利用して和歌山で自動車学校に通っていた。ところが十二月十九日夕、学校からの帰り道、和歌山市六十谷の六十谷橋で、乗用車にはねられ頭部打撲、両足骨折の重傷。すぐに和歌山市本町の堀口外科に入院したが、頭を強く打ったのが致命傷となり、二日後の二十一日午後十時二十分、同病院で他界した。同投手はノンプロから二年前球界入り。長身を利してのソツのない投法は高く評価され、三年目の四十一年、一軍入りが約束されていた逸材。人間的にもおとなしく、万事控えめで、同僚、先輩から可愛がられていた。阪神ではもちろんはじめての犠牲者で、球界でも自動車事故で死亡したのは中日の加藤斌投手についで二人目。同投手のメイ福を祈るナインは、あわせて「事故をなくそう」と語りあっている。
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古川明

2014-05-11 14:43:09 | 日記
1971年

古川は二年生(銚子商出身)だが、こちらは投手として大洋のテストを受けて失敗。ロッテは下手投げのバッティング投手として採用され、大沢二軍監督に見出されて三塁手に転向、一躍注目を集めてきたテスト生上りの有望株で、今では「一千万円積まれても手放せないよ」と大沢二軍監督からべた惚れされるほど。打率も三割一分一厘と合格点だが、なんといっても売り物は脚。これまで五試合連続盗塁を含め、前半戦に二十六盗塁。六月には合計十三盗塁をやるなどイースタンきっての走り屋で各チームのバッテリーを泣かせている。昨年の盗塁王山下(巨人)が三十二個、二位の吉岡(ロッテ)が二十六個だから新記録も時間の問題だろう。古川は「上位チームの時にやらなきゃ意味がない。巨人、ヤクルト戦で走りまくって今年は五十盗塁を目標に頑張ります」と大変なファイト。一軍のシーズン百三十試合に対してイースタンの方は、各チーム十六試合総当たりの一チーム六十四試合だから古川のペースはとにかく凄い。年々小さくまとまった選手が多くなった中で、自分の武器をフルに生かす古川のような選手の台頭は一服の清涼剤というところだ。後半戦の活躍ぶりに注目したい。
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牧憲二郎

2014-05-11 11:52:27 | 日記
1972年

「選手権に投げさせてもらい、つくづくと阪急へ来てよかったと思いましたね。独特の雰囲気があるといわれますが、別にアガらなかったです。巨人とはオープン戦で投げているし、球も走っていましたからね」牧(阪急)が日本シリーズ第二戦(後楽園球場)のマウンドを踏んで、感激していた。味方がリードされていたこともあって気楽に投げられたらしいが、2イニングスを0点に押えている。秘密兵器の役割りを果したことになる。南海を自由契約になり、阪急のバッティング・ピッチャーに拾われてから三年目。ことしのオープン戦での好投が認められたものの、その後、一進一退。一時ウエスタンと一軍のかけ持ちで頑張っていたこともあるが、努力が報われた。「選手権で投げるのが夢でしたからね。うれしかったですね。ここまで来れたのも女房のお陰です」と俊子夫人に感謝していた。それというのも、牧がファーム暮らしを続けているときも、ほとんどバッティング・ピッチャーが専門で、一軍のローテーション入りの望みが薄れたときも、「そのうちにチャンスがきます。頑張ってくださいよ」と夫人は栄養に気を配ったり、短気を起こして自暴自棄にならないように、励ましてきたからだ。「家の壁に女房が張ってくれた、心は丸く、気は長くを眺め、嫌なことも忘れて希望をもって生きてきたのがよかったのでしょう」と牧はいう。ちょっとした愛妻物語だ。
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安木祥二

2014-05-11 10:49:11 | 日記
1969年

「ウチの秘密兵器だから技術的な質問にはお答えできません」山根コーチが報道陣にやんわり釘をさしている有望ルーキーが、産経の左腕安木投手である。クラレ岡山から今年入団。岡山関西高では三年生から硬式に転向し、クラレ岡山でもリリーフ専門で通算十勝十敗とそれほど実績はないが、左腕から繰り出すキレのいい速球とシュートは素晴らしく評判がいい。一目惚れした別所監督も「ウチがドラフトで指名した左投手は千藤(拓銀)山口(岩国高)安木の三人。そのうち入ったのは安木だけだけど、この調子なら三人分の働きが期待出来そうだよ」と高い評価ぶり。一メートル七九、七〇キロと長身だがやや細く、体質的には「尻がもっと大きくなれば申しぶんない」(山根コーチ)というところだが、巽、渋谷の両左腕投手が年齢的に限界にきているだけに、首脳陣の期待の大きさもわかろうというもの。「佐伯キャンプではカーブのコントロールをつけたい。森安さん(東映)とは高校の一年後輩。江夏とは同期で同じ年だから、二人に負けないような速球投手になって早く一勝をあげてみたい」とファイト満々だ。浅野、簾内、松岡という若手の三羽烏に割り込んで秘密兵器として台頭するかどうか。春のオープン戦が楽しみなサンケイのルーキー安木である。
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田中調

2014-05-11 04:08:13 | 日記
1970年

森安とともに八百長事件に巻き込まれた田中が、先月二十八日東京球場で行われた対ロッテ十八回戦で、今季初の完投勝利で三勝目をマークしたが、この夜はTV中継もあっただけに完投後の田中は大喜びでこう語る。「いまごろ初完投なんて遅すぎたけど、黒い霧事件があっただけに、テレビを通じてマウンドでお詫びできたと思うとやはりうれしいね。これを踏み台に残り試合に全力投球するだけ。幸いカーブもよく曲がるようになったしシュートも切れるようになった」翌二十九日は、美智子夫人も、東京球場へ観戦にかけつけ、帰りには仲よくそろって都内で内祝いの食事をしてビールで乾杯。田宮代理監督も、「田中のカムバックでローテーションがぐっと楽になった。特にサウスポーなのでロッテ戦にはこれからもきっといいピッチングをしてくれるだろう」とニコニコ顔。
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小川弘文

2014-05-11 03:52:01 | 日記
1971年

開幕の東映二回戦から逆転サヨナラ勝ちを演じて、昨年と違う粘りのあるところを披露している西鉄である。選手層も厚くなり、選手のなかにも気骨のあるものが見られるようになった。その一人がテスト入団の小川だ。九回裏の西鉄の最後の攻撃は二点のハンディを持っていたが、竹之内の長打で一点差とし、なお満塁。代打起用の小川は、ここで死球押し出しの同点。これが逆転劇へのお膳立てとなった。だが、小川の死球は田中の投げるカーブを避けようとするでもなくむしろ呼び込んで左肘に受けたようなもの。「わざと球に当った」と東映の抗議が出たが受け入れられなかった。小川は「別に当りにいったのではないが・・」と死球も勝つためには恐れないといった豪傑ぶりである。監督と意見が合わず広島をおん出た暴れん坊は西鉄に根性を吹き込む男である。
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西村俊二

2014-05-11 03:44:57 | 日記
・内野ならどこでもこなす器用さがあり、軽快なグラブさばきは玄人受けする。コツコツと努力を重ねるタイプで地味ながらチームに貢献をみせている。課題は非力なバッティングで右打ちは得意だが、もう少しミートの技術を進歩させないと定位置は狙えない。十分にレギュラーとしての資質があるだけに体当たりの気迫がほしいところだ。

「1975年・年俸360万」「76年・350万」「77年・370万」「78年360万」「79年・480万」「80年・590万」
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