プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鳥坂九十九

2014-05-25 22:16:11 | 日記
1978年
・近鉄の鳥坂九十九投手が今シーズンから、巨人のバッティング投手として再スタートすることになった。近鉄時代の背番号が「99」。自分の名前通りの99番は球界で最も大きい数字だった。2年越しの交渉で手に入れた愛着ある背番号。だが昨年暮れ、自由契約をいい渡されて退団を余儀なくされていた。そこへ巨人からバッティング投手の誘いを受け、再びユニフォームを着ることになった。ところが問題は背番号。巨人には「90番」の長嶋監督がいる。「いくら99番をつけたいと思っても、まさか長嶋監督より大きいものはつけられません。何番でもいいです」とあっさり返上したのである。ジャンボ仲根と同期入団。ファームでは2試合に登板しただけだが、明るく素直な性格は誰からも好かれていた。
「100パーセント完璧な人間にはならなくてもいい。しかし、99パーセントの人間になれるように努力する男に」父親の願いが込められてつけられた名前「九十九・・つくも」。王、張本の恋人として注目を集める日も、そう遠くはないだろう。「元気でやっているか。オレのことは心配するな。みんないいヤツばかりだ」このほど藤井寺の近鉄時代の親友・仲根宅に、
こんな多摩川からの手紙が舞い込んできた。
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近藤重雄

2014-05-25 20:55:02 | 日記
1970年

川崎コロンビア時代

川崎コロンビアは、五強がひしめいていた川崎市予選を四戦全勝で、抜け出したチームでその原動力となったのは、社会人十年目の近藤重投手であった。第三十五回大会(昭和三十九年)に、決勝戦まで駒を進めて、そのときに敢闘賞の久慈賞に輝いた近藤重は、今シーズンはコーチを兼業しノックバットを持つ日が多かった。それでも、予選が始まるとじっとしておられず主戦・矢野を凌ぐ働きで予選の最高殊勲選手賞と最優秀投手賞を一人占めした。この近藤は、右腕から外角低目をつく速球を主体とし、カーブとシュートの制球力がいい。
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石床幹雄

2014-05-25 19:55:40 | 日記
1965年

注目を集めた新人選択会議で阪神は大穴あて他球団スカウトも度胆を抜かれたという。この大穴は四国の石床幹雄投手。オリーブで知られる小豆島出身のまったくの無名選手である。土庄高では二塁手兼リリーフで第二投手。むろん甲子園にも出たことがない。そんな埋もれた大器を見出したのは佐川スカウトで、一目みてゾッコンほれたとか。リリーフ投手だったのも、「二年生のとき高松高から転校したので、一年間出場できなかったからだ。シュートがよくてまれにみる本格派だ」という。もっと、したり顔なのは戸沢社長、藤本総監督ら。「だれも知らんかったやろ。けど実力派堀内なんかよりあると思う。来春のキャンプが楽しみや」と他球団のウラを完全にかいたこともあたって得意満面。
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三橋豊夫

2014-05-25 13:28:43 | 日記
1971年

「これまでいろいろな新人と話をしてきたが、彼ほど素直な性格な持ち主をみたことがない」と、松園オーナーを感服させたのが、日通浦和から入団してきた三橋(みつはし)投手。「ノンプロ時代はほとんど直球ばかり投げてきました」という大型サウスポーに、球団では元国鉄が生んだ大投手、金田兄の背番号を三橋のために用意したほど大きな期待をかけている。出身校は、甲子園とは無縁の埼玉県立鴻巣商、タマは滅法速いがどこへいくか自分には分からない・・というところまで金田兄の若いころにそっくり。育ての親というべき日通浦和稲葉監督の反対を振り切って、あえてプロ入りしただけに、相当の決意と根性の持ち主とみた。唸りを生じて投げ込まれる金田二世の快速球がいまから楽しみである。
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