想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

続、ビンボー性な脳みそ

2010-06-05 15:24:23 | Weblog
脳はヒマだと(使っていないと)ぼんやりするはず。いつもぼんやりしているから
脳が働かないのではなく、逆である。考えない主人をもった脳は考える材料が
ないから働かないのである。タルタルになりかけるのである。

ところがビンボー性の脳は、材料を自ら探し働く。いや働かざるをえないに近い
状態で、ぼんやりゆったりタルタルなんてできない。
次々に考える材料を求め、追いかけ、キチッとケリつけないと気が済まないのである。
断わっておくがこれは脳の主人が貧乏性だというわけではない、脳の話だ。

ただし、おしゃべりおばさんの類、目に止まったものにはすべて反応し、誰も聞いて
いなくても実況中継しちゃうタイプの脳は別物である。
あれは末梢神経の活動であって脳をフルに活用して思考しているわけではない。
脳のぼんやり状態と紙一重でビンボー性とは逆の現象である。

脳はパキパキと働いている間は安心である。おちついて仕事に没頭し、充実して
ドーパミンまで出動し、勢いがいい。結論が出るまでそれは続く。
そして考える対象、素材がなくなる不安さえあるので、一仕事終え、ちょっと休もうかと
休んでいる間にまたネタをみつけるのである。
こういう脳はビンボー性なのであるが、持ち主の主人はどちらかといえば賢いとか
勤勉とか他人に思われるかもしれない。

しかし主人はビンボー性な脳をさほど喜んではいないのが実情である。本音をいえば、
ぼんやりしたい。よって、どうするかというとビンボー性な脳が満足することを探し、
できるだけ効率のよく充足してくれるように図るのである。
飼いならしてナンボの脳であるからコントロールの技を磨いていく。

回転数があがると次は難易度を高くすることを自然と求めるのが脳である。
小林秀雄の見事に整った文章を難解だと言ってしまう人がいるかと思えば役立つなんて
言っている某ノー科学者もいるが、核心をつくための思考をそのまま言葉に置き換えた
ものは、同じ思考経路をたどることによって理解できる。
難解だと感じるのは思考を共有できないからで共感ではなく一時的に共有できれば
わからなくはない。共有し→反論若しくは共感するというプロセスだ。
ただ、共有してるかどうか不明な時点で、なんか、コレいい! と感じ、他人に薦めたく
なったり吹聴したくなったりする人もいる。

それを真に受け、どれどれと文庫本を手にし、ウソ? とつぶやくのは時間の問題だが、
コレいい!と言った方は、久々に餌を貰って興奮状態にある脳である。
最期までケリつけず喜びに溺れるタイプの脳で、ビンボー性ではなくバブルっぽい脳。
踊りやすいし踊るのが好き、あるいは流行りモンには一応通じてるよ風な主人に乗っかって
いるのでそこそこ忙しくしている。どっちかといえば思考の深化は苦手である。早くいえば
小器用なタイプ。ウソとかゴマカシ技が得意である。

言葉を使うとさらにそれを言葉で説明するという厄介を伴う場合があって、それはあまり
心地よいものではない。スパッと言葉は相手に届くほうがいい。
難解など言っているのは、思考訓練と体験をおろそかにした脳で読むからだけのこと。
ビンボー性な脳を飼いならしておけば、日本人が日本語を読み日本語で思考することは
むしろやさしいのである。
小林秀雄の文章は、正しすぎるほどの日本語であり、日本人の聡明さである。

断わっておくが、「ビンボー性な脳」という表現はカメの講義からのパクリ、んだもんで、
うさこに文責を求めても無駄である。

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ビンボー性な脳みそ

2010-06-04 15:23:27 | Weblog
(4月末頃の庭、昼下がり、親分とアルファ親分カメが疲れを癒すの図)


(そして5月、新緑の庭)

肉体は栄養素を取り込んで活動する、ということは取り込むだけで活動させないと
余った分が脂肪になる。老廃物も毒も増える。酸化スピードが速まり、老化促進。
使わない筋肉は、即衰える。
ジムで鍛えた身体は都会を離れたらどうなるか? 田舎では車ばかり乗って歩きも
しないからすぐに脂肪化する。厳しい荷重をかけた肉体労働をやるなら別だが。

そこで話は筋トレでなく脳トレのこと。一時期はやったDSでの脳トレ、今もやってる人
いるんだろうか。計算問題で間違うとどんどん年齢が上がっていくのでショックを受け
さらにハマってトレーニングしつづけるあのゲーム。
あれで実年齢より若くて喜んだ人がけっこういるかもしれない。
脳みそは使わないとタルタルソース、にはならないが、弛むことは間違いない。
鈍くなる。だから川島教授(だったっけ?)の脳トレは一理あるけど、だから何?って
領域を出ない。あれは子供のゲーム、大人の暇つぶしにはよいだろう。

真に受けてはバカである。いや、バカにすんじゃねー、と言わねばならんと思うのだ。
でもその脳と、ここで言う脳はちょっと違う。
計算など算数の得意な人、そろばん上手はたくさんいるんだからお願いすればよし。
しかし「考えるために使う脳」、「哲学できる脳」「感じる脳」はそこここに転がってはいない。
なぜなら、なるべく考えないようにスルーする技術(つまり処世術)を身につけていくのが
間違えない生き方と思い込んでいる人が多数派である。
考えたりしたら苦しくて生きていけん、ということなのだろう。

ちらと思ってはみても、その先をさらにつっこんで考えれば夜は昼の続きのように長くなり
すぐにまぶしい光の朝がやってくる。
会社へ行っても仕事が手につかず、はたまた家で洗濯してても槽をじっとみつめていたり
しかねない。日暮れて晩飯も喉を通らず、またもや寝付かぬ長い夜を引き継ぐ、を繰り返し
答えを出すまえに、心身のバランスを壊す、ということになりかねない。
そう思うと考えないほうがいいへ傾く。考えすぎは身体に悪いよ~とよく言われるし、
(自分にではないのに、そういう声はよく聞こえ、すばやく我が物とする凡人の常である)
深く考えることをやめ次の問題、課題へと移行し、先へ先へとつき進む。なんとなく充実
してるカンジ~? と錯覚して日を送り歳を取っていく。

哲学することは専門家に任せておけばよし、下手に考えるのが好きなんて言ったりすると
変人のレッテルを貼られるので用心用心、そういう人は地下へもぐる。(いや、地下では
暮らせないので押入れか? いや、黙っているだけだろうな、いやネットでバーチャルか?)
考えることを去勢することによって、またあたかも専門家され分業化されたようにみせかける
ことによって資本主義社会が成り立っていると言っても過言ではないだろう。
愚衆と言われたとしても誰も自分を指しているとは思わぬくらい、それは浸透している。
考えない、つまり脳は鍛えられていない。
(つづき次)

ビンボー性の脳みその場合はどうか。
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迷子猫ハチ

2010-06-03 14:51:36 | Weblog
ボケ気味の写真はシマコじゃなくて、ハチである。
仕事場近くの電柱にあった貼り紙の迷子猫「ハチ」によく似ているので、
ハチ、と呼びかけると逃げない。まっすぐこちらを見てお座りしたままだ。
それからハチと呼んでいる。
貼り紙に書いてあったケータイ番号へ最初連絡したのが3カ月ほど前であった。
同じ場所で再び見かけたのが10日ほど前で、ハチとまた呼んだ。
ハチは「うん」と返事しているような眼つきであった。

気になったが親分連れであるのでそのまま別れて、翌朝同じ場所へ行くと
ハチはいた。またまっすぐに座ってこっちを見ていた。
それで迷ったけれど貼り紙の主へ二度目の電話をしてみた。

「まだ探していますか? ハチって子のことですが」と聞いた。
「はい、探しています。でも前にも見たけど違ったんです、よく似た猫が
そのあたりに飼い猫でいるらしくて。
ハチは里親探しの広告で引き取った子で、なかなかなつかず家出癖があって
困ってたんです、まだ探してはいるんですが…、これからすぐに見に行きます」
慌ただしく電話は切れ、見に来るかなーとしばし待っていたが。
いや、うさこも親分と同じ場所に居続けるわけにいかず立ち去ったので
来たかこないかはわからないのであった。心配だった。

そして翌々日、ハチと会った、同じ場所で。
どうしたんだい? と声をかけてみた。ハチは目を細める。
むむむ、うさこと親分を警戒しない? 覚えてくれた? と勝手にしゃべる。
だが野良なのであまり近寄ると逃げるかもしれない、そろそろと横移動して
周囲を観察した。
ここは元アパートの敷地で今は廃屋と化し、いい感じで草ぼうぼうである。
野良猫にはもってこいの棲み家とみた。
ハチは数か月前からずっとここにいたのだな、ご飯はどうしてたんだろう?



森の小道でときおり猫とすれ違う。シマコ一族以外にも何種類かいる。
シマコはうちの食客として数年を過ごしているが、ほかの猫は森で狩りを
している。シマコだってカリカリも食べるが、ネズミも野鳥も獲る。
ハチは虫を食べているんだろうか。あまり太っていないから、食糧事情は
厳しいのかもしれない。

都会では野良猫の餌やりが裁判になったりするし、厳しく禁じている場所も
ある。嫌う人も多い。
ハチにご飯食べさせたいと思いながら、そんなことが頭をよぎる。



また見に行き小さな声で呼びかけながら探すと、ハチは草むらで寝ていた。
ああ、こんなところで昼寝かよ、と思ってハチ、ハチ、と呼ぶとこっちを向いた。
ケータイを取り出しカメラモードにしてズーム、1.5メートルくらい先だ。
アップで見ると、なんだかシマコ家の顔立ちにそっくりだった。
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アンチ・モノ的

2010-06-01 15:43:44 | Weblog
iPadもiPhone もまだ未定のうさこです。ツィッターもしません。
流行モンにすぐ手を出していた若かりし頃を思えば世間の大騒ぎは
わかります、でも大騒ぎからだんだん遠ざかり、今はすっかり静まって
森の奥へとかけこむ日々です。
しあわせです、はい、静かなので。

別に理由を述べたてるほどでもありませんが、iPadは「要らない」から
気にならない。電子書籍もゲームも要りません。
本は紙で読んだほうが好きだし、音楽はダウンロードよりCD、ジャケットや
ライナーノーツにこだわるからです。

ピーター・バラカン氏が話していました、最近の若い人は音楽はiPodに
入れて聞くからCDを貸してもすぐに返してくると。
そういえば昔、レコードを貸すとなかなか返してくれなくて困ったものです。
テープに録ったりしてもジャケットを手放したくなくて返さないのでした。
音楽を座って聞く、というのと移動中のイヤホンで聞くというのは全然違う
のです。考えながら聞く、イメージを追いかけながら音楽を読むように聴く
ということをおそらく作り手は願っているのではないかと思います、いい
音楽ならそうなんじゃないかと。

なんでも流してしまう、すぐに手に入れようとする、すぐに答えを求めたがる。
そのスピードでは、なにかを残したり作ったりすることはできないでしょう。
ただ急いで先へ先へと時に運ばれて、振り返ると飽きてしまったモノが
残骸としてある。答えをネットで検索したり、すぐに他人に聞いたりして
「あっそ」でもう終わってしまう。何で知りたかったのか?も忘れたり。
そういう感じで暮らしていると息苦しくならないんだろうか。

今、新しいモノを欲しがるのと同じように、残骸を拾ってもういちど手にとり
いったいコレは何だ? とあらためてじっとちゃんと見つめてみると面白い
かもしれません。

いったいコレは何だ? は人それぞれです。規格のない何かがあるはず。
モノの話でしたが、残骸はモノに限らず、自分という残骸、人の思いの影、
振り返ってじっとみつめると、宇宙の発見みたいにびっくりすることだって
わかったりします。






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