脳はヒマだと(使っていないと)ぼんやりするはず。いつもぼんやりしているから
脳が働かないのではなく、逆である。考えない主人をもった脳は考える材料が
ないから働かないのである。タルタルになりかけるのである。
ところがビンボー性の脳は、材料を自ら探し働く。いや働かざるをえないに近い
状態で、ぼんやりゆったりタルタルなんてできない。
次々に考える材料を求め、追いかけ、キチッとケリつけないと気が済まないのである。
断わっておくがこれは脳の主人が貧乏性だというわけではない、脳の話だ。
ただし、おしゃべりおばさんの類、目に止まったものにはすべて反応し、誰も聞いて
いなくても実況中継しちゃうタイプの脳は別物である。
あれは末梢神経の活動であって脳をフルに活用して思考しているわけではない。
脳のぼんやり状態と紙一重でビンボー性とは逆の現象である。
脳はパキパキと働いている間は安心である。おちついて仕事に没頭し、充実して
ドーパミンまで出動し、勢いがいい。結論が出るまでそれは続く。
そして考える対象、素材がなくなる不安さえあるので、一仕事終え、ちょっと休もうかと
休んでいる間にまたネタをみつけるのである。
こういう脳はビンボー性なのであるが、持ち主の主人はどちらかといえば賢いとか
勤勉とか他人に思われるかもしれない。
しかし主人はビンボー性な脳をさほど喜んではいないのが実情である。本音をいえば、
ぼんやりしたい。よって、どうするかというとビンボー性な脳が満足することを探し、
できるだけ効率のよく充足してくれるように図るのである。
飼いならしてナンボの脳であるからコントロールの技を磨いていく。
回転数があがると次は難易度を高くすることを自然と求めるのが脳である。
小林秀雄の見事に整った文章を難解だと言ってしまう人がいるかと思えば役立つなんて
言っている某ノー科学者もいるが、核心をつくための思考をそのまま言葉に置き換えた
ものは、同じ思考経路をたどることによって理解できる。
難解だと感じるのは思考を共有できないからで共感ではなく一時的に共有できれば
わからなくはない。共有し→反論若しくは共感するというプロセスだ。
ただ、共有してるかどうか不明な時点で、なんか、コレいい! と感じ、他人に薦めたく
なったり吹聴したくなったりする人もいる。
それを真に受け、どれどれと文庫本を手にし、ウソ? とつぶやくのは時間の問題だが、
コレいい!と言った方は、久々に餌を貰って興奮状態にある脳である。
最期までケリつけず喜びに溺れるタイプの脳で、ビンボー性ではなくバブルっぽい脳。
踊りやすいし踊るのが好き、あるいは流行りモンには一応通じてるよ風な主人に乗っかって
いるのでそこそこ忙しくしている。どっちかといえば思考の深化は苦手である。早くいえば
小器用なタイプ。ウソとかゴマカシ技が得意である。
言葉を使うとさらにそれを言葉で説明するという厄介を伴う場合があって、それはあまり
心地よいものではない。スパッと言葉は相手に届くほうがいい。
難解など言っているのは、思考訓練と体験をおろそかにした脳で読むからだけのこと。
ビンボー性な脳を飼いならしておけば、日本人が日本語を読み日本語で思考することは
むしろやさしいのである。
小林秀雄の文章は、正しすぎるほどの日本語であり、日本人の聡明さである。
断わっておくが、「ビンボー性な脳」という表現はカメの講義からのパクリ、んだもんで、
うさこに文責を求めても無駄である。
脳が働かないのではなく、逆である。考えない主人をもった脳は考える材料が
ないから働かないのである。タルタルになりかけるのである。
ところがビンボー性の脳は、材料を自ら探し働く。いや働かざるをえないに近い
状態で、ぼんやりゆったりタルタルなんてできない。
次々に考える材料を求め、追いかけ、キチッとケリつけないと気が済まないのである。
断わっておくがこれは脳の主人が貧乏性だというわけではない、脳の話だ。
ただし、おしゃべりおばさんの類、目に止まったものにはすべて反応し、誰も聞いて
いなくても実況中継しちゃうタイプの脳は別物である。
あれは末梢神経の活動であって脳をフルに活用して思考しているわけではない。
脳のぼんやり状態と紙一重でビンボー性とは逆の現象である。
脳はパキパキと働いている間は安心である。おちついて仕事に没頭し、充実して
ドーパミンまで出動し、勢いがいい。結論が出るまでそれは続く。
そして考える対象、素材がなくなる不安さえあるので、一仕事終え、ちょっと休もうかと
休んでいる間にまたネタをみつけるのである。
こういう脳はビンボー性なのであるが、持ち主の主人はどちらかといえば賢いとか
勤勉とか他人に思われるかもしれない。
しかし主人はビンボー性な脳をさほど喜んではいないのが実情である。本音をいえば、
ぼんやりしたい。よって、どうするかというとビンボー性な脳が満足することを探し、
できるだけ効率のよく充足してくれるように図るのである。
飼いならしてナンボの脳であるからコントロールの技を磨いていく。
回転数があがると次は難易度を高くすることを自然と求めるのが脳である。
小林秀雄の見事に整った文章を難解だと言ってしまう人がいるかと思えば役立つなんて
言っている某ノー科学者もいるが、核心をつくための思考をそのまま言葉に置き換えた
ものは、同じ思考経路をたどることによって理解できる。
難解だと感じるのは思考を共有できないからで共感ではなく一時的に共有できれば
わからなくはない。共有し→反論若しくは共感するというプロセスだ。
ただ、共有してるかどうか不明な時点で、なんか、コレいい! と感じ、他人に薦めたく
なったり吹聴したくなったりする人もいる。
それを真に受け、どれどれと文庫本を手にし、ウソ? とつぶやくのは時間の問題だが、
コレいい!と言った方は、久々に餌を貰って興奮状態にある脳である。
最期までケリつけず喜びに溺れるタイプの脳で、ビンボー性ではなくバブルっぽい脳。
踊りやすいし踊るのが好き、あるいは流行りモンには一応通じてるよ風な主人に乗っかって
いるのでそこそこ忙しくしている。どっちかといえば思考の深化は苦手である。早くいえば
小器用なタイプ。ウソとかゴマカシ技が得意である。
言葉を使うとさらにそれを言葉で説明するという厄介を伴う場合があって、それはあまり
心地よいものではない。スパッと言葉は相手に届くほうがいい。
難解など言っているのは、思考訓練と体験をおろそかにした脳で読むからだけのこと。
ビンボー性な脳を飼いならしておけば、日本人が日本語を読み日本語で思考することは
むしろやさしいのである。
小林秀雄の文章は、正しすぎるほどの日本語であり、日本人の聡明さである。
断わっておくが、「ビンボー性な脳」という表現はカメの講義からのパクリ、んだもんで、
うさこに文責を求めても無駄である。