『ハンニバル・ライジング』上下(新潮文庫)を購入。
最近なかなか街の本屋さんの棚をゆっくり物色する至上の時間を持てないので、本、特に海外小説はタイトルと雰囲気でコレと思ったら速攻買うのですが、今度ばかりは数分迷いました。00年の『ハンニバル』で、「こんなモノを『羊たちの沈黙』以来12年間も、首を長くして待ってたのか!?」と自分に対する怒りさえ湧いてきて、もう金輪際このシリーズは読まないし映画も観ないぞ、と心に誓った苦い経験があるので。
00年という年自体をいま振り返っても、“『ハンニバル』に失望かつ立腹した”以外何ひとつ思い出せないほど。
節度のかけらもないペダンティックたれ流しで、作者の自己陶酔と映画化タイアップギャラとの取引の産物としか思えない、こけおどし見せ場てんこ盛りのブッたるんだ内容もさることながら、訳文に品がないのがイヤだったんですね。「~みたいな」「~みたいに」を濫発する修飾フレーズ。「~のように」「~であるかのごとく」「~とでもいったふうに」など幾つも選択肢があり、明らかにより適切な語が他にあると思える箇所が、軒並み塗り潰したように「~みたいな」。生硬と言う向きも多いけれど、月河は同じ新潮文庫の『羊たち~』の訳文のほうが断然好きでした。なんとなく、行間・ページ間に、北国の朝まだきを思い出させるさむざむとした空気が漂っているんですよね。それゆえにレクター博士のみならず、善玉悪玉、主役脇役、すべての人物が青黒い影を帯びて見えてくる。
『ハンニバル』は総じてイタリア、特にフィレンツェを舞台に進む話なので、それも相性が悪かった一因かもしれません。
それでもまぁ、久しぶりに本屋さんの店頭に立ったとたんに、“ハンニバル”の文字に出会うと、「呼ばれちゃったか」という天運に近いものを感じてしまう。カバー袖の“主要登場人物”をさらっと見るとリトアニア、パリ、ソ連…おぉ、待望の“さむざむ感”が匂うではないか。カバー裏の内容紹介にもナチス、バルバロッサ作戦、ソ連軍とドイツ軍の戦闘…月河の大好きフレーズがキラ星の如くこちらに囁きかけている(弱)。
結局陥落してレジへ。上巻246頁、下巻250頁というヴォリュームも一冊ずつ持ち歩くのに手頃。外出の途中で上巻読み終えちゃいそうだから下巻も持って出るか…というとき、ともに分厚いとかさ張ってしょうがないですからね。
なんだかんだ言っても、上巻読み進めながら「コレ終わってもまだ下巻がある」という充実感って、小説読み好きにはこたえられないんだな。何年か前の所ジョージさんのジャンボ宝くじのCM「一億使ってもまだ二億」の世界ですか。これが全5巻とか6巻になると、充実感というより閉塞感に近くなってしまうのですが。
帰宅して『美味(デリシャス)學院』第8話をリプレイ。そっかー、マシュー(三浦涼介さん)には美人のお姉さんがいたのね。写真が心なしか、三浦さんのリアルママ・純アリスさんのお若い時分に似てましたよ。没収したあの写真に心乱されたせいで土方(河合龍之介さん)のパスタ茹でのタイミングが狂い、勝負は接戦になったんだけど、マシューはそれに気がついていないわけだ。マシューの勝ちにしてあげてもよかったような気もするけど、勝ちより大きなものを彼はつかんだ、ということなのね。
高杉凛役・相葉弘樹さんが回を追うごとによくなってきてます。「飾るよ?(←やわらかーく半疑問形)」もいいけど、あの前触れも必然性もなくいきなり来るカメラ目線がいいんだよね。相葉くんも、演じながら「そうか、こういうふうにやればこれぐらいカッコいい(orおもしろい)のか」という手応えがつかめてきている様子。あと、似たようなルックスレベルの若手イケメンくんが複数集まると、若手ゆえ微妙な個性とか演技のギミックで差別化できる段階ではないので、とりあえず注目を惹くことにおいて“背が高い”ってのはやっぱり有利かも。
次回の沖田(永山たかしさん)とのデリシャスバウト餃子対決が楽しみです。ギョーザにレインボー・デコレーションの出番はあるのかな。