★川崎航空機工業は戦前からあった会社で、
明石と岐阜に工場があり、戦時中は航空機の製造をしていたのだが、
明石工場は「エンジン」岐阜工場は「機体」を造っていた。
戦後再開後も明石はジェットエンジンのオーバーホールや発動機の各種エンジンなどの開発生産を行っており、
その中の一つに単車のエンジンがあって、それを明発工業に提供していたのである。
その後川崎航空機工業自体が単車事業に進出することになり、
川崎明発工業を傘下に収め、「カワサキ自動車販売」と言う社名の販売会社を創り、神田・岩本町にその本社があったのだが、
社長は川崎航空機の専務が兼務されたが、
従業員の殆どは「カワサキ明発」の社員であった方たちだった。
★ 川崎航空機工業の明石工場に単車営業課が出来たのは、前回既述したように昭和36年12月のことなのだが、
当時の明石工場の人達は、エンジンは専門家もいたが、
こと二輪車に関しては、殆ど全員が素人で何にも解っていなかったのである。
そんな中で、当時の兵庫メグロの西海義治社長だけが「二輪車」に詳しくて、当時の単車事業部の人達の多くが大いに西海さんの影響を受けたのである。
西海さんは前身はプロの「オートレーサ」で特にレースに関心をお持ちだったのである。
★青野ヶ原のモトクロスの完全優勝のこの写真をご覧になった方は多いと思うが、
この青野ヶ原モトクロスの「仕掛け人」が西海義治さんなのだが、
それにはさらに前段がある。
この青野ヶ原モトクロスは昭和38年(1963)6月なのだが、
その前年昭和37年(1962)11月に新装なった鈴鹿サーキットで開催されたMFJ第1回全日本ローレースに、
当時の製造関係の人達をバスを仕立てて観戦させたのも西海義治さんで、
初めてロードレースを見た製造部の人達は燃え上がってしまって、
「カワサキもレースを」と言うことになったのである。
当時、レーサーを仕上げることなどカワサキの人達はまだ出来なかったので、
西海さんは子飼いの「松尾勇」さんを製造部に送り込んで、
青野ヶ原に出場したレーサーを創り上げたのである。
★ カワサキの初めてのレースは1位から6位までの完全優勝と成るのだが、
このライダーたちは製造部の従業員で別にライダーでもなかったのに、なぜ1位から6位までの独占できたのか?
これは当日雨になり、レース場は水溜りばかりになって、
他社の早いマシンはみんな水の中で止まってしまったのだが、
カワサキの実用車のような125B8だけが止まらずにみんな走り切ったからなのである。
そんなことでこの勝利は神様がカワサキに援けて下さったのだと思う。
余談だが、このレースには後カワサキのエースライダーとなった山本隆もヤマハのマシンで出場していたのだが、
彼のマシンも水の中で止まってしまったようである。
★このレース出場は、実は会社での正規の出場ではなくて、
製造部の有志が勝手に出場したもので、予算もなかったし大変だったのである。
なぜ、私がこのレースのことを結構詳しく知っているのかと言うと、
当時の営業部の上司の小野助治さんもこのレースには関わっていて、
私には「金の面倒を見るように」と言う指示があったし、
私の下にいた川合寿一さんがチームのマネージャー役で援けたのである。
★ この写真の真ん中が神武事業部長だが
ここに写っている方々は、その後のカワサキの単車事業を支えた方たちであると言っても過言ではない。
この写真になぜ私が写っていないのか?と不思議に思うほど殆ど全員が密接に関係のあった方々なのである。
後列の真ん中が小野助治さんで当時の直接の上司だし、
個人的には私の仲人さんなのでもある。
さらにこの辺りの方が直接このレースに関わった方々で、
中村治道さんがこのプロジェクトの中心だが、
中村さんは明石の出身で明石高校の先輩だったし、
高橋鐵郎さんとはホントに40年間近く密接な関係だった。
川崎芳夫さんは私の1年先輩だが、川崎重工業の創業者・川崎正蔵さんの曾孫さんである。
その他マルで囲んだ方たちは私と仕事の上でも密接に関係があった方たちで、右が川合寿一さんなのである。
★このレース以降、
カワサキもレースの世界に正規に進出することになり、
私はその責任者となってレース関係を統轄することになるのである。
カワサキが最初に契約したライダーたち
カワサキコンバットの三橋実・梅津次郎・岡部能夫
神戸木のクラブの歳森康師・山本隆 である。
本格的なレースの話はまたの機会に。