★昭和36年(1961)12月15日に新しくできた「単車営業課」に出社した時、
小野部長から一番最初に「物品税をよく検討してくれ」と言われたのである。
突然で「何のことか?」と思ったのだが、
それが単車営業課で最も重大な事項であることは直ぐ解ったのである。
前年度の昭和35年度から製造部門では新しいカワサキの単車の一貫生産が始まったのだが、
生産していた機種は「125ccのB7」と
「50㏄のM5」で、
これ以外にも井関の依頼を受けて「井関のタフ50」も生産していたのだが、
この中で「125B7」がフレームに欠陥があり、毎日返却されてくる状況だったのである。
エンジンは川崎航空機の技術者の設計だが、車体はまだよく解らないので明発工業に依頼したのだが、その車体に問題があったのである。
そんなことで返却が続き、翌月の1月度は返却が生産・出荷台数を上回って「マイナス17台の生産・出荷」になるほどの返却台数だったのである。
★ 当時はぜいたく品に掛けられる「物品税」と言うのがあって、
50㏄には掛けられないのだが、125cc以上の機種には、工場出荷時に1台ごとに物品税が掛けられていたのである。
その物品税の納入は申告税だから、工場出荷時に台数分の物品税額を納入すればいいので、そんなにムツカシクはないのだが、
それが返却された場合は「戻入手続」さえすれば収めた物品税額が戻ってくる仕組みなのである。
ただ、その「戻入手続」は簡単ではなくて、1台ごとの税務署の立ち合い検査があり、なおかつ「工場出荷時と同じ状態」と言う規定で、メータ―が回っていたら「戻入されない」ので若し少しでも乗っていたら、
「メーターの巻き戻し」などをやらねば税金は戻ってこないのである。
戻ってくる台数が半端ではないので、この「戻入手続き」は大変だったのである。
★12月から翌年春先にかけて「125B7の返却」は続き、
その「戻入手続き」が当時の営業の主たる業務で、毎日明石税務署の署員さん立ち合いの「戻入検査の対応」が続いたのである。
さらにいうと、これは「申告税で大阪国税局の直接の管轄」なので、
戻入検査は明石税務署員がやるのだが、申告先は大阪国税局なのである。
当時は単車事業スタートしたばかりだから、
誰も「物品税」のことなど解っていなくて、
申告だけはカワサキ自販に販売した台数分だけ納入していたのだが、
納入台数は販売台数ではなくて「工場からの出荷台数」なので、
当時工場内にいた「カワサキ自販の兵庫営業所への販売」は除外しないといけないのだが、それも間違っていたのである。
大阪国税局の監査でそれを指摘されて「知りませんでした」と言ったら、
「君は知らなくても、川崎航空機が知らなかったとは言えない」
「物品税は申告税だから体刑もありうる」などと脅かされたりして、
その対応は本当に大変だったのである。
この物品税は、平成元年(1989年)4月「消費税」が導入されるまで続いたが、
その後はこんな大きな返却などはなかったので問題にはななかったのである。
★カワサキの最初に発売した車125B7はこんなに大変な車だったので、
1962年の秋のモータショーには125B8が発表され、
1963年度初めから市場投入がされたのだが、
この車は結構評判が良かったし、6月の青野ヶ原のモトクロスも
このB8のモトクロスレーサーだったのである。
ただ、最初のクルマの125B7が大変なことだったので、
スタートしたばかりのカワサキの単車事業は大赤字で、
川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきかどうか」を日本能率協会に調査を依頼したのである。
その調査期間中に行われたレースで「1位から6位まで独占の完全優勝」だったことから、
製造部をはじめ、職場の意気は盛んで、そんな末端の状況を見た日本能率協会は「この事業続けるべし」と言う判断をして、
1964年1月に新単車事業部として再スタートすることになるのである。
その再開の条件の中の一つに「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、
本社はその広告宣伝課に1億2000万円の予算を3年間、開発費として提供することになるのだが、
私の年俸が40万円の時代だから1億2000万円は莫大な予算なのである。
その新しく創られた「広告宣伝課」を私が担当することになるのだが、
その話は次回に・・・