林檎乃「とほほ・・・。」ブログ

林檎乃麗の「とほほ・・・。」な日常を綴っています。 

 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅24.

2025-03-20 | 鉄道・旅行

 24.浜松の餃子と混乱のホーム-予定変更

浜松を通り越し、ひとつ先の天竜川で駅取材し、
このあと10:49天竜川発の豊橋行きで浜松まで戻る。

浜松駅のホームは思った以上に混んでいた。
浜松から東京までは新幹線が走っているので、
ここで在来線と乗り換える客が多いのだろう。
浜松の有人改札を青春18きっぷで出て、
事前に予定していた「五味八珍・浜松駅ビル・メイワン店」に行く。
開店直後の訪問にもかかわらず、店内は混んでいた。

ここで浜松餃子とらーめんのセット1,210円を喰う。
ラーメンは醤油をチョイスした。

オーダーした商品を待つ間に、
今朝ニュースで見た新幹線の運転見合わせが気になり、
スマホでニュースを検索してみた。
朝の段階では「運転再開見込みは早くても正午以降」となっていたが、
11:30a.m.に検索してみるとJR東海からは、
「復旧作業は夕方までかかる」と情報修正されていて、
豊橋18:51発の「ひかり660号」にも影響が出そうな見通しだ。
朝の段階では昼過ぎ復旧予定、昼になると夕方復旧予定、
もしかしたら夕方には終日運休になるかもしれない・・・。
ここで朝、改札を入る前に、
旅行用バッグをコインロッカーに預けたことを後悔した。
もし、この段階で新幹線での帰京を断念するとしたら、
在来線を乗り継いで帰京するという選択肢もあった。

 12:50浜松-東海道本線・熱海行(163/2:43)-15:33熱海[16]
 15:49熱海-上野東京ライン・高崎行(64/1:04)-16:53大船[72/1:12]

  ※夕食

 18:05大船-横須賀線・総武快速線(83/1:23)-19:28津田沼

浜松から熱海まで2時間43分の移動はかなりしんどいが、
それでも昼過ぎからであれば浜松から在来線でも十分に帰ることが出来る。
荷物を持っての移動だったらこの判断が妥当だったであろう。
ただ、豊橋のコインロッカーに荷物を預けてしまっているので、
いったん豊橋まで戻らなければならない。
もし、豊橋まで戻るとすると、

 12:46浜松-東海道本線・豊橋行(32)-13:18豊橋[24]

  ※コインロッカー取出

 13:42豊橋-東海道本線・浜松行(34)-14:16浜松[9]
 14:25浜松--東海道本線・熱海行(157/2:37)-17:02熱海[5]
 17:07熱海-上野東京ライン・籠原行(57)-18:04大船[63/1:03]

  ※夕食

 19:07大船-横須賀線・総武快速線(82/1:22)-20:29津田沼

となる。
豊橋まで戻っても、何とか当日中には帰宅出来る。
そこでこのあと豊橋まで戻り、コインロッカーで荷物を取り出し、
豊橋から青春18きっぷでの帰京を試みることにした。
ただ、考えてみれば新幹線切符の払い戻しが24分で可能かどうかも気になる。
もしかしたら豊橋で13:42発には乗れないかもしれない。
それでも当日中の帰京は可能であろう。
そう思って浜松餃子を堪能したあと、浜松駅を青春18きっぷで入場した。
しかし浜松駅ではあまりにも乗客が殺到したため、
ホームへの入場制限が掛けられていた。
これには途方に暮れてしまった。
浜松から東京までの区間は東海道新幹線が走っているため、
浜松で在来線に乗り換えて名古屋や大阪に行こうという乗客が、
浜松駅の在来線ホームに殺到しているようだ。
これでは「五味八珍・浜松駅ビル・メイワン店」で考えた計画は実行が難しい。
ここで豊橋に戻る計画は断念せざるを得なくなった。

下り方面の乗客は入場制限が掛けられているが、
上り方面へ向かう人はホームへの入場が許可された。
そこで取り敢えず、上り方面の列車に乗り込み、
取材済みの天竜川の隣、豊田町に行くことにした。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅23.

2025-03-19 | 鉄道・旅行

 23.東海道本線高塚と天竜川の駅取材

舞阪で駅取材し、09:56で隣の高塚に行く。

JR高塚駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
南口側の単式ホームは1番線に付番、下り方面が使用、
島式ホームは2番線、3番線に付番され、上り方面が使用する。
2番線が下り主本線となっていて、
3番線を発着する定期列車はなく、実質的には予備ホームとなっている。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含めて、
1888年9月1日に開通したが、
この時には駅は設置されなかった。
1911年3月31日に高塚信号所が設置され、
翌年、1922年4月1日に高塚信号場に改称された。
この信号場が1929年7月1日に駅に昇格された。
橋上駅舎化されたのは2015年3月1日である。

高塚で駅取材し、10:18発の浜松行きを待つ。
混雑の影響で、この列車は3分遅れだった。
終点の浜松で下車すると隣に熱海行きの列車が接続を待っていた。
そこで予定にはなかったが、これに乗り込み、隣の天竜川まで行く。
浜松で昼食に浜松餃子を喰うつもりでいたが、
少し時間がは早かったので、時間潰しの意味もある。
10:25浜松発の熱海行きで隣の天竜川まで行く。

JR天竜川駅は島式2面4線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は上り待避線、2番線は上り主本線、
3番線は下り主本線、4番線は下り待避線となっているが、
現在では1番線、4番線の待避線はほとんど使われていない。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含めて、
1888年9月1日に開通したが、
この時には駅は設置されなかった。
開通から約10年後の1898年7月10日に開業した。
現在の橋上駅舎が供用を開始したのは2017年9月24日である。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅22.

2025-03-18 | 鉄道・旅行

 22.東海道本線弁天島と舞阪の駅取材

新居町から09:11で隣の弁天島に行く。

JR弁天島駅は島式1面2線の高架ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は下り方面、2番線は上り方面が使用する。
ホーム幅が広く、改札口はホーム上にいる。
また、自動改札のない臨時改札口も見受けられる。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開通しているが、
弁天島に駅が出来たのは1906年7月11日で、
同年9月11日には廃止され、実質的には海水浴客のために臨時駅だった。
翌年の1907年にも臨時駅として6月15日に開業している。
通年営業の駅に昇格したのは1916年9月1日で、
現在の駅舎が完成したのは1972年5月1日である。
弁天島は浜名湖の河口の北側に周囲約7kmの島で、
この地は舞阪町(現・浜松市)と新居町(現・湖西市)との土地争いのため、
御料地として扱われていた。
1899年に地元に払い下げられたが、再度紛争となった。
戦時中の1942年に新居町の弁天島部分が舞阪町に編入になった。
そのため、通年駅に昇格した時、
駅舎の建設費用は舞阪町側が負担した。

折角弁天島駅に来たのだから、駅名の由来となった弁天島を見に行くことにした。
駅前の国道301号線を地下道で渡り、弁天島海浜公園に行く。

遠くに赤い大きな鳥居が見える。
新幹線の車窓から浜名湖を通過する時に何時も気になっていた。
ここは遠江八景「弁天夕照」として夕暮れ時の鳥居が有名のようだが、
勿論それまでは待っていられないので、
09:35弁天島発の区間快速浜松行きで隣の舞阪に行く。

JR舞阪駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
南口側の単式ホームは1番線に付番、下り方面が使用、
島式ホームは2番線、3番線に付番され、上り方面が使用する。
2番線が下り主本線となっていて、
3番線を発着する定期列車はなく、実質的には予備ホームとなっている。
橋上駅舎化されている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含めて、
1888年9月1日に開通し、
この時、「馬郡」の駅名で開業した。
同年12月1日に「舞坂」に改称された。
現在の表記の「舞阪」になったのは1940年6月1日だった。
橋上駅舎化されたのは2003年11月15日である。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅21.

2025-03-17 | 鉄道・旅行

 21.東海道本線鷲津と新居町の駅取材

新所原を08:29に出発した列車で隣の鷲津に行く。

JR鷲津駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線ホームを有する東海道本線の駅である。
駅舎に隣接する単式ホームは1番線に付番、下り方面が使用、
島式ホームは2番線、3番線に付番、
2番線は上り方面が使用、3番線は予備ホームとなっている。
駅舎側のホームと島式ホームは跨線橋で結ばれている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開業したのと同時に開業した。

高架下には「ようこそ『技術立国発祥の地』湖西市へ」という掲示が、
ひっそりと立っていた。
湖西市は豊田佐吉、喜一郎が生まれた町で、
そのことが紹介されていた。
豊田佐吉は現在のトヨタ自動車をはじめとするトヨタグループの創始者で、
もともとは豊田自動織機という機織り機の会社を立ち上げ、
その息子の豊田喜一郎が国産自動車会社を立ち上げ、
トヨタが世界に通ずる自動車会社になる礎を作った。

鷲津を08:56に出る列車で隣の新居町に行く。

JR新居町駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線ホームを有する東海道本線の駅である。
画像は南口で、こちら側の単式ホームは1番線に付番、
下り副本線となっているが、定期発着列車の設定はないが、
浜名湖競艇の開催時などに臨時列車が使用することがある。
島式ホームは2番線、3番線に付番、
2番線は下り方面が使用、3番線は上り方面が使用する。
北口駅舎と各ホームとは跨線橋で結ばれている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開業したが、
この時に駅は設置されず、
新居町に駅が出来たのは1915年1月10日である。
駅所在地は静岡県湖西市新居町新居で、
駅名は駅所在地から来ているが、読み方が違っていて、
駅名は「あらいまち」だが、地名は「あらいちょう」となっている。

浜名湖の南側に位置し、ホームからはボートレース浜名湖も見える。

ホームで隣の弁天島行きを待っていると、貨物列車が通過していった。
牽引機はEF65形2096号機だった。
EF65形は1965年に登場した、
国鉄が平坦路線向けに開発した直流電気機関車である。
2000番台は国土交通省の省令で100km/hを超える運転を行う車両について、
運転状況記録装置の搭載が義務付けられた。
そのため、この装置の搭載義務のないJR貨物の車両については、
原番+1000による改番が行われた。
つまりEF65形2096号車は、元EF65形1096号機である。

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ホームページ更新

2025-03-16 | 更新情報

「Station-駅から始まる物語」を第1758回更新しました。

2025.JR東海道本線共和駅を公開いたしました。

https://ringono.nengu.jp/


「REI RINGONO status」を第464回更新しました。

「か」に京浜急行本線金沢文庫駅を新規公開いたしました。

http://signboard.gionsyouja.com/


「REI RINGONO Railway Encyclopedia」を第666回更新しました。

「ディーゼル機関車 図鑑」にDE10形1557号機を公開いたしました。

http://encyclopedia.shikisokuzekuu.net/


「旅の徒然に」を第671回更新しました。

「駅弁コレクション」の「東京駅東海道新幹線ホーム」に「東海道新幹線富士山弁當」の1データを公開いたしました。

http://ringono.web.fc2.com/

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ホームページ更新

2025-03-15 | 更新情報

「REI RINGONO status」を第355回更新しました。

「飲食店ブログ記事」の「宮城県」に小牛田「丸竹食堂」を新規公開いたしました。

http://status.garyoutensei.com/


「Station-駅から始まる物語」を第1757回更新しました。

2024.JR東海道本線南大高駅を公開いたしました。

https://ringono.nengu.jp/

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅20.

2025-03-14 | 鉄道・旅行

 20.東海道本線二川と新所原の駅取材

ホテルの部屋で支度をしながらテレビを見ていたら、
東海道新幹線の運転見合わせが報道されていた。
一抹の不安を覚えながらも、
たぶん夕方までには再開するだろうと思っていた。
宿泊していたホテルルートイン豊橋駅前チェックアウトし、
まずは旅行用のバッグを駅のコインロッカーに入れた。
午前中は浜松まで駅取材し、午後から飯田線の取材をする。
帰りは18:51豊橋発の「ひかり660号」で帰京する予定なので、
カメラバッグだけ持って取材を開始する。
朝の段階ではそれが最善だと思っていたのだが、
のちのちこの判断を後悔することになる。

豊橋駅の有人改札で、青春18きっぷの2回(人)に、
「(海)豊橋駅 7.22 入鋏済M」と押印して貰った。
ホームは思った以上に混んでいた。
この時は通勤、通学の時間帯だからと思っていたが、
それだけ出なく、上りは新大阪から浜松まで、
東海道新幹線が運転見合わせ中なので、
在来線で浜松まで行き、そこから新幹線で帰京する客も多かった。

乗り込んだ列車は373系が充当されていた。
373系は特急「ふじかわ」や「伊那路」に充当されている車両だが、
一部で普通列車にも使用されているようだ。
JR東日本の185系と同じ発想なのだろう。
ただ、滅茶苦茶混んでいて着席は出来ず、
デッキにすし詰め状態で二川まで行くことになった。

JR二川駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
北口側の単式ホームは1番線に付番、上り方面が使用、
南口側の島式ホームは2番線、3番線に付番され、下り方面が使用する。
通常は2番線が使用され、3番線はほとんど使用されない。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開業したが、
この時は二川に駅は設置されなかった。
この付近は江戸時代の東海道の二川宿に当たり、
地元からの請願が行われ、官設鉄道開通から8年後の、
1896年4月7日に開業した。

二川は東海道五十三次で二川宿として古来より栄えていた場所である。
08:12で隣の新所原に行く。

JR新所原駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
北口側の単式ホームは1番線に付番、上り方面が使用、
南口側の島式ホームは2番線、3番線に付番され、下り方面が使用する。
通常は2番線が使用され、3番線はほとんど使用されない。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。

東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開業したが、
新所原に駅が出来たのは1936年12月1日で、
二俣線(現・天竜浜名湖線)の分岐の信号が同年2月13日に設置され、
二俣西線が新所原から三ヶ日までと同時に駅に昇格した。
二俣線は1940年6月1日に全通したが、
1984年6月22日に第2次廃止対象特定地方交通線として廃止が承認され、
国鉄分割民営化直前の1987年3月15日、
二俣線は廃止され、第三セクターの天竜浜名湖鉄道に移管された。
国鉄時代は単式1面1線と島式2面4線の計3面5線構造だったが、
旧1番線が天竜浜名湖鉄道線となり、2番線は廃止され、現在の構造となった。

新所原に再入場し、次の鷲津行きの列車を待っている時、
天竜浜名湖鉄道線の回送列車が留置線に入ってきた。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅19.

2025-03-13 | 鉄道・旅行

 19.手羽先唐揚げの晩酌と運転見合わせ情報-豊橋の夜と朝

豊橋まで戻ってきて、先ずは予約していた、
ホテルルートイン豊橋駅前に行く。
事前に地図をプリントアウトしていたため、迷わず行けた。
部屋タイプは禁煙シングルで、
Net DE 早割30日前プランで朝食付き、料金は5,950円だった。

チェックインして用意されていた10階1002号室に行く。
ここはネット予約で指定された自販機で使用出来るコインが貰えて、
それでドリンクを1本無料で貰うことが出来る。
部屋に行く前にドリンクを貰い、冷蔵庫に冷やしておく。

部屋に荷物を置いて、カメラバッグだけを持って外出する。
夕食は事前の予定では西小坂井の「小島食堂」に行くことにしていたが、
そのまま豊橋まで来てしまったので、ここで夕食を喰えるところを探す。

明日、訪問を予定していた「名代 玉川うどん店」に行ったが、
5:30p.m.過ぎで既に外にまで人が並んでいた。
今日は日曜日なので仕方がないのかもしれない。
そのまま広小路通りを進んでいくと、萱町通りで御神輿が出ていた。

この時はよく分からなかったが、家に戻ってから調べてみると、
これは7月第3金曜日、土曜日、日曜日に行われる豊橋祇園祭の御神輿だった。
お祭りの影響もあって「名代 玉川うどん店」が混んでいたのかもしれない。

暫く駅前を散策したが路面店で適当な店が見つけられず、
豊橋駅まで行って、駅ビルの複合商業施設「カルミア」に行き、
1階レストラン街で「三河開化亭」に入店する。
ここで100円ハイボール、黒豚餃子10個、熟成醤油中華そばなどを喰う。

そのあと「風来坊」で手羽先、FamilyMart豊橋石塚店でハイボールなど購入、
ホテルに戻ってカメラのメンテナンスをしたあと部屋飲みする。

カルミナ1階の「風来坊」で購入した元祖手羽先唐揚げは、
二人前、10個入りで1,280円だった。

手羽先を唐揚げにして胡麻が振ってある。
美味しいのだが、食べる度に手が汚れるのが難点である。

翌日は5:00a.m.に起床して大浴場で入浴、
6:30a.m.を待って「和み(なごみ)」で朝食バイキング。

オムレツ、ウインナー、ナポリタン、芋餅、焼鯖、梅干し、
鹿尾菜の煮物、玉子焼、4種野菜天、帆立揚げ、
サラダ(サニーレタス、コーン)、
海苔、ご飯、みそ汁、オレンジジュースなど。

今日も外は晴れていて、雨の心配はなかった。

ただ、テレビでは新幹線の運転見合わせが報道されていた。
東海道・山陽新幹線では、上りが新大阪から浜松、
下りは東京から名古屋までが運転見合わせになっており、
運転再開見込みは早くても正午以降となっていた。
今日は豊橋18:51発の「ひかり660号」で帰京する予定だったので、
ちょっと心配だったが、まあ、遅くても夕方には再開するだろうと、
朝のホテルで支度をしている段階ではそう思っていた。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅18.

2025-03-12 | 鉄道・旅行

 18.東海道本線愛知御津と西小坂井の駅取材

三河大塚で取材を終え、冷房の車内に居たいがために、
15:35の岐阜行きでいったん三河三谷まで戻り、
三河三谷15:32発で愛知御津へ来た。

JR愛知御津駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
駅舎側の単式ホームは1番線に付番、上り線が使用、
島式ホームは2番線、3番線に付番、下り線が使用する。
3番線が主本線となっていて、2番線は待避線などが使用する。

愛知御津に駅が出来たのは1888年9月1日で、
武豊から大府を経由して木曽川まで敷設された区間の、
大府から浜松までの区間が開通したのと同時に開業した。
開業当時の駅名は「御油」だった。
戦時中の1945年8月7日に空襲で駅舎が焼失、
戦後、1948年4月に駅舎が再建され、
同年8月1日に駅名が「愛知御津」に変更された。
駅舎再建計画と同時に駅名変更が検討され、
「御津」や「三河御津」も候補に挙がったが、
音読で常磐線の「水戸」と同じ事や、
「三河三谷」と一文字違いであることから、
旧国名ではなく県名の「愛知」が使用されることになった。

駅取材を終えたが、次の上り列車は16:09で20分以上ある。
そこで駅前を少し散策することにした。
足の調子はだいぶ良くなって違和感もなくなっていたが、
踏切を渡って駅舎の反対側から隣の踏切まで歩く。
さすがにここまで歩くと、再び足が攣ってしまった。
予定していた16:09で隣の西小坂井に行く。

JR西小坂井駅は島式2面4線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
駅舎側のホームは1番線、2番線に付番され、上りが使用するが、
現在は1番線は柵が設置され使用出来ず、実質的には2面3線となっている。
駅舎と反対側の3番線、4番線は下りが使用され、
どちらか一方が主本線となっているわけではなく、交互に使用される。

西小坂井に駅が出来たのは1948年8月1日で、
戦時中の1945年6月10日に軍需工場への引き込み線のために、
この地に西伊那信号場が設置され、戦後にこの信号場を一般駅化された。
軍需工場への引き込み線は戦後、富士紡績への貨物専用線に転用されたが、
1972年3月1日に貨物扱いが廃止され、専用線も廃止された。

西小坂井で駅取材を終え、これで本日の取材予定は全て終了した。
16:43で隣の豊橋まで行く。

4番線に到着したが、隣には名鉄本線3300系が停車していた。
豊橋駅は5面8線のホームを有する地上ホームを有し、
東海道線のほか、飯田線の発着駅でもあり、
また名古屋鉄道本線も乗り入れていて、同線の終着駅となっている。

4番線の単式ホームに隣接する頭端式ホームが1番線から3番線となっており、
1、2番線を当駅発着の飯田線が使用し、
3番線を名古屋鉄道本線が専属で使用し、
そのためホームの高さが名鉄の車両に会わせて少し低くなっている。
5番線から8番線は島式2面4線のホームとなっており、
4番線から8番線が東海道本線が使用している。
また東海道新幹線もホームをあり、11番線から13番線を使用し、
上りが島式1面2線、下りが単式1面1線となっている。
また下り線は現在は1面1線だが、
島式1面2線に改造するだけのスペースが確保されている。

東口を出たところには豊橋鉄道東田本線が乗り入れている。
明日は午前中浜松まで駅取材し、午後は飯田線の一部で駅取材、
新幹線の時間までこの路面電車の取材に当てることにしていた。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅17.

2025-03-11 | 鉄道・旅行

 17.東海道本線三河三谷と三河大塚の駅取材

蒲郡を14:14に出発した快速豊橋行きで隣の三河三谷に来た。

JR三河三谷駅は相対式2面2線の地上ホームを有する。
駅舎側の1番線は下り、反対側の2番線は上りが使用、
2番線とは跨線橋で結ばれている。

三河三谷に駅が出来たのは1929年7月3日で
地元の住民からの請願駅であり、
駅用地買収や建設資金などは地元住民の寄付によって賄われた。
三谷温泉の最寄り駅でもある。

ここに来て直ぐに足が攣った。
暫く歩くことも出来ずにベンチに座っていた。
寝ている時に足が攣ることはたまにあるのだが、
外出中に足が攣ったのは初めてである。
それでも少し収まったところで駅取材を強行、
15:02で隣の三河大塚まで行く。

JR三河大塚駅は相対式2面2線の地上ホームを有する。
1番線は下り、2番線は上りが使用する。
傾斜地に立地するため、ホームより駅舎が下にあり、
地下通路でホームと繋がっている。

三河大塚に駅が出来たのは1953年7月8日で、
最寄りの海水浴場利用客のための夏季のみ開業する仮設駅だった。
しかし地元から通年停車の常設駅への請願が行われ、
1960年3月1日に常設駅に昇格した。

近くには新幹線の線路も走っていて、通過する瞬間も見えた。
左足にはまだ違和感はあるものの、傷みはなく、
足に負担を掛けないように時間はあっても駅前の散策などはせず、
なるべく移動距離をなくして豊橋までの取材を強行する。

疲労の蓄積が足の攣りに繋がったのかもしれない。
15:35の岐阜行きでいったん三河三谷まで戻り、
三河三谷15:32発で愛知御津へ行くことにした。
涼しい車内に居たいがための逆行だった。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅16.

2025-03-10 | 鉄道・旅行

 16.東海道本線蒲郡と隣接する名鉄蒲郡駅

三河塩津で隣接する名鉄蒲郡競艇前で、
下り蒲郡方面に行く6000系6010編成が、
5500系の登場した当時の塗色を纏っていて、
これを取材したくてこの列車が蒲郡まで行き、
折り返して蒲郡競艇場前に戻ってくるのを待った。
これを取材して、三河塩津から隣の蒲郡まで行く。

JR蒲郡駅は島式2面4線の高架ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は上り副本線、2番線は上り主本線、
3番線は下り主本線、4番線は下り副本線が使用する。
1888年9月1日には浜松から大府まで延伸、蒲郡もこの時同時に開業した。

蒲郡は2014年11月26日に取材済みだが、
北口のみしか取材しておらず、今回は南口を取材するために下車した。
蒲郡駅は北口側にJR東海道本線、南口側に名鉄蒲郡線が並んでいる。

名古屋鉄道蒲郡駅は島式1面2線の高架ホームを有する蒲郡線の駅である。
JR東海道本線蒲郡駅と隣接しているが、
番線は連番となってはおらず、1番線、2番線となっている。
蒲郡駅は北口がJR東海、南口が名古屋鉄道の看板が掲げられている。
南口側は1番線、JR東海道本線側が2番線となっている。
基本的には2番線側を使用する。
以前は改札をJR東海道本線と共有していたため、
5番線、6番線に付番されていた。

名鉄蒲郡線は1929年12月2日に三河鉄道によって、
三河吉田(現・吉良吉田)から三河鳥羽の区間が部分開業、
1936年7月24日に三河鹿島まで延伸、
同年11月10日に蒲郡まで延伸、全通した。
この時に終着駅として開業した。

北口側のJR東海道本線の駅前には、「麺屋しずる」が見えた。
ここは2014年11月26日に訪問した時に、
ここで昼食を喰った思い出がある。

北口と南口を取材して再び東海道本線の改札を入場する。
名鉄蒲郡駅のホームには6000系6011編成が停車していたが、
赤い車体に白い帯が入っているのが見える。
これは7000系や7700系が特急用改造車が纏っていたもので、
2022年3月19日から復元したものである。

蒲郡を14:14に出発する快速豊橋行きに乗り、
隣の三河三谷を目指す。

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅15.

2025-03-09 | 鉄道・旅行

 15.東海道本線三河塩津と名鉄蒲郡競艇錠前の駅取材

三ヶ根で駅取材して、13:47で隣の三河塩津に行く。

JR三河塩津駅は相対式2面2線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
1番宣は下り方面、2番線は上り方面が使用する。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。

三河塩津に駅が出来たのは1988年11月16日で、
蒲郡競艇場への利用客を見込んで蒲郡市が1987年8月に駅設置を要望、
翌年、総建設費1億5000万円のうち、蒲郡市が1億2000万円、
残りをJR東海が費用負担して建設された請願駅である。
隣の蒲郡から三河塩津までは名古屋鉄道蒲郡線が併走している。
南口に隣接して名鉄蒲郡線蒲郡競艇場前がある。
そこでこの駅も取材することにした。

名古屋鉄道蒲郡競艇場前駅は単式1面1線の地上ホームを有する蒲郡線の駅で、
上下線で同じホームを使用する。

名古屋鉄道蒲郡線は吉良吉田から蒲郡を結ぶ17.6kmの路線で、
現在の名鉄三河線を敷設した三河鉄道によって敷設された。
名鉄三河線は猿投から知立までが山線、知立から碧南までが海線と呼ばれているが、
以前は海線が碧南から吉良吉田まで線路が延びていて、
吉良吉田から蒲郡までの延伸線として蒲郡線が敷設された。
しかし碧南から吉良吉田の区間は閑散区間のため2004年4月1日に廃止された。
三河線海線は三河鉄道によって1914年2月5日に、
刈谷新(現・刈谷)から大浜港(現・碧南)までの区間を敷設した。
1915年10月28日には刈谷新から知立まで延伸された。
1926年9月1日には大浜港から神谷(後の松木島、現廃止)まで延伸、
1928年8月25日には神谷から三河吉田(現・吉良吉田)まで延伸された。
1929年8月11日には三河吉田から三河鳥羽まで延伸、
この先は非電化で1936年7月24日には三河鹿島まで延伸、
同年11月10日には蒲郡まで延伸し、全通した。
三河鉄道は1941年6月1日に名古屋鉄道へ合併し、
現在の蒲郡線である区間を含めて三河線となった。
名鉄に合併後に電化され、戦後の1948年5月16日に、
三河吉田から蒲郡までの区間を蒲郡線として分離された。

1936年11月10日に三河鹿島から蒲郡まで延伸して、
蒲郡線が全通したのと同時に拾石駅が開業した。
翌年、1937年3月9日に竹谷駅が開業、
同年5月11日に江畑駅が開業した。
戦時中の1944年には竹谷、江畑が休止され、
戦後の1953年1月1日に竹谷、江畑を廃止、
両駅を統合して中間に塩津が開業した。
1968年10月1日に塩津と拾石を統合し、
蒲郡競艇場前駅が開業した。
1988年11月16日に併走する東海道本線に、
三上塩津が開業、それに合わせて同年9月17日に現在地に移設された。

この駅を取材していると、名鉄蒲郡線に列車が入線してきた。
現在の名鉄は赤を基調とした車両塗色が中心だが、
この車両はたぶん以前の名鉄の車両のデザインが施されている。
ヘッドマークには「復活塗装車両」と書かれ、
3種類のデザインの車両のイラストが描かれている。
撮影した車両は6000系6010編成で、
5500系が1959年4月1日に登場した当時の塗色である。

名鉄蒲郡競艇場前駅の駅名でも分かる通り、
三河塩津とこの駅は蒲郡競艇場への利用客のための駅という側面が強い。
駅取材している時にも、どう見てもギャンブル好きオーラを発している、
ちょっとヤバ目な風体の大人たちがたくさん降りてきた。

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ホームページ更新

2025-03-08 | 更新情報

「REI RINGONO status」を第354回更新しました。

「飲食店ブログ記事」の「岩手県」に大船渡「オオフナトのケムリ」を新規公開いたしました。

http://status.garyoutensei.com/


「Station-駅から始まる物語」を第1756回更新しました。

2023.東急電鉄東白楽駅を公開いたしました。

https://ringono.nengu.jp/

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅14.

2025-03-07 | 鉄道・旅行

 14.東海道本線幸田と三ケ根の駅取材

相見のトイレでTシャツを着替え、11:04岐阜行きで安城まで戻り、
先ずは予定していた「北京・昭和町店」で北京飯を喰い、
駅取材してから12:20発の上り列車に乗り込む。

この列車も豊橋で少々停車していて、その間に車両取材した。
乗り込んだ列車は313系0番台Y1編成だった。
0番台としてはY2編成とともに、
1999年7月6日に落成したトップナンバーである。

相見から4つ戻って安城まで来ていたので、
安城から上り方面に5つ進んだ幸田に行く。

JR幸田駅は島式1面2線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は上り方面、2番線は下り方面が使用し、
駅舎とは跨線橋で結ばれている。

幸田に駅が出来たのは1908年9月11日である。
この地に駅設置運動が起こったのは1900年で、
相見村住民が「相見村停車場設置期成同盟会」を結成したことに始まる。
1906年に坂崎村、相見村、深溝村が合併した時に、
村内を流れる広田川から新しい村名は「広田村」とした。
しかし「広田」は既に磐越西線に同名の駅があったため、
読み方の「こうだ」はそのままに「幸田」と表記を変えて駅名に決定された。
この駅名に合わせるように、自治体名も「幸田村」としたが、
読みは「こうた」としている。

幸田駅も無人駅で、インターホンで呼びだし、
カメラで切符を確認して自動改札の電源を切って入出場するルールである。
幸田で駅取材して、次は隣の三ヶ根に行くことにしたが、
三ヶ根で取材が終了したのが0:49p.m.だが、
下り方面は13:15豊橋行きまでない。
真夏日で気温も高く、ホームで長時間待つのはさすがにしんどい。
そこでいったん13:00発の下りで隣の相見まで行き、
13:12発の豊橋行きに乗り込む。
これは幸田を13:15発の列車である。
ただ、冷房の効いた車内に居たいために逆方向になったのだ。
こういう利用の仕方が許されるのも青春18きっぷの特典である。

JR三ケ根駅は相対式2面2線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
1番線は下り方面、2番線は上り方面が使用する。
画像は東口で、橋上駅舎化されている。

この地に駅設置運動が起こったのは1900年で、
相見村住民が「相見村停車場設置期成同盟会」を結成したことに始まる。
この運動で1908年9月11日に幸田駅が開業した。
1951年に地元で再び駅誘致運動が起こり、
岡崎市や刈谷市とともに「国鉄三駅設置期成同盟」を結成した。
しかしこの時は開業に至らず1959年に活動は停止された。
しかし翌年の1960年に東海道新幹線の土地買収によって、
再び駅誘致運動が再燃され、1967年3月20日に開業した。

西口の駅前には「三ヶ根山殉國七士廟参道」があった。
“殉国七士廟”とは三ヶ根山スカイラインという有料道路の中にある、
東京裁判で死刑となった軍人や政治家の廟のことである。
一般社団法人殉国七士奉賛会のホームページによると、

 殉国七士とは、

  東條英機氏(元首相・陸軍大将)
  土肥原賢二氏(元陸軍大将)
  広田弘毅氏(元首相)
  板垣征四郎氏(元陸軍大将)
  木村兵太郎氏(元陸軍大将)
  松井石根氏(元陸軍大将)
  武藤章氏(元陸軍中将)

 で、いずれも大東亜戦争開戦時に日本国の指導的立場にあった人たちです。
 日本の敗戦により「A級戦犯」の名のもとに裁かれ、
 遂には絞首刑を宣告されました。

とのことで、ここは駅から徒歩で行ける場所ではなさそうだ。

 ※引用、参考:一般社団法人殉国七士奉賛会 http://ki43.on.coocan.jp/

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 青春の旅立ち-2024年夏東海道本線全駅取材の旅13.

2025-03-06 | 鉄道・旅行

 13.東海道本線相見と安城の駅取材

西岡崎で駅取材し、駅に再入場したのは10:18a.m.で、
まだ時間が早いため、西岡崎から2つ先の相見に行くことにした。
隣の岡崎は既に取材済みだったので下車しなかったが、
ここで運転系統が変わるようで、約10分停車していた。

JR相見駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
西口側の島式ホームは1番線、2番線に付番され、
1番線は下り待避線、2番線が下り主本線、
東口側の単式ホームは3番線に付番され、
上り主本線となっている。
画像は西口で、橋上駅舎化されている。

この地に駅設置運動が起こったのは1900年で、
相見村住民が「相見村停車場設置期成同盟会」を結成したことに始まる。
1908年9月11日に幸田駅が開業したことに伴い、誘致活動は休止されたが、
それから約80年後の1989年に再び幸田町相見地区住民が、
「相見駅設置促進期成同盟会」を結成して誘致活動を行い、
2007年3月1日にJR東海と幸田町が幸田町菱池に新駅を設置する覚書を交した。
建設費は幸田町が全額負担した自治体請願駅であり、
2009年12月14日に着工、2012年3月17日に開業した。

このあと安城に行くことにしたが、さすがに汗だくになったため、
相見のトイレでTシャツを着替えた。
11:04岐阜行きで安城まで戻る。
岡崎で再び長時間停車し、岡崎を出発したのは11:14になっていた。

ここで予定していた飲食店の開店時間になってしまった。
岡崎で運転系統が変わることは事前に知らず、
思った以上に時間をロスしてしまった。

JR安城駅は単式2面2線と島式1面2線の、
計3面4線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
島式ホームを挟む形で単式ホームが敷設されていて、
相対式2面2線と島式1面2線構造とも云える。
南口側の単式ホームは1番線に付番され、下り待避線として使用、
島式ホームは2番線、3番線に付番され、
2番線は下り主本線、3番線は上り主本線となっている。
北口側の単式ホームは4番線に付番され、上り待避線となっている。
現在は1番線、4番線を発着する定期列車はなく、
島式1面2線のみの使用である。
画像は北口で、橋上駅舎化されている。

安城に駅が出来たのは1891年6月16日で、
1887年に地元から駅誘致運動が起こり、
岡崎と刈谷の間が15.7kmと距離もあることから建設が決まった。
建設決定同時は東海道五十三次の39番目の宿場である、
池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)に因んで知立とする案もあったが、
最終的にはここの地名の「安城」に落ち着いた。

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