4.感情的な環状線-全国全電停取材完了
まずは富山駅前電停で少し車両取材し、そのまま南富山駅前電停に行く。
ここで電停取材し、11:30a.m.になるのを待って「創菜キッチン トミッポ」で昼食喰う。
ここは前回富山に来た時に偶然入った店で、
その時に気に入っていて次に富山に来る際には行こうと思っていたのである。
南富山駅前まで行ってここから富山駅前まで行き、少し車両取材する。
地下に作られた東西自由通路を通って北口に行き、富山ライトレールの車両取材する。
富山ライトレールは前回全電停取材が完了しており、車両取材も十分にしたのだが、
TLR0600形の全7両のうち、TLR0607号車が唯一未取材なのだ。
富山ライトレールは全7両でイメージカラーが違っていて、
TLR0607号車は白い車体にパープルを纏っている。
これを狙ったがそう上手く来るわけもになく、
レッドとイエローを見かけたところで取材を中断する。
今回の旅では富山地方鉄道の軌道線のほか、
鉄道線も富山から南富山まで乗車することが出来る。
そこで鉄道線も車両取材と駅取材を考えているのだが、
特に狙いたいのが16010形「アルプスエクスプレス」である。
16010形は元西武鉄道5000系で、
特急に充当されていた「レッドアロー」の愛称で親しまれていた車両である。
2011年12月に水戸岡鋭治氏のデザインによってリニューアルされ、
「アルプスエクスプレス」という名称になって生まれ変わった。
ダイヤもホームページに公開されており、
12:11発の「アルプスエクスプレス」を取材するためにそれに併せて入場する。
既に16010形は入場していた。
これを取材し、さらに10030形に乗って南富山まで行く。
駅取材してT100形で西町まで行き、ここから徒歩でグランドプラザ前まで行く。
ここから環状線の取材に入るが、環状線は単線で反時計回りの一方向だけしかない。
新設された富山都心線は単線で敷設され、
グランドプラザ前から本線に合流し、支線の丸の内から再び分岐して富山都心線に入る。
環状線は富山市が製造し、富山地方鉄道に運行を依頼している9000形が専属で使用されている。
9000形は3両製造されたが、9001号車と9003号車の2両が運行されていた。
また富山都心線の新しくできた3つの電停には、
富山ライトレールと同様の“電停個性化スペース”が設置されている。
“個性化スペース”とは、「地域の景観、歴史を掲示」しているスペースのことである。
国際会議場前電停には「富山城」と「大手通りの始まり」が設置されている。
富山城
江戸時代の富山城は、加賀前田家の分家である、富山前田家10万石の居城でした。
寛文元年(1661)以後、初代藩主前田利次によって整備が進められました。
城の中心であった本丸御殿は、藩主が政治を執る場であり、また生活の場でもありました。
初代の本丸御殿は、正徳4年(1714)に失火で焼失してしまい、
その後、100年余り本丸御殿は存在しませんでした。
天保4年(1833)、2代目の御殿が再建され、明治32年で焼失するまで残っていました。
大手通りのはじまり
市民プラザの少し南側あたりに、富山城の正門である大手門があったことから、
この通りが大手通り(現在の大手モール)と呼ばれました。
この大手通りは、明治の廃城後、富山城の本丸と二之丸をつなぐ土橋から三之丸の屋敷の間の道、
そして大手門を結んでできた道です。
また、富山国際会議場付近には、三之丸から二之丸への入り口である二階(にかい)櫓門(やぐらもん)がありました。
この門は、城の中枢部を守るための重要地点であり、また、威儀を正さなければならない場所ともなっていました。
大手モール電停には「市内電車の開通」と「昭和期の市内電車」が設置されている。
市内電車の開通
大正2年に市街に初めて市電が開通しました。
同年開催された共進会(博覧会の前身の呼称)の会場と市街を結ぶため、
富山駅前-小泉町間の本線と富山駅前-西町間の支線(全線5.0km)を開通させました。
その後、大正4年小泉町-堀川新駅前間、大正5年郵便局前-呉羽公園下、
昭和3年西町-東田地方間、昭和11年東田地方-電気ビル間が開通し、
市の中心部を一周する環状運転が開始され、10.8kmの路線となりました。
ここに東西、南北の縦貫線に富山駅、西町という二つの中心地を環状線で結ぶという
富山市内の幹線交通が形成されました。
昭和期の市内電車
市内軌道は、昭和20年の戦災によって全線損傷をうけましたが、
富山市内の道路復興計画の進行に応じて復旧が進められました。
昭和21年 富山駅前-南富山間、西町-新富山間 復旧
昭和23年 西町-雪見橋間、雪見橋-上り立町間 復旧
昭和24年 駅前-旅籠町間、上り立町-電気ビル間 復旧
昭和27年からは、市内軌道整備計画により大改修が行われ、
昭和36年には山室線の新設が行われました。
しかし、昭和40年代以降は、車社会の進展により路線が縮小されました。
昭和27年 丸の内-安野屋間 開通、旅籠町-安野屋間 廃止
昭和29年 環状線全線の複線化完成。新富山-大学前間 復旧
昭和36年 山室線(中教院前-不二越駅前間)開通
昭和42年 系統の大改正により6種類の系統を運転
昭和47年 中教院前-北新町-地鉄ビル前間を廃止
昭和48年 西町-旅籠町-丸の内間を廃止
昭和59年 西町-不二越駅間廃止
グランドプラザ前電停には「チンドンコンクール」と「旧北陸街道」が設置されている。
チンドンコンクール
毎年4月上旬に行われるチンドンコンクールの始まりは50年以上前にさかのぼります。
昭和20年の富山大空襲により、市街地は壊滅状態となりました。
その後、人々が焼跡から立ち上がり、氏の復興がほぼ完成した昭和30年、
富山市に明るさと平和感を与えようと、
富山商工会議所や富山市の発案で「全国チンドンコンクール」が誕生しました。
例年この全国一を競う舞台に、東西からたくさんの趣向を凝らしたチンドンマンが参加し、
沿道の人々の熱烈な声援を受け、会場一帯が笑いの渦となります。
旧北陸街道
市電環状線が通るこの道は、江戸時代の北陸街道にあたります。
現在、道幅は約36mありますが、
江戸時代は5間(約9m)だったことが発掘調査により確認されました。
当時と比べ、南側に27m拡張されており、通りの南半分は家屋の敷地にあたります。
また江戸時代から、この周辺は二番町(現在の総曲輪三丁目・西町)と呼ばれていました。
これは、富山時用の大手前から、城の東にある藩主菩提寺の光厳寺(こうげんじ)までの道筋に沿って、
一番町から順に五番町までに町名をつけた(四番町は無し)ことによります。
3つの電停を取材して西町まで徒歩移動し、ここから富山駅前まで行く。
ここで少し車両取材したあと、再び富山地鉄鉄道線の取材に入る。