大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

らいと古典『わたしの徒然草・51』

2021-03-22 06:34:30 | 自己紹介

わたしの然草・51
『万に、その道を知れる者は……』   



 徒然草 第五十一段

 亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたずらに立てりけり。
 さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふように廻りて、水を汲み入るる事めでたかりけり。
 万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。

 後嵯峨上皇が、嵯峨野に亀山殿を造営した時のこと。庭の池に大井川から水を引こうと計画して、大井の百姓を集め大井川に水車を作らせた。時間と金をかけたがうまくいかず、宇治の百姓たちにやらせたら、上手くいった。やっぱ、世の中、餅屋は餅屋だなあ!

 そういう話、というか、それだけの話であります。
 当時から、石垣は、比叡山麓の穴太(あのう) 水車は、宇治の百姓衆が上手いとされていました。で、宇治のオッサンらは上手い! プロは偉い!

 これだけでは話が続きません(*ノωノ)、面白くもありません。
で、ヘソマガリのわたしは、違う局面から話してみようと思います(^_^;)。

 プロは、自分の常識からしかものが考えられない。時として素人の閃きや直感の方がすぐれているという話ですね。
 世界中の軍艦には、固有の名前よりもデッカく番号が書かれていることが多いです。あれはアメリカ海軍が十九世紀に考案したものだそうです。それ以前の世界中の海軍というのは、プロの集団と決まっており、船の名前など、遠くからでも、そのカタチが判別できなければならないとされ、ボースン(水夫長)や、士官は、敵味方の区別無く、世界中の主だった主力艦艇のカタチと名前、おおよその性能は知っていました。まあ、そのころ大海軍を持っている国はしれたもので、主力艦艇と言っても、世界中で百ほどでしかありません。
 当時のアメリカの海軍は、世界的に見ても二流で、このことは、アメリカ海軍自身がよく知っていました。  
  そこで、バカでも自分の国の船ぐらいは一目で分かるようにしてやろうと、船の舳先に大きな数字を書いたのです。成り立ての水兵でも、その番号と手許のマニュアル本を見れば、たちどころに船の名前が分かるようにしたのですねえ。
 では、敵の船はどうしたかというと、小さな模型を作りました。それを見せて、水兵たちに覚えさせました。第二次大戦中、これをプラスチックで大量に作り、海軍の全艦艇に持たせてやりました。戦後、これが民間でも流行り、これがプラモデルの元になりました。
 火星ロケットを打ち上げるとき、火星まで行くことは簡単なのですが、探査衛星を火星に無事軟着陸させることが非常に難しかった。姿勢制御や速度調整など、当時のコンピューターでは困難なことが多く、また開発費もかさむ。そこでNASAは思い切ってヤワラカ頭の若者(一般公募者も入っていたような気がする)たちに任せました。
 若者達は、ハナから軟着陸を考えていませんでした。探査衛星が火星の地表近くまで来ると、衛星の周りにくっつけた風船が一斉に膨らみ、ショックを吸収するようにしました。地球で飛行機から投下実験するとものの見事に成功しました。それから研究も実績も上がって、先日は軟着陸させたカプセルから探査車を出して、着陸地点の色々な映像を送ることに成功していますね。

 今は、世界中の自動車に付いていますが、衝突したときにダッシュボードから風船が瞬時に出てきて、ショックを吸収する仕掛けは「車はぶつかるもの」という素人の発想から生まれたものだそうです。

 学校は、システムや規則の博物館であると言われます。
 わたしがヒヨッコのころ、女生徒たちは体育の時間は下着同然のピチピチの短パンでありました。たまに体育の授業前に女生徒を呼び出し、その格好で職員室に入ってこられると目のやり場に困ったものであります。
 むろん、女生徒たちからも不満が出ていました。
「せめて、体育祭の時ぐらいは、ジャージの下を穿かせて欲しい」
 至極真っ当な要求が出てきました。わたしは、その生徒の声を代弁して体育科の主任に掛け合いに行ったことがあります。
「他教科のことに口だしするな」
 それが答えでした(^_^;)。世紀末を境に、この下着同然の短パンはハーフパンツに替わりました。

 宿泊学習というものが流行ったことがありますね。春の連休前に新入生を一泊で遠くに連れて行き、生徒としての規律などを覚えさせる。さらには、新しい学校への帰属意識を高め、愛校精神の涵養を図ろうというアナクロな精神主義でありました。
 この行事、下見や、会議、準備のため三月から、学校の三分の一以上の教師が、延べ数千時間の仕事の時間をとられるのであります。で、思い通りの実績はあがりません。
 ベテランのコワモテの担任のクラスは、これで締まります。しかし、わたしのようなハンチクな担任だと、この行事で生徒に乗り越えられてしまい、その後の学級経営は非常にむつかしくなります。簡単に言えば「うちの担任は、この程度」と、瀬踏みされてしまうのですね(;^_^A。
 職員会議で毎年、この宿泊行事の廃止を訴えてきました。
「教育効果というものは、すぐには表れない。若い人はすぐに手を抜くことばかり考える」と叱られました。
四年がかりで組織票を固め、やっと廃止にこぎつけましたが、ベテランのコワモテからは睨まれました。
「大橋、ようもやってくれたのう……」
 我々、ハンチクな担任達は、その代わり、しつこいほどに面談、懇談、家庭訪問をくり返すことにしました。これはという生徒の家には四月一日から、夜討ち朝駆けの家庭訪問。そうやって生徒本人や保護者と人間的な関係を作ってしまうのです。いじめられそうな子がいると、ボスクラスの何人かと、廊下やトイレ、階段の踊り場でナニゲニ声を掛けておく。
「あいつ、人間関係ヘタでなあ、なんか気に食わんことあるかもしれんけど、よろしゅう頼むわ。おまえやからこそ声かけてん」
 これで、いじめの芽を摘んできました。
 これらは全て、自分の技量に自信のないハンチク教師だから思いついたことです。

 今回は、珍しく兼好のオッチャンに逆らってみました。ま、たまにはいいでしょう(^_^;)。



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