手鏡の中の千早姫が言った通り来輔は優秀だった。
天才というのではなく、人の倍ほども勉強し、論を立て、この人と思う人物に提言する。
言わば、ツボを心得た秀才とも言うべき男だ。
日がな一日本を読んでいるか考え事をしている。嫁いだ夜こそ寝床を一緒にしたが、あくる日からは来輔のペースである。
その初夜も来輔は何事か考えて奈何に触れることは無かった。
「構いません、わたしを待っていては奈何さん、睡眠不足で死んでしまいますよ」
辛い顔をしていると、そういうトンチンカンを言う。
「承知いたしました」
奈何は千早姫の言葉もあるので――ここは我慢――と大人しく一人で寝間に向かう。
そんなことが一年ほど続いた夜。
奈何が寝床に着くと、そっと寝所にやってきて、くるくると寝間着に着替えたかと思うと奈何の布団の中に入って来た。
かつて無かったほどに来輔は時めいており、さすがの朴念仁もその気になったかと奈何は少女のように胸を高鳴らせ、体が震えた。
「奈何さん」
「は、はい」
「いいことを思いついたんです!」
男が女の寝床にやってきて「いいこと」というのだから、これはとんでもないことになると奈何の心臓は爆発しそうになった。もし、寝間に灯りがともっていたら、奈何の震えと真っ赤な顔に医者を呼ばれたかもしれない。
来輔は、いたずらっ子のように奈何の耳元まで顔を寄せて、その「いいこと」を口にした。
「真名を廃するんです!」
頭に血が上った奈何には、頭の二文字しか入ってこなかった。
マナはマラと聞こえた。
マラとは魔羅と書き、元来は仏教の言葉である。人の善事を妨げる悪神。魔王。欲界第六天の王。転じて、悟りの妨げとなる煩悩 (ぼんのう) をいう。
つまりは、寝床の中、来輔は自分のイチモツを剥き出しにして迫ってきていると、学識ある奈何は思ってしまった。
「はい、それは良いことです! 奈何も嬉しく思います!」
「そうですか、奈何さんも嬉しく思いますか!」
来輔の手が伸びてくると思いきや、返って来たのは少年のように健やかな寝息であった。
来輔の「マラ」が分かったのは、用事で出かけた勝の家である。
「来輔のやつ、上様に漢字の廃止を上申しやがったよ」
伝法な勝の言い方で分かった。
マラとはマナのことであり、マナは漢字では真名である。つまり日本国の国語表記を仮名だけにしようという暴論である。
奈何は頭に来た……。