コッペリア・34
――うちにマドンナが来たわよ――
そのメールが、伸子夫人から来たのは、颯太が栞の力をクロッキーやデッサンに例えてコントロールの必要があると言った帰り道だった。
「どうしてマドンナが伸子さんのところに?」
待ち合わせのSコーヒーショップに着くと、挨拶もろくにしないで訊ねた。ちょっと不躾だが、50歳差の友情は、ここまで距離が近くなっている。
「栞ちゃんが、自分の気持ちをよく分かっていないからですよ」
「え……?」
栞は、瞬きするのも忘れて固まってしまった。
「栞ちゃんは二人の颯太さんの想いが籠って人間らしくなった。二人の想いってとこがややこしいのよね」
「はあ……」
「一人の颯太さんは亡くなってるし。もう一人の颯太さんは、別の女の人への気持ちが断ち切れないまま、成り行きで栞ちゃんを人間のようにしちゃった」
「はい、フウ兄ちゃんには、あたしは、まだ人形のようにしか見えないみたいで……」
「そうね、だからマドンナは気持ちの有り場所が無くって、わたしのところにきた」
「それが分かりにくいんですけど」
「ちょっと、お散歩しながら話しましょう」
二人は赤坂の街を歩いて紀伊の国坂にやってきた。
春の紀伊の国坂は爽やかな風と日差しが綾織のようになって和ませてくれる。
「ここって、ラフカディオハーンの『紀伊の国坂』ですよね」
「そう、ノッペラボーが出てきて、男の人をたぶらかすの。あれはムジナってことになってるけど、人との縁を結びきれなかった精霊。江戸っ子の精霊は気が短いから、あんな形で現れるの。マドンナがあたしのところに来たのは、あなたの前に現れたらノッペラボーだから。それに明治時代の松山の人だから奥ゆかしいし」
「もう一つよくわからないんですけど……」
「これ、わたしのお母さん」
伸子さんが見せたのは、セピア色になった日本人形の姿だった……。
「これ……」
「そう、わたしの母は、昭和の初めに作られた生き人形……日本版の蝋人形みたいなものね。戦時中も奇跡的に残ってね。進駐軍でやってきた父が一目ぼれ」
「え…………ええ!?」
「わたしも同類(^_^;)」
息をするのも忘れてしまった。
紀国坂を行く車も堀端にさんざめいていたスズメも、日差しや風さえも停まってしまった。
世界が瞬きするのを忘れて固まってしまった。
固まってしまって、静止した紀国坂の上で、栞と夫人だけが息づいている。
「それって……」
「そう、栞ちゃんに似た話ね。ただ、父の想いはピュアでストレートだったから、神さまも願いを叶えやすかったのね。それに母は人前で首を抜いて驚かすようなことはしなかったしね(16話)」
夕陽が、栞の真っ赤な顔をごまかしてくれた。
「えへ」
夫人が少女のように笑うと、紀国坂はバグが収まったように動き出した。
今年の春は、まだまだこれから……いや、夏になってしまいそうな予感がした。