クレルモンの風・4
『un marché sympa 感じの良い市場』
いきなり日常が始まった。まるで、あたしなんか存在しないみたいに!
「……あと5分、寝かせてえや」
アグネスの半分寝言みたいな返事が正確には最初だった。
あたしは、緊張のあまり日の出ごろには目が覚めて、6時になると起き出した。顔を洗って身繕いをすると、アグネスが、まだ寝ている。廊下では、もう人の気配「初日から遅れてはいけない」そう思って、アグネスを起こし、今の返事になった。
でも、5分きっかりで起きると、アグネスは、2分ほどで用意を済ませた。
「ほな、行こか!」
アグネスは、ダイビングするようにドアノブに手を掛けると、勢いよくドアを開けてダイニングに向かった。
どこかで見たシーンだと思ったら『ローマの休日』で、グレゴリーペックの記者が遅刻して出勤し、編集長の部屋に入るときのそれに似ていた。
夕べ、あんなにフレンドリーだった寮のみんなが、あたしなんか居ないみたいに歩いたり、喋ったり。かろうじて、イタリア人のアルベルトが「チャオ!」って言ってくれたぐらいのもの。
「今日は、新学年の最初のテストがあるねん。それでちょっとなあ……」
アグネスは、学生によっては国費で留学していたり、奨学金をとっている者がかなり居て、成績によっては、学年途中で自国に送還や奨学金の停止なんかもあるみたい。で、あたしは空気みたいになっている。
「心配せんでも、ユウコは、今日はテスト無し。朝2時間語学。ほんでから、日本文学概論。午後は、マルシェに連れていったるわ」
朝ご飯を食べながら、アグネスがザックリ説明してくれた。
語学は、教室に入るなり、どうしようかと思った。同じ寮の学生は(たぶん)誰も居なくて、語学留学かと思われるような多国籍の若者が20人ほど居た。
先生が入ってきてあたしを紹介してくれた。先生はマダム・ブリブリ・ブリエ。最初は『にんじん』のお母さんを連想するような冷たい感じだったけど、授業に入ると、スイッチが入ったみたいに表情が豊かになった。
ああ、語学というのは基本コミュニケーションの技術なんだと言うことと、コミュニケーションの半分は身振りや表情であることが分かった。
ブリエ先生は、英語でわたしに聞いた。
『ユコ、日本では。靴を脱いで家に入りますね?』
『はいそうです。ブリエ先生』
そして、先生はアジア系の髪のきれいな女の子に聞いた。
『レィファン、あなたの国は?』
『靴を脱いで入ります』
名前と答えで、多分韓国の女学生だと思った。瓜実顔の一重まぶたがきれいで、舞妓さんの衣装が似合いそうな気がした。
『じゃ、人の家に行ったつもりでやってみせて』
ブリエ先生は、新聞紙を広げて上がりがまちに見立てた。
あたしは、靴を揃え、つま先を外に向けて行儀良く並べた。
『じゃ、レイファンやってみて』
レイファンは靴を揃えるところまではいっしょだったが、つま先は家の中を向いたままである。
『どう、違いが分かった?』
一目瞭然なので、みんな頷いた。
『日本のは不作法です』
レイファンが、遠慮無く言った。
『どうして?』
ブリエ先生が、笑顔で聞いた。
『だって、つま先を外に向けるなんて、早く、この家から帰りたいみたいで失礼です』
むつかしい英語だったけど、なんとか意味は分かった。
『ユコは、どうして?』
『えと……不作法だからです。それに、つま先を家の中に向けると、必要以上に、その……心理的なんですけど、踏み込むような印象がします』
つま先を外に向ける意味なんて考えたことも無かった、とりあえず答えたけど、ちょっと外れてるかな?
『みんなは、どうかしら?』
英語と、かたことのフランス語が飛び交った。で、答は7:3で日本の勝利。レイファンは面白くない顔をした。
『これに正解はありません。ただの習慣の違いです。これは、ごく特殊な例を除いて、互いに尊重すべきです。Do as Romans doですね』
『特殊な例とは?』
ドイツ系かと思われるニイチャンが聞いた。
『それは、また別の機会に。今日は買い物の練習』
そして、楽しく買い物の練習を、売る側と買う側に交互に別れて練習した。
語学が終わると、日本文学概論。ここは大人数なので、わたしの紹介なんかなく、淡々と古事記についての講義があった。
昼から、大学の近所のマルシェに行った。ごった返すというほどではないけど賑わって、感じの良いマルシェだった。
アグネスは、一件の露店に向かった。
『いやあ、アニエス。今日は友だちといっしょかい?』
80は越しているだろうというオバアチャンが明るく話しかけてきた。言葉は分からないけど、やっぱ、意味は通じるんだなと思った。
「さあ、ユウコ、実習や。フランスパンとブドウ買うてみい」
さっそく語学の実習が役に立った……。