徒然草 第五十八段
「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を願みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し(以下略)
仏の道を学び、生死の迷いを捨て去ろうとするならば、坊主になって出家すべきだ!
トチ狂った兼好の余計なお世話であります。略した後半では「死を見つめない者は畜生と変わる所あるのか」とまでのお節介ぶりです。
兼好自身、坊主のナリはしていますが、都の中に身を置き、俗世間との付き合いにまみれてよく言えたものですねえ。真偽のほどは定かではありませんが、足利氏の重臣高師直(こうのもろなお)のラブレターの代筆をやったり、祭りや宴会などにも喜んで顔を出したりしています。
まあ、そういう自分を振り返って、かくあらまほし(こうであったらいいなあ)の話なんでしょうね。
なので、「かくあらまほし」の話しをしたいと思います。
わたしは、子どものころは画家になりたかった。なぜか……他に取り柄が無いからです。小学校のころ、算数などは、一年遅れで理解していました。ローマ字がまともに書けるようになったのは中学になってから。音符が読めないので音楽の授業も嫌いでした。運動神経が鈍く体育も敬遠。高校に入ってからは、絵と芝居ばかりやっていました。昨年演劇部の同窓会で、後輩にこう言われました。
「大橋さん、学校に勉強しにきてはったんとちゃうでしょ」
「そうや、絵描くのんと、芝居だけしに行ってた」
美術の授業は好きだった。先生は和気史郎というプロの油絵の先生で、梅原猛氏、瀬戸内寂聴氏は和気先生を『狂気と正気の間の芸術家』と賛辞したほどの人であります。学校で、ちゃんと進路を見据えて生徒扱いしてくれた唯一の先生でもあります。ある日、先生がおっしゃいました。
「大橋君、きみ美術の学校にいかないか」
大人から、初めてかけられた「かくあれかし」の言葉でした。大げさにではなく身が震えて、そして担任に相談しました。
「美術の大学行きたいんですけど……和気先生にすすめられ……」
担任は椅子に座って背中のまま、顔も見ないでこう言いました。
「美術の大学は、実技の他にも試験があるねんぞ」
で……お終いになってしまいました。
わたしは後年教師になりましたが、生徒が相談に来たときは、必ず正対して顔を見て話すことを心がけました。
和気先生は、卒業記念の湯飲みの原画を無料で描いて下さいました。生徒たちも和気先生を単なる美術の講師ではなく、人間的な師と仰いでいるようなところがありました。先生は無心に絵を描く生徒には実に優しく、美術室は施錠されることが無く、好きな時に好きなだけ絵を描かせてくださった。逆にいい加減な態度で授業に臨む生徒には厳しく、授業中抜けて食堂に行っていた生徒には作品を取り上げ本気で怒鳴っておられました。怒鳴られた生徒の中には、コワモテの学園紛争の闘士も混ざっていて、他の先生は、そういう生徒には一歩引いた物言いしかしませんでした。この歳になるまでいろんな人間の怒鳴り声を聞きましたが、和気先生の怒気を超えるものを聞いたことがありません。
担任は、その卒業記念の原画に、和気先生の落款をもらおうとして断られました。落款があれば作品となり、それだけで途方もない値打ちが付く。生徒たちは、密かに、担任を軽蔑しました。
和気先生は、わたしが卒業したあと、正規の教員(担任業務などの校務ができる)が欲しい管理職に申し渡され、退職されました。
そのころも、今でも、学校は間違った選択をしたと思っています。
「かくあらまほし」ということを、きちんと言える大人は少ない。
「かくあれかし」ということを、きちんと心に刻める若者も少ない。
それからのわたしは芝居だけでありました。わたしが人がましく見てもらえるものは絵と芝居しか無かったので、消去法で芝居が残りました。
消去法ではありましたが、いま振り返ると頑張っていましたね。早朝から学校に行き、演技の基礎練習をやって、昼休み、放課後は部室で何かしら演劇的な試行錯誤をくり返していました。自然とエチュ-ドが有効であることに気づき、哀れな後輩を捕まえては相手をさせていました。
青春とは臆病なもので、何か、誰かに後押ししてもらわなければ前に進めないものです。結局、芝居も一歩腰が引け、アマチュア劇団、高校演劇の世界の中で「ま、いいか」で五十年が過ぎてしまいました。人間はNHKの朝の連ドラのようには成長しませんね。
今、和気先生の晩年の歳に近くなってきて、若い人に「かくあらまほしき」と言えるだけのものは、わたしの中にはまだありません。しかし、若者たちがやっていることで「これは違う」と思うことが気になりだしました。ポジティブに「かくあれかし」とはなかなか言えないことがもどかしい。
いつだったか、電車の中で初任校の卒業生に声をかけられた。聞くと、社会科の教師になっていました。
「先生の授業聞いてて、社会の教師になろと思たんです」
わたしが教師になった理由は不純です。教員採用試験を受けることをプータロウでいることの言い訳にしていました。で、五回目の試験を受ける半年前に父が病気で仕事を辞めました。
これに受からなければ、我が家は食っていけない。それで、人生で初めて食うための勉強をして、なんとか通りました。
教師になってからは、教えてもらった先生達を頭に浮かべ、あんな教師にはならないでおこうと思ってやってきました。とても和気先生のように人格で圧倒できるような教師ではありませんでした。
くだんの卒業生、ひょっとしたら「大橋のような教師にはなりたくない」と思ったのかもしれませんねえ。世の中には、わたしたちの世代が好んだ「反面教師」という言葉があります。
「かくあらまほし」というものは難儀なもんですなあ、兼好さん。