頑固爺の言いたい放題

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「君が代」論

2020-11-01 11:38:13 | メモ帳
爺はアメリカ在住当時、プロの野球やバスケットボールのゲームをよく観戦したが、その時感動したのはゲーム開始前の国歌斉唱の光景である。観客全員が起立し、片手を胸に当てて、目を輝かせて歌う。そこには人種差別もなければ貧富の格差もない。観客がアメリカ人であることに誇りを感じ、連帯意識が高まる数分である。

冒頭に「感動した」と述べたが、そのわけは日本では「君が代」に嫌悪感を抱いている人がいることと比較して、羨ましいと感じたからである。

ネットで調べてみると、「君が代」が忌避される理由のひとつは、「君が代」が軍国主義の象徴であったというもの、もうひとつは「君が代」は天皇賛歌であり、国民主権である現在、国歌として相応しくないというもの。

この根拠に対して、論評する。

(1)軍国主義との関連
どこの国でも戦争となれば、戦意高揚・意思統一の目的で国家を歌うのは当然であり、戦争に敗けても国歌は国歌であることに変わりはない。また、戦争に敗けたからといって、“戦時中のものごとをすべて悪”と決めつけるのは理窟に合わない。

そもそも75年も経過して、戦争を経験していない世代が圧倒的多数派になったにもかかわらず、未だに敗戦気分を引きずっていること自体がおかしな話である。

(2)「君が代」は天皇家賛歌か?
古今集の時代から、「きみ」は主人、家長、友人、愛人の意味で使われてきた。今でも、「きみ」は二人称として使われている。一方、天皇を意味するなら「君」でなく「大君」であるはずだし、「代」は「御代」でなくてはならない。

したがって、「君が代」の「君」は天皇を意味するのではなく、単なる二人称、三人称であり、自分以外の全ての人と考えるのが適切である。すなわち、「君が代」は世の中のすべての人の幸せを祈る歌である。

偉そうなことを言ったが、正直に申して、爺もつい最近までは「君が代」は天皇家が永遠に続くことを願った歌だと思っていた。だから、同じように受け止めている人はかなりいると想像する。そういう方々が上記の説明に納得し考えを変えて頂けたら幸いである。

ところで、「さざれ石(小石)が巌に成長する」のは科学的にありえないという議論があるので、これにについて反論する。

「小さな石が巌になる」とは、古来自然を崇拝する文化があったこと(例 お天道様、お月様、山の神)に関連があり、石を擬人化して敬う気持ちがあって、こういう表現になったと思う(但し、こういう学説があるわけではなく、爺独自の考えである)。

話を本筋に戻す。爺は「君が代」が平和を希求する日本に相応しい国歌だと認識しており、すべての日本人が誇りを持って「君が代」を歌うことを願うものである。