今回のテーマは韓国の憲法にも記述がある3・1運動である。
前回取り上げた加藤陽子氏の著書「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(以下、同書)の中に、併合後の朝鮮で起きた3・1運動について論じている箇所があるので、その話から始めたい。
3・1運動とは、日本の韓国併合から9年経った1919年(大正8年)3月1日におきた、日本からの独立運動であることは言うまでもないが、同書は“第一次世界大戦”という意外な章の中で、この事件について述べている(赤字)。
このような全国規模の独立運動が起ころうとは、朝鮮総督府も朝鮮軍も予測していませんでした。このときのことは、2007年に刊行された朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎と言う人の日記に書かれています。・・・
宇都宮は独立運動の要因を、日本が「無理に強行したる併合」に求め、併合後の朝鮮人への有形無形の差別に起因する」と率直に書いていました。つまり、日本が無理に併合を強行し、併合後の朝鮮人を差別的に扱ったから独立運動が起きてしまったのだと分析していたのです。(P.274)
宇都宮太郎が言う「無理に」の意味が曖昧である。しかし、その結果“独立運動が起きた”と言っているのだから、韓国内部に日本による併合に反対する勢力があったが、それを無視して強行した、とう意味だと解せられる。当時、日本では併合賛成が多数派だった中で、その少数派の一人が軍人だったことは注目に値する。
そして、加藤陽子氏は賛成派の意見には触れず、反対派の宇都宮太郎の発言だけを引用していることから、加藤氏には「併合=悪」という潜在認識があるように感じる。ここでは「併合=悪」については論じないが、同書の記述を理解するには、加藤氏の潜在認識を念頭に置く必要がある。
さて、同書は朝鮮で起きた独立運動を第一次世界大戦終結後のパリ講和会議に関する章の中で論じている(赤字)。
3・1運動は、まさにパリ講和会議が開かれていた最中におきた事件です。日本の朝鮮支配は他の列強などの植民地支配に比べても残酷なものではないかということが、パリ講和会議や米国の上院で議論されはじめるのです。
問題点は、世界の列強が<朝鮮に独立運動が起きたのは、日本の朝鮮支配が残酷だったためだ>と認識していたことである。日本は第一次世界大戦の戦勝国であり、それまでドイツが持っていた中国山東半島における権益を日本が受け継ぐことになるが、植民地を苛酷に支配する国にそんな権益を与えるべきではないという話になったのである。
そして、加藤氏は“パリ講和会議で日本が負った衝撃や傷は、1930年代になってから深く重くジワリと効いてくるのです”と述べて、第一次世界大戦の章を締めくくっている。
1919年以降は朝鮮半島に独立運動が起きていない。むしろ、1930年代後半になると、朝鮮人が日本軍への兵役を志願するなど、朝鮮人の精神的日本人化が進んだ。
この変化の要因は、日本が3・1運動を境に弾圧的運営から宥和的運営に方針を変更したからだが、その方針変更には総督府の反省もさることながら、パリ会議での衝撃もかなり影響したと思われる。
さて、韓国憲法の前文には<悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と・・・>と記されており、3・1運動は韓国人にとって重大な意義がある。
文在寅大統領は<韓国の独立運動は1919年の3・1運動から始まり、韓国人は日本の悪逆非道な支配に耐え忍びながら、闘い続けてついに1945年に勝利した>というファンタジーを創作した。このファンタジーが真実であるためには、日本が併合時代に悪逆非道だったことが必要である。
現在の日韓の軋轢の原因は、韓国が創作したこのファンタジー物語にある。