今回は、文芸春秋12月号に掲載されている数学者の藤原正彦氏の寄稿「亡国の改革至上主義」に書かれている学校教科書のデジタル化に焦点を当てたい。
教科書のデジタル化に賛成する意見は、「子どもたちが重い教科書を持ち運ばずに授業が受けられる」、「将来のIT化に対応できる人材を育てる」など。これに対し、藤原氏は真っ向から反対する。以下、同氏の論文から引用する(赤字)。
~本棚に並ぶ本は自らの歩んだ軌跡であり、自分を造った宝物なのだ。・・・記憶は反芻によって深められる。いつでも手許における活字本は反芻に便利で、私などは数学書に関し、「この定理はあの本のあの辺り、右ページの中ほどにあった」というような記憶すらあった。デジタル教科書を子どもに押し付けることは犯罪的である。
新学期が始まり、新しい教科書を手に取った時の喜びは、新しいインクの匂いとともに記憶に残る。デジタル教科書はこの幸せな経験を子どもから奪い、活字本への愛着を阻害する。日本人の活字離れを加速させる亡国の改革なのだ。
爺はかつて、習慣的にデジタル本を購入していた時期があるが、数年前に活字本に戻った。デジタル教科書とデジタル本は論点が多少異なるが、重なり合う部分がかなりあるので、藤原説を爺の観点から考えてみる。
デジタル本は、保管に場所を取らない、読みたいと思えば瞬時にして目の前に現れる、スマホにいれておけばどこでも読める、といったメリットがあるが、デメリットもいろいろある。
それは、今その本のどの辺りを読んでいるのかわかりにくいこと、前のページを見たいと思っても簡単にそのページを出せないこと、目が疲れることなどもあるが、爺にとっての最大の問題点は、デジタル本ではその本に愛着が持てないという情緒的な側面である。この感覚は藤原氏の意見に通じる。
自宅の書棚に活字本が並んでいれば、藤原氏が言うように「自分の軌跡」をいつも眺めているようなもので、満足感・達成感がある。これは藤原氏が言う「宝物」である。
デジタル本でも同じような満足感・達成感が味わえるはずだという反論はあろうが、活字本にはデジタル本にはない触れ合い感がある点が異なる。
爺は学校の教科書にはもう縁がない年齢だが、こどもだった時代もある(笑)。こども時代を想い出して、藤原氏の意見に賛同する次第である。