つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

お客様よりのメール 斎藤典彦 こまやまー秋

2016年10月06日 | 斉藤典彦

以前斎藤典彦先生の作品「こまやま」をお求め頂いたお客様よりメールをいただきました。

そのメールと「こまやま=高麗山」についてご紹介させていただきたいと思います。

 

 

佐橋様

 

最近北の方へ行く用がないのでご無沙汰しています。

さて、先日、10月1日の朝日新聞の土曜版を見ていたら、高麗山のことが取り上げられていました。

今の埼玉県辺りに8世紀ごろ高麗郡が置かれたこと、玄武若光という高麗の王子が、(例の斉藤さんの絵にある高麗山の麓?山頂?の)高来神社に上陸し、北へ向かい高麗郡ヘ行ったというようなことなどが触れてありました。

やはり、「こまやま」は高麗山だったんだなと納得した次第です。

 

「最近北の方へ行くことがないのでご無沙汰しています。」

なんと素敵な書き出しでしょう。

北の方?

お客様のお勤め先から高岳の当店の方角ということですね。

 

早速朝日新聞を取り寄せることから始めました。

ちょうど一昨日「無眼界展Ⅲ 11月3日~12日」の広告を載せて頂こうと

中部朝日広告さんとお会いしていたので、お願いしてみると

すぐに1日土曜版を届けてくださいました。

 

 この記事によると

○高句麗とは中国東北部から朝鮮半島北部にかけて668年まで約700年間存在した古代国家であり、日本では高麗(こま)と呼ばれ、

 多くの高句麗人が日本に渡って来たといわれていること

○続日本書紀には716年、上総(かずさ)など東国7国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、

 高麗郡を建都したこと(現在の埼玉県日高、飯能市一帯)

○この埼玉県日高市の高麗神社から約70キロ南。

 神奈川県大磯町にも高麗王、若光の伝説が残り、町内の「高麗山=こまやま」の麓にはかつて高麗神社と称した高来(たかく)神社が立つこと。

などが書かれています。

 

また

 埼玉県高麗神社はその若光(高麗王)を主祭神として祭り、高麗家系図によると宮司は若光の子孫が代々務め、現在の高麗文雄さんで60代目。

日本で脈々と高句麗の血をつないできたことになるが、鎌倉幕府が滅亡した前後には戦乱に巻き込まれ、断絶の危機もあったこと。

その後は「戦に参加しない」を家訓とし代々高麗家を守ってきた 

という文面もあり大変感動しました。

 

今年は高麗郡建都1300年を記念し、様々なイベントが企画されているそうです。

 大磯町こまやまの麓の高来神社から、埼玉県日高市の現在の高麗神社までを歩くウォークイベントまで開催され、多くの方が参加されたとありました。

 

「こまやま」について、このアドレスから更に詳しい情報を得てみると。。

 

当店からお求め頂いた作品の題材「こまやま」の名前の由来を推察され、今回この記事で高麗の王子が辿った道に

思いを馳せてくださったお客様のお気持ちが私にも十分実感され、一枚の絵から広がる心の世界に喜びを感じました。

早速斎藤先生にもお知らせしたいと思います。

 

ここから南でお仕事のお客様、メールを誠にありがとうございました。

またお会いできますのを楽しみにいたしております。

 

 斉藤典彦 4号 「こまやまー秋」  今日の佐橋美術店の応接間より

 

 

※先日佐橋がお邪魔した、斎藤典彦先生と奥様の斎藤佳代さんの作品がご覧になれる展覧会のご紹介です。

 大阪伊丹市 柿衛文庫 「歩く詩人 ワーズワスと芭蕉」 11月3日まで

 

 イギリスの詩人ウィリアム・ワーズワス(日本ではワーズワースでお馴染み)と芭蕉の作品と、

 その両者の共通点「歩く」「旅」のキーワードをテーマに日英の各分野の現代作家が作品を制作、展示するという内容です。

 

 

 どんな小さな情報、お気持ちでも構いません。
 
美術品と日々お暮らしでいらっしゃる皆様からのお便り、メール、お電話をいつも楽しみにお待ちしています。
 
 
 
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斉藤典彦  画商という仕事

2016年06月14日 | 斉藤典彦

 

先日私のもとに20年ぶりに

『月を掴む』斎藤典彦1992年作

が帰って参りました。事情があって私の目が届かなくなっておりましたが、思い出深い作品でしたのでとても嬉しい再会となりました。以下、昔ばなしで少し長くなりますがお付き合いください。

当時修業させて頂いておりました画廊において、新進気鋭の若手作家の方々にお願いして『渾沌の会』と名付けたグループ展を私が企画いたしました。

日本画:新井政明、河嶋淳司、斎藤典彦、千住博、高橋信三郎、目黒祥元
洋 画:伊勢崎勝人、湯山俊久ほか白日会の会友の方々

(敬称略)

日本画は工藤甲人先生からお聞きしていた有望な若手作家の方々で、洋画は湯山先生からご紹介を得た伊勢崎先生の人選でした。

トリエンナーレ式に3年ごとにということで始めたのですが、力及ばず残念ながらわずかに三回開けたのみで途絶えてしまいました。

それでも各先生お一人ずつにお会いして直接お願いしたのを懐かしく思い出します。

そのときの斎藤先生には
「せっかく企画展に呼ばれても僕は富士も薔薇も鯉も書けませんが…」
と言われ、驚きつつも我が意を得たりとばかり
「大丈夫です。フジ・バラ・コイが欲しければ斎藤先生のところには参っておりません。どうかご自由に描いてください。」
と申し上げたものです。

「話せるなら絵描きはしていない。うまく言葉に出来ないから絵を描いている…」 というようなことを仰有られる先生と、口下手な上緊張しきりだった私と二人してしどろもどろだったことも、恥づかしくも心地よい印象として残っています。(しどろもどろは今でもあまり変わりませんが…)

しかしながら斎藤先生は若き助手の時代よりお仲間うちから“professor”と呼ばれていらっしゃたので、実は本質を鋭く射ぬくお言葉をお持ちなのだろうと想像してもいます。

今では名実ともに東京藝術大学のなくてはならない教授としてご活躍です。

私どものお店におみえになられたお客さまにはご紹介しておりますが、当店の看板や封筒等のロゴの文字は斎藤先生の筆によるものです。私の独立開業ののち機会を得て先生にご無理をお願いしたのですが、これがまた実にいいんです。半切に書かれた『佐橋美術店』を手にしたときには家内と二人で泣きました。

添付の作品は『渾沌の会』の初回と第二回の間に無心してご制作いただいた作品です。先述の画廊を退職した後はお買い上げいただいたお客さまに伺うことが叶わず、時おり思い出すのみでありましたがこのほど期せずして縁を繋いで下さる方があったのです。

早速お店に飾ってみましたが、見れば観るほどに佳いのです。やっぱり好きなのですね、当時も今も…いえ尚更に。

「絵画の収集を始めたいが絵の見方が分からないので教えてほしい」との問いには昔から
「絵に限らず美術品の収集は好きか嫌いかに始まって、いろいろ集めて勉強して知識も豊富になって…、でもやっぱり最後は好きか嫌いかに行き着く」と申し上げてきました。

そういう私自身が最近になって、やっとその言葉の本当の意味が分かってきたのです。禅の悟りも生涯かけて聖胎長養するように私もますます勤しんでまいりたいと思っています。

 

佐橋雅彦



 

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