昨日の土曜日は、外をお通りの方が少しご来店くださいましたが、そのほかにご予約もなく、この一週間にと思っていた作業も私の代わりに義娘が片付けてくれたので、私はお彼岸の憂鬱をひきづったままボーっと画廊で一日をすごしました。私なりに憂鬱を解消する方法はいくつかありますが、そういう時、誰かを誘っておしゃべりをしたり、お食事をしたりというのが苦手なので、一人とことん落ち込むことにしています。
ある程度、底の方まで落ちたかな?あぶないかな?と思うとき、駆け込むのは店の図書室です。一番助けになるのはやはり画家たちの言葉なのです。ホームページのトップに掲載させていただいている言葉たちは、今までの私を随分救ってくれました。
一冊の本を全部読み切ることはありません。大体必要なところだけを適当に抜き読みします。
昨日はこの華岳の「画論」をまた読み返しました。
読んでいると、こちらも本気モードになり、なぜか机に向かったり椅子に座っていられなくなります。
画集は重たくて、机の上に運ぶのも一苦労ということもありますが、この頃いつのまにか床に座り込んで何かを読んでいることが多くなりました。
昨日はここに入り込んで体育座りをして、本棚の一番下の段の古事記などの本をめくっていました。
華岳が一番苦しんだのは、絵が売れるようになり、制作の注文が沢山入るようになってからのようです。人間というのはとても不思議なものです。誰かに認めてもらいたいと思いながら、あまりに沢山の人に褒められたり、求められたりすると、「自分はそんな安価な人間か?」と思ってしまうのですね。
それはもう寿命とか体力の問題かもしれませんが、有名になってからも志を捨てずに画業を極めた画家たち、つまり長寿の画家たちにはない魅力が村上華岳の作品にあるのは、この「売れてしまった苦しみ」に起因するものもあるのかなと思いました。
なまじっか身にあまる芸術という重荷を背負うているためにー
そして人の世の約束事を間違いなしに行はうとするためにー
この弱體には少し無理かもしれません。
けふ一日、一点。明日二日目に一線。
落款を入れるまでに、それが最も少ない時でさへも
一週間黙想せねばなりません。
牛の歩みより遅い近頃の自分の仕事を顧みて、夜も完全に眠れません。
唯一途に芸道の愛を全うしたいばかりに、(実は私の一生はこの外はないのです)自ら求めて苦難の道をあるいておるやうです。
真の風流といふものは楽ではなくて、苦しくにがいものです。
芭蕉の生活はそれを證して餘あります。(天罰か恩寵か、恐らく判然としないものです)
他人より見れば憫笑の外はないでせう。
(村上華岳 画生活寸語)