つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

!パニック!!

2025年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム
皆さま、連休をいかがお過ごしでいらしたでしょか。

私は日曜日の夜に突然携帯電話が初期化してしまい( ノД`)それから半日、ほとんど徹夜で「復旧作業」に当たったので昨日はお昼寝をしながらダラダラと過ごしてしまいました。

はじめは突然すぎてパニックになってしまって、かなりのストレスとなりましたが、ひとまず気を落ち着かせるために息子に連絡をして話を聞いてもらい、急用の際は家の固定電話に連絡をくれるようお願いをしました。息子も復旧に協力するよと言ってくれたので心強くなりました。

それからは、もう必死で何をしたかはよく覚えていませんが、ただ、結局復旧作業を自分一人ですることが出来たので「なかなかやるじゃない!わたし!」というような手ごたえは後になって感じることができました。幸いパソコンやiPadと共有しているアプリもありましたし、アカウントやパスワードをメモしてあったのがよかったと思っています。


というわけで、今週も無事店に出ることができました。
他力本願なので何ともお伝えできませんが、おそらく今週には福井作品を運んでいただけるかと思います。




昨年暮れにご来店のお客様とそのお客様からお預かりいている森芳雄作品をご一緒に見ることができました。

森芳雄展の際にお求めいただいた作品です。ご希望があったので今回鑑定書をつけることになりました。タイトルは「ひなた」


山口薫展のあとに森作品をどのように感じられるか?少し心配だったのですが、全く問題はありませんでした。それどころか、森作品の深みがより強く感じられました。無駄なものは何もなく純粋に対象である家族に向かうその情愛に感動します。

以後機会があればまた山口薫、森芳雄作品について書かせていただきたいなぁと思っています。




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お納めのあとで  長文なので、お時間のお有りの時におよみください。

2025年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
年末にお立ち寄りくださいましたお客様、といってもいつもの後輩のKさんですが、私のお願いに応えて少し前にメールをお送りくださいました。

お納めいたしました山口薫の作品についてです。(上の画像の作品です)

もう少し早くご紹介させていただくべきでしたが、もう~素晴らしい内容で~
私が書かせていただきます記事が霞んでしまうような嫉妬を覚えましたので(;'∀')タイミングを見計らっておりました。

私自身も山口薫について書かせていただくのは、今週が最後になると思いますので、総決算としてKさんのお便りにご協力をいただきますね。


昨日はお邪魔しました。
年納めに薫を観ることができ、嬉しかったです。

お話の中で、「今回の展覧会で薫作品を求めた人達の感想」が気になるとのことでしたので、お話のついでにこちらに書かせていただきます。

個人的な見方にはなりますが、私は画家というのは眼の前の対象にフォーカスする上で「本質追求型」と「自己投影型」に分けられると思います。これには一定のグラデーションが掛かっているので、例えば鳥海青児は前者より、森芳雄はどちらかといえば後者、山口薫は後者よりといった感じでしょうか。
もちろん画家である以上、描く対象は大事でそこに集中しているのはみな同じだと思いますが、対象の本質に迫るというところをシビアに突き詰めるのか、それとも対象に自己投影するのかでは、資質的な面からするとかなりタイプが違うように思います。
鳥海青児は質感やフォルムに対する執拗なこだわりを感じます。晩年に縄文の埴輪などを対象にしたのは、単に骨董コレクターである側面を超えてのことでしょう。
森芳雄の主な対象は人物。よりプライベートな領域に入ってきます。
山口薫は作品や時期によるかも知れませんが、安直な言い方をすれば詩的な叙情性に溢れています。

この作品には「辻中君思い出の庭 思い出の山」とあるように過去の思い出を投影しています。辻中君は大切な親友であったと思いますが、これを描いたきっかけが何であったのか私には分かりません。ただ現実から目を背けたくなるようなときに、何か良い思い出を回顧したり、ノスタルジーに浸りたくなるのでしょう。
青春時代は無防備に人を信じたり恋したりできる唯一の時間。そんなときに色々なことを共有できた親友というのは薫にとってかけがえのない存在であったでしょう。
そのノスタルジーを画面に丁寧に投影しています。とてもプライベートな絵ですが、どこか甘美な思い出は静かに青いマチエールに溶けて静かに佇んでいます。

戦前に三年ほどパリに滞在して、本場の絵画に触れて多くの画家の個性を目の当たりにした薫は何を感じたのでしょうか。
自己を投影しつつも観るものを脅かさない。それが薫の個性であったように思います。

「多情なものは今の時代に合わない」というのはその通りだと思います。いわゆる芸術家はいろいろなものを犠牲にして作品を残します。その一方で倫理的な面で問題を抱える人もいました。薫の場合はお酒でしょうか。作品はそうした行為に対する免罪符的な面もあったと思います。
しかし今の時代はそれを許しません。だからこそ多情な作品を残すことには大きな意義があるのでは思います。


いかがでしたでしょうか。
鳥海、森芳雄、山口薫についての分析はさすがだなぁと思い、とくに山口薫についての自己を投影しつつも観るものを脅かさない。それが薫の個性であったように思いますという一文には感心をいたしました。

確かに、この観る者をおどかさない。或いは侵さないというところにこそ、山口薫作品の本質があり、私はこの数か月その事ばかりを考えてきたのだろうと思います。

つまり、自己投影の入り口から、芸術の本質である美の真理へ。
「私」から「普遍」へ。

まさにそれが、日本近代芸術の抱える最大の問題であり、山口薫は独り、果敢にそれを模索した画家であったように思うのです。(もしかしたら、森芳雄も同じであったかもしれず、成功したかはわかりませんが、彼の場合もっと極端に細い道のりを選んでいたのかもしれないと思いました)このことについては、先の芸術新潮の中で居松篤彦さんも「山口薫は少女や馬、牛といった題材を、具象と中小の絶妙な間で抒情とたたえつつ表現しています。画壇にも欧米の美術動向にもおもねらず、日本人としての知性と独自性を持ち、自ら道をきわめた作家の一人と思います」と述べられています。

さて、Kさんの文章の中の「多情なものは時代に合わない」とありましたのは年末ご一緒にお話をさせていただくなかで確か私がお伝えした言葉だと思います。

ちょうど、私が今信頼している作家さんが「今の日本のエリートたちには感情というものが感じられない。むしろ、それを軽蔑し、情緒を断ち切ることが上等だと思っている。全くいやになる」というようなことをおっしゃっていたのを覚えていたからだと思います。


前の記事の「自転」につながることだとも思いますが、近代日本絵画のお値段が下がってきたことにはそれなりの意味があり、情緒、芸術性を本当に理解できるのは、もはや想像の乏しい正義感のみに突き動かされている政治、経済界に君臨する方達ではなく、生活をする大衆、市民の私たちであり、その方達のもとに作品たちが納まってゆくことが自然であるからではないのか?と考えはじめていたのです。

今は皆疲れてしまっているといえばそれまでかもしれませんが、日本って「情 なさけ」の国ではなかったのかな?と時々思うのです。




だらだらと本当に長くなってしまい失礼申し上げました。

山口薫の作品の本当の素晴らしさは、一緒に暮らしてみて初めてわかる。
という実感をきっとKさんはお持ちくださったのだと大変嬉しく思い、お正月の間、私も再び生活と芸術について考えることができました。

決して山口薫、近代日本絵画の魅力についての結論には至りませんが、その途中経過として記事を書かせていただいたことを幸せに思っています。

おつきあいいただきありがとうございました。





















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今年もよろしくお願い申し上げます。

2025年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
本日より今年の営業をはじめさせていただきます。

皆様よろしくお願い申し上げます。


喪は明けても、昨年末にはなかなかお年賀状を書く気になれず、福井良之助展のご案内を早めに差し上げることでみなさまへのご挨拶がわりとさせていただこうと思っておりますが、今日店にきてポストを開けてみると、何人かのお客様からのお便りが届いていて大変申し訳なく、、そしてこの上なく嬉しく思いました。

まことにありがとうございます。


画廊を営んでいて、お客様にメールやお便りを差し上げてもお返事をいただけるなどということは稀なことだと思います。

特に、ご遠方のお客様がお便りのなかにこんな言葉をお書きくださり、新年の仕事始めに大変力をいただきました。

「世の自転は比較的真面目に来る 年も廻るものと推察致して居ります」

丁度私も寝正月の炬燵の中で、再び「おのずから」ということを考えておりましたし、夏目漱石の「門」を読み、今まで佐橋は聖者となってあの門の向こう側に行ってしまったと思いとても寂しく思っていたけれど、(日本人は死者に対して特別な意識をもっていますね。)きっと迷ったまま他界し、私の横で、まだその門の前で、佇んでいるかもしれないと感じていましたので、この「自転」「真面目に来る」という言葉に強く惹かれました。


お客様のお書きくださった「自転」はそれとはまた違った意味も多く含んでいるとは思いますが、時間というものの本質を考えるとき、自転は救いともなり、またそれが故にこの世への愛おしさにも生まれるように思います。


以前にもお伝えしたことがあると思いますが、最後に漱石の言葉を再びご紹介いたしますね。



「真面目とはね、君、真剣勝負のことだよ」



自然はいつも真剣にそこにいてくれるのだと考え、信じ、今年を過ごして参りたく存じます。






画像 重要文化財 十二神将立像 巳神 
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可愛いお客さま

2025年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の日曜日、店にとてもかわいらしいお嬢さんが遊びにきてくださいました。

小学校4年生。

もっと小さなころから度々お会いしてきたお嬢さんですが、一年半ぶりにお会いするととても大きく、そして更に女の子らしくなられていてびっくりしました。


色々一緒に楽しいお話をしたり、ガチャガチャでゲットされた「らんま1/2」(懐かしいですよね。何度も新装版が出たり、昨年は完全新作アニメが放送されたそうです)のフィギアを見せてくださいました。

このキャラクターのデザイン、またフィギアの完成度にもびっくり!
最近のガチャガチャのレベルの高さを学びました。



そして、お茶をお出しするとその横にフィギアをのせて写真を上手に撮影されたので、私にも転送してくださるようお願いをしました。私のブログの画像をはるかに超えた出来栄え。びっくりというよりもう何だか😞がっかりでした。



山口薫の作品を背景に。。このセンス、本当に素晴らしいですよね。

「山口かおる?月と馬の結婚?」と作品のプレートを読み始めてくださったので、「おじいちゃまからお預かりしている作品なのよ」とご紹介もしました。

画商さん一家のお嬢ちゃま。

少しでも長く、この山口薫の作品たちのこととこの店のことを覚えていてくださると嬉しいなぁ~と素直に思え、その為にも今年もがんばってみよう!そう思えました。







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芸術新潮 2025年1月号

2024年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム



今日はこのブログの記事を書いても書いても、なぜか跡形もなく消えてしまって〜おそらく自宅のパソコンの操作を私が間違えてしまっているのだと思いますが〜ヘトヘトになってしまったので、仕方なく携帯から更新させていただきますので、短めの記事で失礼いたしますね。

25日発売の芸術新潮は表紙がアイドル?俳優さん?で皆でビックリ!致しましたが、「ニッポン・モダンアートへのいざない‐山口薫の抒情‐」の記事はとても素敵で、この中で当店をご紹介いただけましたことを大変光栄に思っています。




一年前には想像もつかなかった、佐橋美術店の「今年の仕事」の展開ではありますが、思えば佐橋と共に目指して参りました「画廊の仕事」の延長上に~といいますか、弥栄画廊さんのお力でかなりスキップをして高いレベルまで一挙に引き上げていただきましたが~いま居るのだということをこの雑誌記事で確認させていただくことができました。

個人的にはお見苦しいほど必死に、この一年半、店に通い続けさせていただきましたが、その必死さが私を大きなショックから救ってくれたのだと思い、その結果として、或いは記念としてこの記事に当店をご紹介いただきましたことは楽しいオマケ?プレゼントをいただけたようにさえ感じています。



さて、この記事にご尽力いただいた居松篤彦さんのギャラリーをこのブログであまりご紹介して参りませんでしたので、今回少し皆様にお伝えいたしたく存じます。

お忙しい中を名古屋にお帰りの際は必ず当店にもお立ち寄りくださり多くの刺激や励ましをくださいます。深い感謝とともに、この方の様々な分野へのこれからのお仕事を私は大変楽しみにさせていただいております。










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