先日の記事、「詩と絵画」につきコメントをいただきました。
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絵画と詩のテーマ、やはり興味深いです。
この前、メナード美術館に行って色々良い作品を拝見できたのですが、ふとこれらの美術品は近代のそれであって現代ではないのだということに気づきました。
そこで少し考えてみました。現代芸術と近代芸術の差(違い)とは何か?
何事にも例外があるにせよ、やはりコンセプチュアルという言葉は現代アートとは切り離せないでしょう。つまり社会(テーマは環境やジェンダーなど多岐に渡りますが)に対するメッセージ性がないと相手にされないという時代性。そして目新しさ。新鮮さ。そしてその切り口を第一に評価する資本は、そうしたものを強欲に飲み込んでいきます。
今ではそこにデジタルテクノロジーが介入してきているので、一部絵とか彫刻の範囲を超越してきていますが、それが現状です。
つまり現在芸術と認知されていないものが、周回遅れで将来芸術と認知される、そんなことがいくらでも起きうるということです。
コンセプチュアルアートの生みの親は、マルセル・デュシャンと言われています。
なるほど彼は早々に絵を描くことを放棄して、小便器にサインを入れて芸術品として出品することを「思いつき」ました。そしてそれから100年以上が経っています。
そして現代評価されているものは、あの手この手で姿かたちを変えながら、しかしこの流れの上にあるものが多いように思います。
つまり現代アートと言われるものはこれをずっと引きずっているわけです。
一方近代アートは、こちらのブログでも紹介された通り
【近代的な自我の自覚と世界のシュルレアリスムという流れの中で、日本において一挙に詩と美術の動向が交差する稀な時代が続き、それは、私どもの大好きな「近代日本絵画」の一つの大きな個性となりました。
どこか青臭く、大変繊細な心。つまり、過剰な自意識と感傷的な敗北感。】
つまり自我やエゴに重きを置く芸術です。確かにコンセプトは必要ありません。
メナード美術館には、マネやセザンヌなど印象派の錚々たる顔ぶれの作品があり、日本画では大観や靫彦、洋画では梅原や安井、坂本などが見れます。
個人的にはそうしたものを見て満足できます。「良いものを見れたと。」
例えば裸婦が数点あります。
岡田三郎助、小出楢重、梅原龍三郎のそれは当然個性が違います。各作家の対象を捉える眼差しの違いがその差となって現れてきます。
なぜ裸婦を描くか?裸婦や風景、静物を描くという行為はアカデミズムの賜物であって、コンセプトではありません。どのような裸婦を描くかが問題になるわけです。観る側はその中の何かに反応する。これがシンパシーで、好き嫌いの元になるわけです。例えば梅原が好きならば、梅原の持つ何かしらに共感していることになる。その反対も然りなわけです。
詩は、個の内面からしか生まれません。
一方コンセプトは頭でひねり出すものです。そのうち人工知能のほうが、優れたコンセプトを生み出すかもしれません。
佐橋さんの指摘する、叙情性の危うさはこうしたところから来ているのかもしれません。
日本近代芸術における詩と絵画の関連性、その認識に関する記述に大きく共感しました。
最後に絵画の絵画性を追求した作家たちの将来の評価に関する懸念ですが、これは確かに難しい問題です。
ただノスタルジーを求める人は一定数いるはずです。そこに共感がある限り、何かしらの形で作品は残るのではないでしょうか。
素敵な作品をこれからも紹介し続けてください。応援しております。
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美術作品の鑑賞の方法はそれぞれでいらして、学芸員さんだから、画商だから、コレクターさんだからという専門性は不要であると思っています。同じ仕事をしていても佐橋と私の絵の見方は全く違います。
私はどちらかというと自分の人生に引き寄せて絵を見ている方だと思いますので、このブログをお読みくださる皆さまには「何もここでそれほど立ち止まらなくても〜」と思われることも多いかと感じます。
特に今年は「コロナの入口で引っ掛かり、今出口で引っかかっている」という、そんな感じの私です。
そんな私の文章を読んでいただき、また共に考えようとしてくださるお客さまがいらっしゃることは、私にとって最大の喜びなのです。コメントをいただきとても元気が出ました。誠にありがとうございました。
現代アートについては、鑑賞する初めから、どうも拒否反応が出てしまっていました。
けれど、今回コメントをいただいて、少し考えが変わりました。
そして、詩と絵について書かせていただいて良かったと思えました。
つまり、資本主義社会の進んだ今を生きる私達には近代文学や近代美術にみる抒情性は重すぎるのではないか?という感想です。
コンセプト、概念に芸術的心を預けておく?逃げておく?ことがなければ、その科学の進歩のスピード、生活様式の激変に人間はついていけない、気持ちを持って生きようとすれば精神が崩壊してしまう。このコロナ禍の自殺者の数もそれを証明しているようです。
近代に詩という文学に近づいた美術は、現代においては記号、デジタルなど映像に近づき、また政治や科学や生活に近づき、その抒情性を封印したように思えます。封印しなければ、美術は生き残れなかった。
そして、その芸術運動はコメントに書いていただいたように画家、彫刻家、陶芸家としての鍛錬の時間を不要なものにしてしまいました。誰もがアーティスト!そんな時代になったのです。
私はその事を大変憂い、時代を巻き戻すことばかりを考えていました。そこに近代絵画をご紹介させていただく意味も求めていました。
けれど、デュシャンの登場から100年も経つのですから、「今」を認めなくてはいけない。その先が見えない!と思えるようになりました。
どんなに大きな地震が来ても、放射能が漏れても、破壊的な台風が来ても、知らんぷり!の世の中に、もう多分皆疲れ切ってしまっているでしょう。何よりこれからを生きる若い方達がどんなに不安を抱えていらっしゃることでしょうか。
資本主義の行き詰まりはもう目に見えているように思い、またその新しい時代の到来にはきっと新しい芸術の主張が生まれると期待しています。叙情性の回帰とはいかないまでも、きっと人々は「心」に帰っていくだろうと思っています。それは近代芸術の持つ重さ、方向性とは少し違うように思えますが、何かもう少し温度のある芸術、深みと鍛錬を要する芸術が生まれてくれるだろうと想像します。
そのための足掛かりとして、絵画性の高い日本近代美術作品を厳しく選び、イベント化している現在の展覧会とは違ったご紹介の仕方で数々の名作を皆さまにご覧いただきたいと思います。
きっとそれが目に見えない世界、他者への想像力を養い、新しい時代を生む原動力となるとも信じています。