つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

図書室にて

2024年09月22日 | 村上華岳
昨日の土曜日は、外をお通りの方が少しご来店くださいましたが、そのほかにご予約もなく、この一週間にと思っていた作業も私の代わりに義娘が片付けてくれたので、私はお彼岸の憂鬱をひきづったままボーっと画廊で一日をすごしました。私なりに憂鬱を解消する方法はいくつかありますが、そういう時、誰かを誘っておしゃべりをしたり、お食事をしたりというのが苦手なので、一人とことん落ち込むことにしています。

ある程度、底の方まで落ちたかな?あぶないかな?と思うとき、駆け込むのは店の図書室です。一番助けになるのはやはり画家たちの言葉なのです。ホームページのトップに掲載させていただいている言葉たちは、今までの私を随分救ってくれました。

一冊の本を全部読み切ることはありません。大体必要なところだけを適当に抜き読みします。

昨日はこの華岳の「画論」をまた読み返しました。

読んでいると、こちらも本気モードになり、なぜか机に向かったり椅子に座っていられなくなります。

画集は重たくて、机の上に運ぶのも一苦労ということもありますが、この頃いつのまにか床に座り込んで何かを読んでいることが多くなりました。




昨日はここに入り込んで体育座りをして、本棚の一番下の段の古事記などの本をめくっていました。



華岳が一番苦しんだのは、絵が売れるようになり、制作の注文が沢山入るようになってからのようです。人間というのはとても不思議なものです。誰かに認めてもらいたいと思いながら、あまりに沢山の人に褒められたり、求められたりすると、「自分はそんな安価な人間か?」と思ってしまうのですね。

それはもう寿命とか体力の問題かもしれませんが、有名になってからも志を捨てずに画業を極めた画家たち、つまり長寿の画家たちにはない魅力が村上華岳の作品にあるのは、この「売れてしまった苦しみ」に起因するものもあるのかなと思いました。





なまじっか身にあまる芸術という重荷を背負うているためにー
そして人の世の約束事を間違いなしに行はうとするためにー
この弱體には少し無理かもしれません。

けふ一日、一点。明日二日目に一線。
落款を入れるまでに、それが最も少ない時でさへも
一週間黙想せねばなりません。

牛の歩みより遅い近頃の自分の仕事を顧みて、夜も完全に眠れません。

唯一途に芸道の愛を全うしたいばかりに、(実は私の一生はこの外はないのです)自ら求めて苦難の道をあるいておるやうです。

真の風流といふものは楽ではなくて、苦しくにがいものです。

芭蕉の生活はそれを證して餘あります。(天罰か恩寵か、恐らく判然としないものです)

他人より見れば憫笑の外はないでせう。

(村上華岳 画生活寸語)









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅きに失する?

2024年01月19日 | 村上華岳
昨日は雨のせいか?気温が少し上がったように感じられ「店でコートを着る」ということもなく、また幸い小雨で済んだので、風呂敷に包んだ作品の返却も義娘の運転のおかげで無事に済ませることができました。

我が家のお嫁さんのことを「義娘」、義理の娘と書くことにずっと抵抗がありましたが、今実際に私の仕事が成り立っているのは彼女の献身的なサポートのおかげであり、3歳とまもなく1歳を迎える幼い人たちのお世話をしながら、店や私のことに心を砕いてくれる一人の若い女性に、私はまさに恩情を深く感じています。

女性同士。

血のつながりのある母親と娘より、側にいてお互いの人生を見守りながら共に年月を経ていく姑と嫁の関係の方がより人間的なつながりに生きていけるのではないか?とこの頃考えます。

任侠映画の見過ぎ?(笑)かもしれませんが義理、人情の世界に生きるという大切なことをこの「義娘」という文字は私に思い出させてくれるのです。


ブログに、どのような方たちがお立ち寄りくださっているかはよくわかりませんが、毎日何人ほどの方が訪問してくださっているかは、書き手の私に情報が入るようになっています。

昨年夏以降、年末まではびっくりするようなアクセス数もみかけましたが、最近では「以前と同じ」ほどの皆様にこちらにお立ち寄りいただいているのがわかり、ほっと安心しています。

「夏美さんは、お店をどうするつもりなのだろう?」
ブログをご覧くださるみなさまにも、ずっとそんなご心配をおかけしてきたことと思います。

私自身がずっと「混乱」のなかにあり、そのご質問にお答えすることもできませんでした。

たとえそれが店の営業として「遅きに失する」ことであっても、私は自分の身の上に起きたことに、どうしてもしばらく佇むしかなかったのだと思います。



2月半ばより展覧会を開かせていただこうと思っています。

その内容などについては、また少しづつ書かせていただきたいと思いますが、
今朝早く目が覚めてしまってお布団の中で気になる動画をみていますと「稼ぎ」と「務め」は別物であるという言葉に出会いました。

稼ぎと務め。

私はまさにこのことにも立ち止まっていたのだということに気づきました。


定年の歳、61歳のお誕生日を迎える直前に佐橋とお別れをしなくてはいけなかった私には「何のために仕事をするのか?」がとても重く、或いはとても意味の深い課題となりました。佐橋の残した宿題さえ片付ければ、わずかな年金をあてにしてこれから先を暮らしていくことはできそうです。






しばらく飾っていなかった華岳の白椿を今日店に出たら、土壁の部屋に掛けて眺めてみようと思います。

華岳にとって、絵を描くことは稼ぎであったのか?果たして務めであったのか?そのどちらでもない世界に苦しみ、何かを夢見ていたのか?
また感じ、考えたいと思っています。

ぼんやりとですが、見えてきたものもあります。

そんなこともブログを書かせていただけるよう、とりあえず今日の暮らしと仕事を大切に過ごしたいと存じます。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上華岳

2020年10月13日 | 村上華岳
何度も何度もこの村上華岳の著書を手にとり、感動をして読み始めるのですが、必ず途中で苦しくなり本を閉じてしまいます。

村上華岳の作品を全く扱わせていただいてこなかったわけではありません。

仏画や風景など、幾つか床の間に飾らせて頂き2人で眺めたこともありました。

けれど、今回のようにふと出会った作品をあてもなく仕入れ、自分達の所蔵とさせていただいたのは初めての事です。

出会ったのは「椿」です。








白椿ですので、始めはシーンと静まりかえり、何も見せてはくれません。

けれど、ゆっくり、ゆっくりとより深く、より美しく作品が動き出します。

そして、いよいよ深まり始めてきたなぁと感じると、「今日はここまで!」そう線を引いてしまうのは自分自身です。

ですから、私はこの華岳作品をまだじっくり、とことん眺めてはおりません。

その線の引き方は、観る方の技量?目の深さ次第、どこまで見るか?の決心次第です。

今迄そういった見方のあることを知りませんでした。
その境界線、或いは「その先」を見せてくれるのが華岳なのだとはじめてわかりました。



どこまで華岳を味わうことができるかは、この華岳の文字にどれほどの物を感じるか?が一つの試金石になるように思います。






この表紙に書かれた「華岳」の文字にしびれる心があれば、楽しみは深まるのだと想像しています。

楽しみが深まると書きましたが、「その先」へ進むことは、大変怖いこと、辛いことです。ですから、楽しみは苦しみです。



昨年末に杉山寧の富士の購入について迷い、結局自分たちの側に置くことに決め、この春に感染問題に出会い、この秋、華岳のこの作品にご縁をいただきました。この一年の流れは、きっと私ども佐橋美術店のこれからをも示してくれるのではないかと思っています。

一つ一つの作品を今まで以上に深く、丁寧に味わうこと。

結局コロナさんはそう私たちに教えてくれたのだと思いたいのだと思います。




※村上華岳 軸 「椿」 紙本・淡彩  33.3×25.9㎝
 実作品は、無眼展にてご覧いただきます。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする