京都に赴任中の私の弟が、鴨川の夕空の写真を送ってくれました。(7月26日)
一緒に映っている自転車は弟のものです。空があまりにも綺麗なので、自転車に乗って鴨川に出掛けたようです。
東北の震災の際に東京にいた弟は、帰宅困難になり、歩いて自宅に帰りました。
それを機にラン🏃♀️やバイク🚴♀️、水泳の練習に励むようになり、とうとうトライアスロンの大会に出場するようにまでなりました。
出張の多い弟が去年はベトナムやハワイにまで出掛ける予定だと聞きましたので、
半分冗談で。。ホノルルのワイキキビーチにあるピンクのホテル、ロイヤルハワイアンの画像が撮れたら送ってほしいとお願いをしました。
すると、弟は仕事の合間をぬい、ワイキキビーチを走り、海に入ってこんな画像を送ってくれたのです。
こちらがハワイの動画です
お分かりになりますでしょうか?
ピンクのホテル、ロイヤルハワイアンは梅原龍三郎の定宿でした。
そして、このホテルのベランダからダイヤモンドヘッドを描いたのが、こちらの作品になります。
この作品が制作された1971年にハワイを梅原と一緒に訪れた女優の高峰秀子さんの著書に
「蛇の話」というタイトルの章があります。
梅原は京都の染め呉服業を営む家に生まれ、(仮縫いをした絹の白布地に職人達が下絵を描き、染め屋にまわす商売)
多勢の職人や奉公人が働いている裕福な家庭で育ちました。
父親はやんちゃな龍三郎が何をしても怒ったことはなくただただ甘い父親だったそうです。
梅原家には大きな松の木があって、ある日その松の木に太い蛇がぶら下がっているのをみた龍三郎は、
早速短刀を持ち出して書生を呼び、「この短刀であの蛇を殺せ!」と命じました。
書生はその通り、蛇を斬り殺しましたが、後でそのことを知った家人が大騒ぎをし、その書生は即刻首になってしまったそうです。
蛇はその家の主とされ、粗末に扱ってはいけないと信じられていたのです。
「その書生は、僕に命じられたとは言わなかったんだね。黙って出て行ったらしい。
僕もあまりに騒ぎが大きいので、僕が殺せと言ったのだということを言いそびれて、そのままになってしまった。僕は卑怯だった。
その書生はどこへ行ってしまったかな?僕より年上だったから、或いはもう死んだかもしれない。あの書生には全く悪いことをしてしまったよ。僕が卑怯だった・・・」梅原は晩年、何度もこの話を高峰秀子さんに話されたと書かれています。
高嶺さんは、「一人ごとのように、ゆっくりこの話をする時の梅原先生の表情は、こよなく優しくて、素直に見えて
私は好きだった」と文を終えられています。
晩年の梅原の作品には、梅原が最後に向かった世界が色濃く表現されているように感じます。
それは、まさに、広い空、優しい波音、そして、多少ヤンチャでも、卑怯を恥とする素直で清らかな心を
求める世界であったと思えます。