つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

冨田渓仙に思う

2024年04月19日 | 冨田渓仙
今回渓仙のことについて書かせていただこうと思ったのは、先の本にこのページを見つけたからです。

上の作品 昭和5年 歳寒三雅
下の作品 昭和9年 春の花籠

この作品については筆者の記述もありました。


渓仙は大正6年の六歌仙の制作にあたり描線を省略して色彩だけで対象物を描くバロック風人物画をこころみたが、ここで再びその筆法を用いて大和絵の現職に近い色調の花鳥画、すなわち白梅、小蜜柑、八重椿などを洋風に描いた「歳寒三雅」をチェコスロバキア展に出品して人々の目をひき、特に若い京都の日本画家たちに好評を博した。

全く伝統にとらわれずに常に前進を心がけ、東洋花鳥画の奥院である中国宋元の院体画を目指して制作したのが「扇子に桜図 昭和5年」「桶の牡丹図」「春の花籠図 昭和9年」「花籠図」などである。これらの作品では一切の墨による輪郭線を用いず、いきなり大和絵の原色の彩筆を振るうという、生き生きしたと色調によるバロック花弁を描いて、新しい日本花鳥画の領域を開いて温厚典雅な元時代の銭舜挙に迫った。






冨田渓仙の「三雅」
皆様にお馴染みの当店所有の作品です。

佐橋はずっとこの作品について独り「これは渓仙の傑作だよ」と言っていました。傑作と言われても私にはピンとくるものがなく、ただ二重箱に入っていること、古径が箱書きをしていること、そしてその表装の素晴らしさから当時高価であった渓仙の作品の中でも特別なものなのだろうとは想像はしていました。

思えば佐橋はあまり、私にどうしてこの作品がよいのか?という説明をしてくれなかったと思います。「これはいいよぉ~」とか「これは名品だ」とかその程度の言葉しか聞いたことはありません。「何時でも尋ねられる」という思いから彼に私が質問をしなかったことも理由かもしれませんが、確かに彼だけに見えていたものがあったように今更気づかされることが多くあります。

そして、いまこうして当店の「三雅」を見てみますと、確かにこの画家が花鳥画に新たな筆法を用いて描いた作品であり、そのタイトルや描かれている籠から「三雅」は渓仙晩年の意欲作に間違いないことがわかります。「久彭子」の印象もこの時期に当てはまります。

令和六年の卯月も早くも後半には入りました。そして、来月には佐橋の一周忌を迎えることになります。

この時期は店内の空調、つまり暖房や冷房を使うことがなく応接室だけでなくギャラリーにも多くお軸を飾ることができますので、来週からゴールデンウィーク明けまでは今回ご紹介した冨田渓仙の作品と入江波光の作品を中心に皆様に日本画を御覧いただこうと思っています。













そして、毎年恒例になっておりました「五月の頃に」を来月中旬以降に開催させていただこうと考えています。

続きはまた書かせていただきますね。

夜中に雷が鳴ったり、強風が吹いたり、黄砂が飛んでいたり、益々体調管理の難しいころとなりました。みなさまどうぞお気をつけて、ご自愛くださいますようお願い致します。



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冨田渓仙

2024年04月17日 | 冨田渓仙
冨田渓仙のこの本を「これから読みます!」とブログに書かせていただいたのは、随分以前のことです。

そのあとすぐに読むには読んだのですが、ここに書いてある渓仙自身の人となりが今までの私のイメージと余りにも違っていたので、面食らう?というか自分のなかで消化するのに時間がかかりました。

当店の倉庫には日本画というと渓仙のお軸ばかりですし、今もその作品を良いと思う気持ちに変わりはないので、あらためてもう一度お勉強しなおしてみようと思い、再度この本を読ませていただきました。

佐橋と私が冨田渓仙の作品を常に所有するようになりましたのは、多くの面で尊敬させていただいたお客様の影響もあります。勿論、それ以前から作家のことは知っていましたが、それまでは店に飾ろうとはあまり思っていませんでした。

そして、なにより二人で伺った京都で渓仙の「伝書鳩」という作品に出会って
意識が変わりました。

当店でいつも皆様にご覧いただいているのは、主に渓仙の中~後期作品で渓仙調が確立してからのものになります。後期といっても渓仙は昭和11年に56歳で他界しているので区別が難しいところですが、その代表作をたどっていくと少し渓仙への理解も深まるように感じます。


冨田渓仙は明治12年に九州福岡に生まれました。父は「博多素麺」の老舗を営んでいましたが、もともと冨田家は筑前の国で武士として仕え、猿楽能などその子孫は芸事に関心が強かったそうです。また渓仙の祖父で素麺製造の技術を日本に持ち帰った「素久」はなかなかの人物であったといわれ仙厓和尚との交流は大変深かったとあります。幼いころから仙厓の作品にも多く触れていただろう渓仙の作風が変化していくのも当然であったかもしれません。

残念ながら家業は廃藩置県後没落に傾き、絵描きになりたかった渓仙は家出同然で京都の町にたどり着きます。
「京都に出てきて、まだ様子も分からないとき、毎日のように絵を見て廻ったが、このころ京都には偉い先生方が沢山あったが、玉泉の絵は余りに綺麗すぎると思い、栖鳳さんの絵は上手過ぎて真似られず、その中に華香先生のどこかとぼけたようなところがのあるのに引き付けられたのだ」という本人の記録も残っています。

こうして四条派で渓仙の最初の修業が始まります。
都路華香 つじかこう は、幸野楳嶺の弟子で、菊池芳文、竹内栖鳳、谷口香嶠とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれました。その人物も大変立派であったそうですが、頑固なところもあり四条派の一匹狼であったとあります。渓仙は師から「写生をする癖がつくと物を見る眼蔵力が自然と弱くなり気韻生動というものがなくなってしまう。かといって写生をしなくなるとそれも概念癖をつけることになる。二進も三進もいかぬのが絵描きであり人間世界である」という教えを受けたとありましたが、こうした内容からも若い渓仙がすでに人を見る目に優れ、自ら師を選んだのだという事がよく理解されるように思えます。

その後渓仙は横山大観や富岡鉄斎との出会いに代表されるように、同時代の画家やパトロンなど様々な出会いを通し、仏画、禅画、南画、西洋の象徴主義に影響を受け、画風を変化させました。特に研究に余念のなかった蕪村や仙厓、鉄斎については強い影響を受けているように感じられます。

渓仙個人の生活については、橋本関雪との騒動など、ここに追ってもきりがないように思いますので省略致しますが、何よりもこの本を読み、その破天荒な人柄に驚いたと同時に大観の片腕として日本美術院の事業に身を捧げ、出征軍人のために百幅もの絵を描き、各神社仏閣への奉納絵を無料で数百枚も寄付し続けた画家は渓仙のほかにいなかったと知り、今は少しほっとしています。そして、渓仙の言葉にも強く惹かれ、これからもその作品に触れていたいと思いました。

下に冨田渓仙の代表作とその言葉をご紹介させていただき、ひとまず筆をおきます。








明治39年 27歳 「伎芸天」 清水寺蔵



右 明治41年 29歳 「訶利帝母」 清水寺蔵


明治41年 29歳 「鵜舟」第6回文展出品作

中国旅行後、この作品で一躍名を広めることになった渓仙の代表作。




右 大正3年 36歳 「沖縄三題」一部
左 大正6年 39歳 「六歌仙」

このころからバロック風の制作が風景画のみならず人物画にも目立つようになる。描線を省略してぶっつけ本番に色彩だけで対象物を描く、この筆法によって大和絵の原色に近い色調の、デフォルメの効いた洋画風の作品が出来上がることになる。日本画の静を動に変える渓仙調を福田平八郎は「冨田さんの絵は塗る絵ではなく描く絵だった。その色彩など非常にナマの侭を駆使しながら、然も古典的な味をだした。結局これは宗教に基礎があったからだと思う。」と述べています。





大正10年 「祇園夜桜」 横山大観記念館蔵

桜もまた渓仙が深く追い求めた画題です。



昭和3年 49歳 「紙漉き」 国立近代美術館蔵

「水の作家」と言わしめた渓仙の代表作

限られたわずか一槽の水にありながら、そこには水そのものの持つ静動の姿がのこりなく描き出されていて、静かなときは鏡のごとく、一たび怒れば天地を覆すという水そのものの変幻自在の威力が水底の眼のようにずっと胸に迫るのを感じさせるものだった(作家 近藤啓太郎)




左 昭和7年 53歳 「優曇鉢羅」 





昭和8年 54歳 「御室の桜」 20回再興院展出品作 福岡市美術館


御室は仁和寺の別称。
本作は冬の桜を見て着想され、その枝ぶりの個性を見分けた渓仙自身が絵の中に花を咲かせた作品です。院展では渓仙の晩年の新境地であると高い評価を得て、のちに生涯の代表作ともなりました。





昭和9年 55歳「伝書鳩」二曲一双のうち 京都市美術館

鳩のもつ温順、清潔、果敢の性質を描破し得た傑作とありました。

この作品の前で佐橋と並んで過ごした時間を今懐かしく思い出します。




冨田渓仙の言葉


無限なる広がり、無限なる流動、それが自然である。絵画においてはわずかに尺余の紙幅に納められる。片々たる紙片にいかに忠実をこととしても、それを写しとることは不可能であろうし、そうすること自体が既に誤であろう。無限と有限とは同一ではあり得ないからである。芸術家の仕事は、それ自体が既に「嘘」に出発しているのであろう。もしそれが無謀な嘘であると考えるならば、全然芸術家として資格無きものである。芸術家は寧ろ「嘘」をもって真を語るのである。



徳といわれるものも、人間生活の最根本的なものであって、樹木における根の如くつねに閑却されがちである。一切の社会的地位とか名声とかの無意味な枝や葉が重大なものであるかの如く考えている。しかし根本を培うことは、そうしたものを獲得せんとする心や或いはあえて獲得した一切のものを捨て去ることなのである。一切の我欲を遮断した境地からされる行動が徳と名づけられるものである。万人の渇仰や敬慕は実はしかく無駄なまわりくどいところから出て来る。徳業は何らかの為にするものではない。なんの為でもないのである。為がない即ち無為である。若しそれが何等かのためになっているとすれば、それは結果から見られたためとなっているのであって、動機や過程においては何らか為に成されたものではない。なげうつものにはかくて渇仰や敬慕によってよきものが蝟(い)するが(集まるの意)それは徳を契機としてつながるものであって、所有ではない。


以上




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水仙

2024年04月05日 | 冨田渓仙
桜が開花するころになって、佐橋の植えた水仙が全て咲きそろいました。
今までで一番お花が沢山咲いてくれました。けれど、ここのところの変わりやすいお天気で、咲きそろった翌日、大雨でそのまま地面に倒れてしまいました。



昨日ちょうど孫が店に来てくれたので、お願いをしてお花を切ってもらい、店に飾りました。

3歳9か月の男の子と1歳と1か月の女の子。
そうお伝えするだけで大変だと💦お分かりいただけると思います。





鳥海作品はまだ引き上げていただいていないので、店に飾ったままですが、せっかく桜が咲き始めるのだからと応接室にこっそり、入江波光の「鴛鴦」を飾り眺めていました。

孫は二人とも不思議に直接作品に触ることはありませんが、飛ばした風船がお軸に当たりそうになったので、私が慌ててお軸を巻くと、興味津々の男の子が「ぼくもやる!!」といつものきめ台詞を発しました。

子供は棒がすきですよね。この子ばかりでなく、1歳の女の子もいつもこの矢筈を持ちたがります。



赤ちゃんの頃から触れていたこの竹の棒は「こうやって使うのか!」と知った男の子が、「ぼくもやる!」と言い出さないわけがありません。

見られてしまったらには仕方ない。
「ダメ!」と叱るのは簡単ですが、それではつまらない。
それよりもその代案を考えてあげなくては!



そして思いついたのが、この殻(がら)です。
これは当店の富田渓仙の「寒牡丹」をパネルに作り直した際にのこった
お軸の抜け殻です。



お軸を額やパネルに作り直す際には、ご希望によってですがこの殻もお客様にお納めするようにしています。もう一度軸装に直したいとき、ほかの絵をこの表装に変えたいときなどにお使いいただけるのです。

多少乱暴に扱っても作品がないので安心。
孫は「あら?」と不思議そうに軸のあなぼこを眺めながら、それでも椅子の上に立って、矢筈を天井に向けました。

さすがに3歳では小さくて、椅子に乗っても軸のひものかかっているところ矢筈の先をひっかけることができないので、私も手伝ってお軸を下におろしました。孫は大満足。

「今度はこの穴にサイチ君の絵を飾ってみようか?」と私が提案すると、さすがに意味がわからずにキョトンとしていました。

一緒に来て私の入力作業を手伝ってくれている義娘は子供たちの遊びに「やめて~」といつもハラハラしてくれています。それでも、私にはこの時間がとても貴重で、また、美というものを考える良い機会を与えて貰っています。


子供たちは大事なものとそうでないもの?の区別なんてつきません。
けれど、なんとなく「おばあちゃんが大事にしているもの、きれいねぇ~ていってるものは大事なんだろうな」という事はわかってくれているように思います。

結局、美意識というのは、そういう風に受け継がれていくように感じます。

迎え入れる前はそれなり準備をしていますが、まぁ、いつか何かを壊したりする日も来るかもしれません。でも、それは彼らの責任でなく、すべて私の責任です。

孫たちには何か形を残すということではなく、佐橋と私が何を大事にしていたか?を優しく伝えていきたいと思っています。









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今週の佐橋美術店

2023年05月16日 | 冨田渓仙
昨日、今日と出社していますが、落ち着いて店内を見渡してみますと展覧会時と内容にそれほど変化がないようにも思えてしまいました。

ですから新しい作品だけ、少しご紹介申し上げます。






ショーウィンドウに佐野繁次郎の「ボンボン売り」を飾らせていただきました。

前をお通りの方達の目を引くのか?思ったより多くの皆さんが足を止めてくださっています。



そして、エントランスには牛島憲之の小品と
久しぶりにお軸を当店でパネル仕立てにさせていただいた作品を飾らせていただきました。










冨田渓仙の「寒牡丹図」

お軸の状態で仕入れさせていただきましたが、長ものになっていて少し間伸びした印象を受けましたので、
思い切って、表装屋さんに周りに細い棹で額を作っていただいてパネル調に仕上げていただきました。

ガラスやアクリルが入っておりませんので、大変軽く、扱いも簡単です。










額と作品パネルの隙間には、下地に布が貼ってあります。

表装屋さんはピンク系統の色をご提案くださいましたが、私たちの趣味で「ここは茶色で!」とお願いしました。

作品内に使われている枝の色などに反応して作品が締まって見えるはずだと思いました。


この形にしようと決めたものの、出来上がってくるまではドキドキでしたが、
完成品は軸であった時よりも冨田渓仙らしい、いきいきとした印象が強くなり、とても良かったと思っています。




そのまま黄袋に額を縦に入れ、箱に仕舞っていただきます。

段ボールの箱は、摩擦を少なくするよう、作品を横に入れていただくように作ってあります。

共箱の場合は、お軸のがらをそのままお持ちいただくか?箱の部分だけ(作家が箱書きをした軸箱のふた)切り取って
段ボールの箱に仕舞っていただくことになります。



今までも同じスタイルで作品をお客様にお納めしておりますが、今のところ問題なく作品をお飾りいただいているようです。


ぜひ一度、ご来店の際などにご覧ください。




冨田渓仙 「寒牡丹図」 絹本 共箱  
サイズ125.5×34.3㎝









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冨田渓仙 軸

2023年03月18日 | 冨田渓仙
先日ご紹介させていただきました冨田渓仙の桜の図とともに、こちらの作品も仕入れさせていただきました。






笑ってしまうくらいの鯉のお顔ですが、その体の動きといい、
作品全体から5月の頃の晴れやかさや勢いがイキイキと伝わってきます。




各季節の作品が揃い、冨田渓仙展を開かせていただくのも夢でなくなったかな?
と思っています。



冨田渓仙 軸 「燕子花游鯉図」 絹本 共箱  330,000

作品サイズ 24.5×131㎝
軸全体   53×219㎝

※箱書きの画像は後日こちらの掲載させていただきます。
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