9月9日、重陽の節句の日となりました。
お花屋さんが丁度大輪の白菊を届けてくださいました。
撫子も桔梗も、秋の花はみな好きですが、年々菊というお花の力強さ、謙虚さ、美しさ、香りというか匂いに魅力を感じます。
お軸は竹内栖鳳の「村居」を出しました。
今年もあっという間に、この作品の季節がやってきました。
つい最近まで、栖鳳の作品は大変上手いが深みが足りない。
波光、華岳や神泉のような凄みが足りないと思っていました。
ですから、少し栖鳳の所有作品を整理しようと佐橋と話していたところでした。
けれど、こうした「いつもより崖っぷち感の強い時」には、栖鳳の上手さが決して薄っぺらなものではないと感じられます。
それは、丁度、菊の花のような確かさのように思えます。
明日も店を閉めさせていただいて、土曜日には少し作品の掛け替えをさせていただこうと思っております。
病気が本人の「気づき」の機会なら、佐橋の病気は私自身にとっても「気づき」のチャンスなのだろうと思います。
ただ、気づいたところで私たちに修正の時間がどれほど残っているのだろうか?と疑ってしまったりするのが本音のところです。
そんな時、佐橋が昨日こんな言葉を私に送ってくれました。
「ただ今度はああしたい、こうしたいではなく、必然を導き出さなければならない、今はそのための時間だと思えるところまで来ました。」
60代、退院をしたらこうしたい!ああしよう!という欲求で自分を奮い立たせるのでなく、あの入院はこの結果を産むための必然だったのだと自分で深く納得できるような仕事、生き方をこれからしたい、そういう意味であろうと思います。
「気づき」は、今ではなく、未来のいつかの日に起こること。「あの時間には私にとってそういう意味があったのか」と深く納得のいく時の訪れを、佐橋とともに信じていたいと思います。
重陽の節句日に、皆様に優しい秋が訪れ、お障りない時間をお過ごしくださいますことをお祈りしています。