つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

おはようございます

2021年07月06日 | 絵画鑑賞
名古屋では昨夜も強い雨が降り続きました。皆さまはお変わりなくお過ごしでいらっしゃいましょうか。


先週はなかなかブログの更新ができず、失礼致しました。

お通いくださるお客様やご遠方のお客様から「ブログを楽しみにしています」というお声をよく頂戴し、大変嬉しく思い、できるだけちょくちょく記事を書かせていただこうとは思っておりますが、なかなか、それも出来ずにおりますことお許しください。




さて、先日、オークションのカタログに井上有一の作品を見つけました。

井上有一の作品を実際に扱わせていただいたこともありますので、自分の中にその印象は固って持っているものと思いましたが、
このカタログの文字を見た時、自分の中の井上の印象が随分変わっていることに驚きました。

以前は書というより、絵画だと思っていたのです。ですが、今回は「なかなか隙のない、しかも気持ちの良い書である」と感じました。


井上は
1916年大正5年、東京下谷に生まれました。こちらも、下町、下谷の生まれ。ご実家は古道具屋さんです。

1935年昭和10年、小学校の教員となり、画家を志し、夜間に画塾や研究所に通うが、勤務時間の余暇に油彩画制作の余暇はとれないと断念。

1941年昭和16年、前衛書家上田双鳩に8年間師事し、書に専念する。

1945年昭和20年、米機大空襲により、仮死状態になり、約7時間後蘇生。

1948年、双鳩を中心とした「書の美」創刊以来同誌を拠点に書の学習を続ける。

1949年、双鳩の元をさり、仲間と「墨人会」を結成、機関誌「墨人」を発行。以後この会の公募展を中心に活動をする。

その後、師であった上田にその作品を高く評価され、独自の制作活動を活発化させる。



一度は油絵の画家を目指したこと、その後、長く上田双鳩に書を学んだこと、大空襲による稀有な経験。教員を続けながらの新しい書の追求。

井上の制作、作品を理解するヒントは多く彼の経歴に潜んでいるように感じられます。

井上は色々な言葉を残しています。


書家が書を独占しているつもりでいること程、滑稽なことはない。書は万人の芸術である。日常使用している文字によって、誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。それは丁度原始人における土器の様なものであるのだ。書程、生活の中に生かされ得る極めて簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい。」”
— (井上有一 「書の解放」『墨美』9号、1952)

メチャクチャデタラメに書け。
ぐわあーっとブチまけろ。
お書家先生たちの顔へエナメルでもブッかけてやれ。
せまい日本の中にウロウロしている
欺瞞とお体裁をフッとばせ。
お金でオレを縛りあげても
オレハオレノ仕事をするぞ。
ぐわあーっとブッタギッテヤル。
書もへったくれもあるものか。
一切の断絶だ。
創造という意識も絶する。
メチャクチャデタラメにやっつけろ。”
— (海上雅臣『ミネルヴァ日本評伝選 井上有一』ミネルヴァ書房、2005)



上の言葉は高村光太郎の書に対する言葉とよく似ています。

そして、下の言葉は、今現在、現代アートと言われる作品達が支持をされる理由を端的に表す言葉で有るように思います。

最近テレビを見て驚くのは、毒舌家のタレントさんが多く出演されている事です。ドラマも殺人を扱ったものが多く流されます。

感染問題、災害続き、お金儲けお金儲け!

人人の心に何かを打破しなければならない!そんなお気持ちが溢れているように感じられるのですね。


けれど、ふと気づいてみると同じ井上に言葉にもこうした発見があるのです。

「なにものにもとらわれない自由などというものは本来どこにもないし、どこにもないということは即どこにでもあっるという事であって、なにもそのために漢字という欧米にない素晴らしいものを捨てることはないということに気づくようになりました。文字を捨てることによって、文字を書くことの素晴らしさがわかったわけであります。」


結局、現代アートの枠組みは途方もなく広がってしまいましたが、真に世に残る作品、高値で取引をされる作品達というものは、人存在の真に迫る作品達であるという事実を認めなくてはいけないということだろうと思います。

それ故に、日本近代絵画にとらわれている私どもは、より厳しく真に迫る作品を残してゆくことに一生懸命にならなくてはいけないと思います。時代が変わっていくことを嫌っている暇はありません。時の流れを笑顔で寛く受け入れ、その奥底に、静かに流れているもの。それだけを見つめようとする勇気と力をゆっくりと密やかに、蓄えてゆきたいと願っています。






これを書かせていただきますのに、以下のサイトを参考にさせていただきました。ご参考にご覧ください。





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絵葉書

2021年07月01日 | 奥村土牛
今日、お客様にお便りを差し上げようと今の季節に合いそうな葉書を探していると、この絵葉書が出てきました。

御舟??

と思い、裏の記載を見ると奥村土牛!

あぁ、こんな作品を描いた時期もあったんだなぁ〜と山種美術館さんの図録を開きました。




「雨趣 うしゅ」 1928年 昭和3年 再興第15回院展出品作

土牛、39歳の作品です。

図録の解説には、以下のように記されています。

大正15年、土牛は下高井戸から麻布・谷町(現在の六本木)に転居する。この年の夏は雨が続き、遠方への取材が難しかったため、主に近所を取材している。本図も坂が多く緑も豊かな当時の赤坂を、丘の上からの俯瞰的視点で眺め、淡い濃淡のついた胡粉で雨を一本一本描いたもの。
1926年、土牛は小林古径の紹介で尊敬する速水御舟の勉強会に参加し始める。本作品は、淡い色彩と繊細な線描による写実風景が特徴で、御舟の作品への意識が感じられる。発表当時は「何も雨を一本一本描く必要はないだろう」と評された。






この図録の解説の一文一文が、いかにも奥村土牛という画家の個性の全てを語っているように感じられます。

30代後半になって、御舟の勉強会に参加し、その影響を受けて写実に徹しようとした土牛。

「徹する」あまり、降る雨を一本一本描いた土牛。

「何も雨を一本一本描かなくても」
「何もそこまで〜しなくても」人は人に、案外無頓着にこの言葉を使ってしまうものだろうとも思えます。

その描かれた沢山の雨の線には、ひとつも嫌味なところなどない事に驚き、かえってこの風景画に土牛の作品らしい趣を湛えている事に気付けばきっと、40年後、50年後のこの画家の達成を予感できただろうと思います。




御舟の勉強会に参加した時、土牛は御舟の5年も年長でありました。

土牛は101年を生きてなお、御舟の画境に近づくことはできなかったのかもしれません。

けれど、八十代に「芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。」と言い切った土牛には、夭折の御舟が決して見ることのできなかった「本当の自分」の姿がよく見えたのではないでしょうか?

雨を一本一本描く姿勢。描いてみる強さ。




土牛のその歩みは、残された作品たちの中で今も生き生きと前進を続けているように感じられます。

「静かに、少しづつ、決して止まることなく淡々と」

忘れがちなその美しさを私たちは今こそ思い出さなくてはいけないように思います。











コメント (1)
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