あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

武蔵五日市七福神巡り(東京)

2017-01-19 18:48:23 | 七福神めぐり
 2017年1月18日(水)

 続いていた寒波が幾分緩み、最高気温は10℃くらいと予想されたので、武蔵五日市七
福神巡りに出かけた。

 五日市は東京の奥座敷に位置し、古くは山と平地を結ぶ商業地として栄え、現在は秋川
渓谷の玄関口として多くの観光客で賑わっている。歴史と自然に彩られたこの街に、平成
22年(2010)の新春から誕生したのが「武蔵五日市七福神」である。

 JR五日市線の終点、武蔵五日市駅に9時39分に着いた。


 改札前のコンビニで弁当を求め、駅に接した五日市観光案内所に行くが、水曜日は休み
でドアは閉じている。9時45分に駅を出た。


 町中にあるマンホールのデザインは、旧五日市町時代のものと、あきる野市になってか
らの2醜類がある。
    

               

 駅前のT字路から東に延びる都道7号・五日市街道を少しで、舘谷の家並みを抜ける旧
道に入り、最初の七福神、弁財天の正光寺(しょうこうじ)へ。

 正光寺は秋川流域で唯一の時宗の寺院で、嘉元3年(1305)の開創と伝えられてい
るとか。どっしりした本堂は平成14年(2007)の再建という。

    
 琵琶を弾く弁財天像は、方形屋根のお堂に祭られていた。
  

 北側の五日市街道を横断し、すぐに三内橋で秋川の支流を渡る。秋川左岸沿いを少しで、
大悲願寺への道標に従い左の細道を上がる。

 JR五日市線の踏切近くからふり返ると、正光寺周辺や背後の山並みなどの展望が一望
できる。

 踏切を越えれば大黑天の大悲願寺(だいひがんじ)は近い。山門の前に、白梅がチラホ
ラと咲き出していた。


 大悲願寺は、建久2年(1191)に源頼朝の命を受けた平山季重(すえしげ)が建立
したとのこと。15世僧正秀雄(しゆうゆう)は伊達政宗の末弟で、その縁で訪れた政宗
が境内に咲く白萩に心を引かれ、後日所望した書簡が残っているという。

 多摩新四国八十八ヶ所第59番札所で、東国花の寺百ヶ寺第11番寺院でもある。


 山門を入った正面の「無畏閣(むいかく)」と呼ぶ観音堂にには、国重要文化財の阿弥
陀三尊像が安置されているとか。正面欄間の彫刻も見事なもの。
    


 書院造りの本堂は右手にあり、元禄8年(1695)の建築で都の有形文化財。歴史を
感じられる大黑天は、本堂右手の玄関の中に祭られていた。
        

 玄関前の縁台には、乾燥中の切り餅が並んでいる。


 うっそうとした杉木立などに囲まれた広い境内には、四国霊場八十八か所のご本尊の石
像が巡拝できる、新しいお砂踏み霊場が設けられていた。
        

 ちなみに、私はこの大悲願寺には以前に2度ほど来たことがあり、第二次大戦末期には
新宿中村屋の創業者である相馬愛藏(そうまあいぞう)と国光(こっこう)夫妻が疎開し
ていたことを、臼井吉見の大河小説「安曇野」で読んだことも思い出す。

 山門前を南へ、JR五日市線の先で急石段を下り、五日市街道の旧道に出て駅に向かう。

     
 近くの民家のナンテンとキンカンが鮮やかな彩り。三内橋の手前で右折して五日市線に
平行する旧道へ。ロウバイの咲く民家もある。
           

 北からの都道3号に合して五日市駅前に戻り、五日市の中心街を抜ける都道33号・桧
原(ひのはら)街道を西進する。

 「五日市ひろば」と呼ぶ小公園の道路際に「五日市の市神様(いちがみさま)」の説明
板があり、五日市の市のことが記され、傍らに大きな自然石が祭られていた。
    

 すぐ先の「寿美屋」と呼ぶそば店の横のお堂が、恵比寿天の下町(しもちょう)地蔵堂。

 そばに「子育地蔵尊」の説明板があり、地蔵尊は五日市下町女人27人により元禄12
年(1699)に造立されたとのこと。傍らにそのことが刻まれた台石らしい自然石があ
る。
       
 お堂内には、その子育地蔵ともう一つの地蔵さんが見えたが、恵比寿天は確認できなか
った。


 五日市郵便局の先のT字路に阿伎留(あきる)神社への道標があったので、立ち寄るこ
とにした。細い通りを南進し、左カーブする地点の南側一帯が阿伎留神社の深い森になっ
ていた。

 阿伎留神社は、延長5年(927)の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちよう)に
記された、武蔵国多摩8座の筆頭に挙げられた「式内社」と呼ぶ古社。鎌倉時代以降は源
頼朝、足利尊氏、後北条氏から神領が寄進され、徳川家康からは御朱印10石を寄せられ、
以後代々の将軍からの朱印状12通が残っているという。

 現在の拝殿、本殿は明治21年(1888)の完成、大鳥居を入って正面の神楽殿↓も
立派な造り。


 御輿蔵(みこしぐら)には、きらびやかな神輿(みこし)が10基近く並んでいた。
    

 森に囲まれた境内には幾つもの摂社が点在しているが、大鳥居近くのこの「占方神社」
の名は私にとっては初めてのよう。
        
       
 桧原街道に向けて戻り、すぐ手前に平行する細道を西進、少し下がってさらに進んで福
禄寿を祭る玉林寺(ぎょくりんじ)へ。

 玉林寺は定和3年(1347)の開山、本堂は弘化5年(1847)の建立で、内陣に
は草木花鳥や龍を描いた48枚の天井絵があるという。


 山門前に新しい仁王像が立ち、境内はよく整えられた植栽が多くて気持ちよい。



 中央部には石庭もあり、福禄寿は新しいお堂に祭られていた
     

               

 先ほどの下町地蔵堂と、次の番場地蔵堂の朱印所もここになっている。3つの御朱印を
頂き、番場地蔵堂への道も教えていただいた。

 西側の小さい山門を出て、広い墓地の間の斜面を北に向かって上がる。墓地の右手斜面
上部には大きな新しい石像が見えるが、何の像かは分からない。
     


 墓地の上部、白壁の間の門を出た上の新しい小さなお堂が番場地蔵堂で、毘沙門天が祭
られていた。
        

 玉林寺境内に戻り、東側の山門を出て西へ、スイセンの咲く秋川左岸沿いに少しで佳月
橋際に出た。石積みの場所があったのでここで昼食とし、弁当を広げる。
        


 12時42分に食事を終え、佳月橋を渡って小和田集落の西端に入った。上の写真は橋
からの上流側、下は下流側の眺め。


 南に高い斜面に向かって少し上がり、「秋川渓谷リバーティオ」の看板に従い西に向か
う。家並みが終わって間もなく、杉木立の中に木造のコテージの並ぶ秋川渓谷リバーティ
オがあった。


 その先は舗装が切れて細い山道となり、薄暗い杉並木の下を進んで行くと秋川右岸から
次第に離れて高みに上がって行く。
     

 道がこの先続くか不安になりながらも進むと下りとなり、「この先工事中で通行止」の
看板もあった。

 ダメなら戻ろうと下ったら、「かたらいの路 秋川丘陵コース」の案内図があり、すぐ
先の橋で秋川支流を渡れるようになっていてひと安心。
     

 その先にももう一つ橋があり、いずれも鉄製の欄干の塗り替えを終えたばかり。これが
工事中だったと分かる。


 すぐ先の斜面を上がると、桧原街道にかかる沢戸橋の西に出た。街道は90度右カーブ
して本郷集落を直進し、右手に「喜正」と記された造り酒屋が目に入る。


 その先のT字路を左へ、次のT字路を左折して戸倉小際に出た。


 その北側から「寺坂」と呼ぶ急坂を上がり、水道タンクのある都水道局戸倉給水所前を
進み、布袋尊を祭る光源寺(こうげんじ)の山門前に着いた。傍らに「都史跡 戸倉城跡」
の説明板が2つ並んでいる。


 光源寺は、室町幕府の初代将軍、足利尊氏が開基という禅寺。尊氏が擁立した後光厳天
皇がまだ親王のとき、南朝方に追われて5年ほど隠れ住んだ旧跡といわれているという。


 にこやかで大きな布袋像は、山門を入った左手に露座で祭られていた。本堂は正面にあ
り、山を背にした境内は閑静なたたずまい。

 山門を出て東側の斜面には、都指定天然記念物「光厳寺のヤマザクラ」が4本立つ。

 一番南のサクラは、幹周5.33m、枝張り東西25m、南北18mで、樹齢は400
年以上と推定される巨樹。地元では「光厳寺の大桜」と呼ばれ親しまれているという。
  

 ほかの3株は手前の招魂碑近くに立ち、いずれも幹周2m以上の古木である。

 光厳寺からの下り道、東方の谷間に五日市の家並みや、遠くにはビルも望まれる。


 西戸倉集落を北に下り桧原街道を横断、坂下集落を抜けて閑静な秋川左岸の旧道に回ろ
うとしたが、家並みが途切れた先を下るも橋が無い。桧原街道に戻り、街道を進むことに
した。

 どうやら坂下集落のY字路で橋とは違う道に入ったようだ。でも、桧原街道も川側に歩
道があり、車の交通量も少ないので煩わしさは感じない。

 1㎞足らずで十里木(じゅうりぎ)交差点に出た。桧原街道を左に分けて都道201号
へ。すぐ先の十里木駐車場際に、武蔵五日市七福神のたすきを掛けた大きな石像が立って
いた。
       


 秋川が大きく90度カーブする近くで落合橋を渡り、秋川の支流、養沢川の左岸沿いに
ある落合集落へ。日本酒の直売や料理を味わえるやまざき酒舗前を通過する。


         
 間もなく、養沢川↑の広い河原に最後の徳雲院(とくうんいん)が見えてきた。都道か
ら階段を下り、すっかり陽が陰って寒々しいが開放的な境内に入る。


 徳雲院は、戦国時代に先ほどの光厳寺の21世、雲英台東堂和尚の開山とされるが、昭
和9年(1934)以前は無住のときが長かったという。

 境内は梅が多いが、まだ枯れ枝のまま。本堂横の庫裡(くり)で最後の寿老人の御朱印
をいただき、記念にとタオルも下さった。

 本堂内には肝心の寿老人が見えないので聞くと、階段近くにあるという。庫裡の外の温
度計は3℃だった。


 梅の木の多い東側に回り、階段を背にした小さいお堂に祭られた新しい寿老人に参拝し、
15時ちょうどに七福神巡りを終える。
       

    
 墓地のミツマタがたくさん花を見せ、モクレンらしいつぼみもかなりふくらんでいる。

 往路を十里木交差点まで戻り、桧原街道側にある十里木バス停に行くも、次のバスは
15時39分までない。

 さらに1.5㎞余り戻って本郷集落の戸倉バス停に15時32分に着き、今日のゴール
とした。

 9分後に来た西東京バスに乗り、JR五日市駅には15時50分に着いた。

 最高気温は10℃近くかと思われるが、風も無く日中の日差しは暖かに感じ、ほかに七
福神巡りの人に会うこともなく、山里の集落と五日市の町中をめぐる静かな七福神巡りだ
った。

(天気 快晴後晴 距離 12㎞、地図(1/2.5万) 五日市、歩行地 あきる野市、
 歩数 25,700、累積標高差 約690m)


 いただいた記念色紙。色紙代は300円、御朱印は1か所200円ずつで、1月末日ま
では各寺院で押印してもらえる。
  






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2017年新春初歩きは隅田川七福神巡りへ(東京)

2017-01-03 13:01:21 | 七福神めぐり
 2017年1月2日(月)
 
 新春2日は、毎年参加しているNPO東京都ウオーキング協会の「第15回江戸東京七
福神めぐり」に出かけた。

 昨年までは7コースあったが今年は3コースのみに、その中の隅田川七福神に参加する
ことにした。集合は東武スカイツリーラインや東京メトロ銀座線、都営浅草線の浅草駅に
近い、隅田公園内の水上バス乗り場近くの広場。
     
 隅田川右岸にあるので、隅田川の流れや浅草駅に入る東武の特急スペーシア、東京スカ
イツリーなどが望まれる。


 9時半近くから出発式が行われ、挨拶とコース説明の後に準備体操をして、9時37分
にスタートした。



 隅田公園を北に抜けて隅田川の言問橋(ことといばし)を渡り、左岸近くの道を少しで
最初の三囲(みめぐり)神社に入る。



 三井寺の僧・源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠(ほこら)を再建時、出土した
神像の回りを白狐が現れて3回巡り消え去ったのが「みめぐり」の名の起こりとか。

 祭られている七福神の大黒神と恵比寿神は、越後屋(現在の三越)に祭られていたもの
という。


 広い境内には石碑などが多く、京都・太秦(うずまさ)の木島(このしま)神社に原形
があるという、珍しい三角石鳥居などが見られた。


 北北東に少し、隅田川の桜橋近くには布袋尊の弘福寺(こうふくじ)がある。

 黄檗宗(おうばくしゅう)の寺なので、山門や本堂は中国風の独特の造り。


 境内右手にある咳(せき)の爺婆尊像は、寛永年間(1624~44)に風外和尚が修
行中に両親を偲(しの)んで刻んだもので、屋外の石像だから風邪にも強かろうと風除け
の信仰を集めたとか。現在は石造のお堂に祭られている。
     


 北に接するのが弁財天の長命寺。3代将軍家光が、鷹狩り途中の腹痛をこの寺の井戸水
で薬を飲んで快癒したことから「長命水」の名をいただき、寺号も長命寺としたという。
弁財天は、開帳されて本堂内に祭られていた。
     

 都道461号・墨堤(ぼくてい)通りを進んで東側の旧道に回り、向島百花園(むこう
じまひゃっかえん)の門を入る。


 福禄寿尊は左手奥の小さな社殿に祭られているが、込んでいて尊像は拝観できない。
     

 隅田川七福神は、文化元年(1804)にここ百花園に集まった、江戸の町民文化を代
表する文化人たちの発案で始まったとのこと。

 福禄寿尊は、開祖の佐原鞠塢(さはらきくう)が、百花園の草花にちなみ本草の神とし
て愛蔵し信仰していたものという。


 普段公開されている園路は閉ざされていて、今日は巡ることは出来ないので、門の近く
の木々や咲き出した紅梅などを眺めるに留める。


         

 西北間近には、寿老神の白鬚(しらひげ)神社が祭られている。祭神の猿田彦命は道案
内の守り神ということから、お客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれたようだ。

 参拝客が多く、ここも寿老神を拝顔することは出来なかった。

 白髭橋から延びる都道306号を横断して、隅田二丁目の岐雲園(きうんえん)跡の公
園でトイレ休憩となる。

 岐雲園は、幕末に目付や外国奉行として外交に尽くした岩瀬忠震が、河水を引いた汐入
の池のある別荘風の家を構えの跡とのこと。将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にし
て免ぜられ、ここで隠遁生活を送り風雅な生活を楽しんだという。いまその面影は全く見
られない。


 さらに都道461号・墨堤通りの東に平行する細道を北進する。途中の正福寺の一角に、
首塚地蔵尊ののぼりの立つ地蔵堂があり、たくさんのお地蔵さんが祭られていた。


 荒川右岸の堤防際を走る東武スカイツリーラインの線路が近づき、最後の七福神、毘沙
門天を祭る多聞寺(たもんじ)はすぐ近くにある。

 かやぶきの山門前から大変な人が並び、山門をくぐるのも順番待ちしている。山門は明
和9年(1772)の建立、墨田区最古の建造物として区の登録有形文化財である。

 何とか山門を入ったが、本堂までさらに参拝の列が続いている。山門を入った辺りで拝
礼して参拝に変えた。

 ここで七福神は巡り終えたが、隅田川左岸沿いを隅田公園まで戻るフルコースを選ぶか、
ここで終えるかが選択できる。私は、この後はフリーで歩きたいので歩き終えることとし
て、11時半近くに多聞寺を後にした。


 ほぼ同じ道を500mほど戻り、隅田二郵便局前を通過して墨堤通りへ。長く連なる中
層住宅に沿って少しで、隅田川左岸沿いに延びる東白髭公園に入り、近くの隅田川神社に
参拝する。



 境内には水神社など摂社もあり、白梅が早くも咲き出していた。
    

 そばの案内板によれば、荒川下流の鐘ヶ淵を越えて大きく曲がったこの地は、隅田川の
落ち口(終点)で、かつてはうっそうとした森が広がり、「水神の森」とも「浮洲(うき
す)の森」とも呼ばれ親しまれていたという。

      
 正面に逆光の東京スカイツリーを見ながら公園の南端まで進み、白髭橋から延びる都道
306号を横断する。
     

     
 墨堤通りを南下して少し先で西に入り、隅田川左岸沿いを走る首都高6号線の下の遊歩
道を進む。
     



 桜橋近くで東に回り、先ほど参拝した長命寺の北側の道路に出た。

 短い遊歩道沿いにジュウガツザクラ↑とフユザクラ↓が咲き、野口雨情がここに来遊した
時に詠んだ「都鳥さへ夜長のころは 水に歌書く夢も見る」の詩碑がある。
    
     

 そばに、古くからの名物「長命寺の桜もち」の店があるので入り、6個入りの桜もちを
購入する。
   

       


 西側、首都高の高架下部壁面には、広重が描いたこの辺りの風景のタイル画が埋め込ま
れていた。
    


 その横を隅田川左岸に出て、X型の歩道橋、桜橋を渡り右岸に回る。


 橋の中央部2か所に、平山郁夫画伯が描いた「双鶴飛天の図」の石刻があった。


     
 右岸沿いの隅田公園を、対岸の東京スカイツリーを間近に見ながらさらに南下する。


 言問橋下を南に抜けたところで公園を離れ、浅草寺に寄ることにして都道319号を西
に向かう。

 途中の中華店で昼食をして、馬道交差点の先で北側背後から浅草寺境内に入った。正月
2日とあり、多くの参拝客で境内はごった返している。



 本堂への参拝には、南側の仲見世通りをかなりの時間をかけて並ばねばならない。今日
はあきらめ、東側の二尊仏↓などの石仏や、弁天堂に参拝するに留めた。


 弁天堂の本尊は白髪なので「老女弁財天」と呼ばれ、関東三弁天(湘南・江ノ島、千葉
県柏市の布施弁天と合わせ)のひとつとか。


 鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)5代将軍綱吉公改鋳(かいちゅう)の江戸時代の
「時の鐘」で、芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か浅草か」で知られた鐘という。


     
 仲見世通りに劣らず混雑する新仲見世通りを抜けて、東京メトロ銀座線の浅草駅に13
時43分に着き、今日の私のゴールとする。



(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 台東区、墨田区、
 歩数 16,000)





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横浜瀬谷八福神めぐり(神奈川)

2016-02-02 11:31:29 | 七福神めぐり
 2016年1月31日(日)

 前日の天気も回復して気温も10℃前後になりそうなので、月末ながら今年2回目の七
福神めぐりに出かけた。

 自宅を8時過ぎに出て所沢と横浜で乗り換えて、10時10分に相鉄本線の瀬谷(せや)
駅に下車する。駅構内には、大きな七福神めぐりの絵が掲示されていた。
    

 相鉄線に乗ったのは何年ぶりだろうか…。首都圏の私鉄の中で私にはご縁の薄い鉄道で、
ここ20年くらいは乗ったような記憶が無い。

 駅にあった相鉄の「駅からさんぽ 横浜瀬谷八福神めぐり」のパンフレトをもらう。
18頁あり、八福神巡りマップのほか、寺の紹介、特典付飲食店案内、御朱印を押すスタ
ンプ帳、相鉄沿線のお勧めどころなどが掲載されている。


 10時18分に北口を出た。突き当たりの通りを右折して、瀬谷小の東側にある八福神
の最初、ダルマ大師の長天寺へ。

 創建は、室町時代の応永元年(1394)、八福神のダルマ大師は、釈尊以来28代目
のインドの高僧とか。中国に渡来し武帝に謁見後、少林寺の壁に面して9年、禅宗の開祖
といわれ、七転八起のダルマで親しまれている。
    
 どっしりとした本堂の前に、ダルマ大師が鎮座し、本堂内右手と小さいお堂にも祭られ
ていた。
     

 境内には、クリスマスローズが咲く。


 明治22年(1889)、近隣の3村が合併して瀬谷村となった時には、初めての村役
場が当寺の客殿に置かれ、大正5年(1916)まで使用されたという。

 瀬谷小の北に回り、相沢四丁目から五丁目へと住宅街を抜ける。本郷四丁目で真っ直ぐ
に北に延びる「海軍道路」と呼ぶ県道18号へ。右側歩道沿いには桜並木が続いている。


 瀬谷西高の先で西北への旧道に入る。西側にある平地林近くから、北に延びる直線の農
道へ。

 小さい流れを横断して上がると一面の畑が広がり、ナノハナが咲いていた。
      

 上瀬谷小の南を西進して、竹村町の住宅地を西に抜ける。狭いが車の多い県道401号
を南に少しで、大天の妙光寺があった。

 白雉3年(652)の開基という古寺。弘安5年(1282)9月には日蓮聖人が一泊
し、聖人の教化を受けて改宗したとか。

 本堂はコンクリート造り。大黒天堂に並ぶ鐘楼に吊された鐘は、正中2年(1325)
の鋳造で県の重要文化財。


 山門近くのクチナシが、たくさん実をつけていた。


 県道を南に少し、Y字路に小さい北向地蔵堂があり、赤布をまとった5体のお地蔵さん
が窮屈そうに並んでいた。
    

 そこで県道に分かれて右手に下ると、すぐ先が恵比寿神の善昌寺である。

 善昌寺は鎌倉の光明寺の末寺で、室町時代の天文2年(1533)の開山、本尊・阿弥
陀如来は、江戸時代から雨乞いの阿弥陀さんとして信仰を集めているという。

 恵比寿神を祭るお堂は山門を入った右手にあり、背後はわずかながら竹林になっている。
      

 山門の手前左手、墓地に立つタブノキの巨木が目に付き、横浜市の名木古木に選定され
ていた。
    

 境内の枝をたくさん延ばしたイチョウも、市の名木古木である。本堂前には、大
きく枝を広げたシダレザクラがある。
      

 「かまくら古道」と呼ぶ、緩いカーブの続く旧道を南下する。両側には古い屋敷やケヤ
キなどの高木が多く、古道らしい雰囲気にあふれている。

 広い屋敷の前に「瀬谷銀行跡」の説明板があった。瀬谷銀行は明治40年(1907)
に創業、30年にわたり地域金融事業の中心になり、実業界・政界に大きな影響を与える
とともに、地域の発展に寄与したとのこと。

 ここは、その頭取だった小島家の屋敷で、小島家は江戸中期から中瀬谷村村役を務め、
さらに明治から昭和初期まで村行政に功績を残したという。

     
 その先にもケヤキの古木の多い民家が目に付き、古い唐箕(とうみ)を大きな納屋の壁
面に吊した家もある。




 次の本郷一丁目に入った辺りに神明社があり、拝殿の右手にイチョウ高木が立っていた。


   
 その下に、西南戦争から太平洋戦争までの戦死者の名を刻んだ忠魂碑があり、礎石は、
天平13年(741)に建立された相模国分寺の講堂の礎石だという。
       

 さらに600mほどで、日枝社が祭られていた。


 社殿右手に、市指定天然記念物で樹高35m、胸高周囲5.4m、推定樹齢300年以
上というケヤキがあり、枝振りも良く幹の中ほどに幾つかの大きなヤドリギが付いていた。
     

 小さい流れを越えて本郷二丁目に入り、毘沙門天の徳善寺に行く。
     
 堂々たる山門を入ると、広い境内は樹木が多く古寺らしいたたずまい。



 徳善寺は弘治元年(1555)の創建、毘沙門天を祭るお堂は山門を入った左手にあり、
そばのミツマタが咲き出していた。


 周辺にも庭木の多い旧家があり、大きな夏ミカンだろうか、たくさんの実をつけていた。
     

 高架の相鉄線の下を抜けて瀬谷六丁目を進み、東西に走る県道40号・厚木街道との交
差点に出た。

 交差点際には、八福神巡りのパンフレットに掲載の、お勧めの店のひとつ「瀬谷そば」
があった。


 13時近いので入り、お勧めの鴨汁つけそば(800円)を注文する。八福神巡りパン
フレットを見せると、コロッケをひとつサービスしてくれた。
    

 13時14分に店を出た。厚木街道を東に少し、次の交差点の手前が弁財天の宝蔵寺で
ある。

 治暦2年(1066)の開基で、慶安2年(1649)には徳川3代将軍家光から、寺
領6石などの御朱印を受け、拝領の駕籠(かご)も現存するという。現在の本堂は、天保
15年(1844)の再建とか。「ぼけ封じ富士見楽寿観音第5番札所」でもある。
    
     
 弁財天堂には新しい石像の弁財天が祭られ、境内の青銅の楽寿観音像も新しい。
        

     

 「瀬谷そば」のある交差点まで戻り、かまくら古道を南に少しで、布袋尊の西福寺へ。

 創立は天文3年(1534)と思われるとか。極楽浄土とされる西を正面として境内が
扇状に広がっているので、西福寺と名付けられたらしい。


 この境内も樹木が多く、中でも本堂の左手前に立つスダジイは樹齢1,000年とされ、
「千年シイ」と呼ぶ市の名木古木である。


 境内に入って右手、布袋尊を祭るお堂の横にも、微笑む石像の布袋様が鎮座していた。


 南側にある左馬社(さばしゃ)は、西側に流れる境川流域の村々で疫病が流行した際に、
境川の東西に点在する神社を回って厄よけをした民間信仰「七サバ神社」のひとつで、祭
神は佐馬頭(さまのかみ)・源頼朝だという。

 西福寺が佐馬社の別当寺なので当時の神仏混交の姿が残り、境内の吊鐘は瀬谷区内唯一
で、厄除け、虫除けに鐘を突いて祈願したとか。
     
 江戸時代の鐘は太平洋戦争で供出し、現在の鐘は昭和32年(1957)の鋳造という。

 さらにかまくら古道を南へ、北新集落の南端で県道45号・中原街道に接し、街道に面
して福禄寿の宗川寺(そうせんじ)がある。

 開山は寛永2年(1625)、山門を入ると左右に立つイチョウは「夫婦銀杏(めおと
いちよう)」と呼び、市の名木古木。縁結びや安産祈願の信仰を受け、近隣からの参詣が
多いという。
     

 福禄寿を祭るお堂は右側イチョウの横にあり、境内にはソメイヨシノやシダレザクラの
古木もある。
       

 中原街道を横断して、道は緩やかに左にカーブする。1㎞ほどで相沢川を渡り、軍用道
路から延びる県道18号を跨道(こどう)橋で越える。


 東側の石段を上がると、最後の寿老人を祭る全通院勢至堂(せいしどう)である。

 午前の最後に訪ねた徳善寺の別院で、勢至菩薩を本尊としているとか。棟札によれば、
寛政9年(1797)に現在のお堂が建立されたと記されているという。
       

 明治22年(1889)の町村制で近隣の3村が合併して瀬谷小のエリアが広がったた
め、境内に下瀬谷分教場が設置され、昭和18年(1943)まで多くの児童が通学した
ようだ。

 境内には、横浜市の名木古木に指定されているフジの古木もある。


 14時半過ぎ、八福神を巡り終えた。あとは駅に戻るのみ。そばの下瀬谷橋際にバス停
があり、20分間隔でバスがあるが、時間も早いので県道18号を北へ戻ることにする。
交通量は多いが歩道があり、最短なので県道を進み、15時11分に瀬谷駅南口に着いた。


(天気 曇後晴、距離 11㎞、地図 (1/2.5万)座間、相鉄の八福神めぐり地図
 ほか、歩行地 横浜市瀬谷区、歩数 21,700)




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今年の初歩きは山手七福神めぐりへ(東京)

2016-01-03 18:06:10 | 七福神めぐり
 2016年1月2日(土)

 今年の初歩きは、例年同様に東京都ウオーキング協会主催の「第14回江戸東京七福神
めぐり」に行く。この七福神めぐりは全部で7コースあるが、今回は「恵比寿コース」の
山手七福神に参加した。


 集合はJR山手線恵比寿駅東口、ガーデンプレイスの北側にあるアメリカ橋公園。


 ガーデンプレイス側には、渋谷区のコミュニティバス、ハチ公バスが待機していた。


 主催者の挨拶とコース説明があり、準備体操をして体をほぐし、9時38分にスタート
した。


 くすのき通りを東北東に進んで都道305号へ。さらに東進すると北里研究所病院があ
り、昨年12月にノーベル生理学・医学賞を受賞された、大村博士を祝うパネルが掲示さ
れていた。



 桜田通り近くまで進み、最初に白金二丁目の立行寺(りゆうぎようじ)に入る。ここは
七福神の寺ではないが、墓地に祭られている大久保彦左衛門と一心太助の墓に参拝する。
        

            

 大久保彦左衛門は天下のご意見番として知られ、立行寺は彦左衛門こと大久保忠教(た
だたか)により建立され、通称「大久保寺」と呼ばれているという。境内には、りっぱな
頌徳碑も建立されていた。

 国道1号・桜田通りを少しで、白金台一丁目にある七福神の最初、毘沙門天の覚林寺
(かくりんじ)山門を入る。


 「白金清正公(しろかねせいしょうこう)」で知られる覚林寺は、寛永8年(1631)
の創建。創建した可観院日延は、朝鮮の王族出身だが豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正
に捕えられ、のち千葉県小湊の誕生寺18世となり、当地に隠居し当寺を創建したという。


 正面の加藤清正を祭った清正公堂に参拝の後、山門に近い毘沙門天堂に回って手を合わ
せた。
        

 山門を出て少し戻り、南西に延びる都道302号・目黒通りへ。


 この先七福神の多くはこの沿道にあり、次は500mほどの白金台三丁目に布袋尊の瑞
聖寺(ずいしようじ)がある。

 関東には少ない黄檗宗(おうばくしゆう)の寺で、寛文10年(1670)の創建。江
戸で最初の黄檗宗寺院で関東黄檗宗派の巨刹(きょさつ)とも呼ばれ、創建の翌年には5
代将軍綱吉から10万石の格式を賜ったという。

 広い境内の中心に、宝暦7年(1757)再建と推定される黄檗宗独特の造りで国指定
重要文化財の大雄宝殿(たいおうほうでん)を構え、布袋尊は、大雄宝殿の右手にあるお
堂に祭られていた。


 白金台五丁目にあった公園でトイレ休憩後、南に少し入って、白金台三丁目の妙延寺
(みようえんじ)に行く。


 妙延寺は瀧本院日忍(俗称瀧本采女、元和6年(1620没)が創建したといわれ、瀧
本采女が足利幕府に仕えていた時に足利義輝より拝領したという妙見大菩薩が妙見堂↓に
祭られ、あわせて寿老人と福禄寿も祭られているが、堂内に上がる時間が無く、拝観は出
来なかった。



 さらに目黒通りを進み、都立自然教育園前を通過する。都心環状線目黒線の高架下を抜
けてJR目黒駅東口を過ぎ、右カーブする目黒通りに分かれて直進する行人坂(ぎょうに
んざか)を下る。

     
 ホリプロのビルの横を過ぎ、大天の大圓寺(だいえんじ)の山門を入った。


 大圓寺は、寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が行人坂を切り開き、祈願の道場を開いた
のが始まりと伝えられるとか。

 「生身の釈迦如来」といわれる国指定重要文化財の木造釈迦如来立像が、ちょうどご開
帳されていたので参拝した。
     

 そのお堂の横にあった大天像は、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天
像」と呼ばれているという。


 明和9年(1772)2月、本堂からの出火で江戸六百余町を焼き、多くの死者を出し
たが、その供養のために造られた「大円寺石仏群」(東京都指定文化財)が東側斜面に並
んでいた。


     
 高層ビルになった雅叙園(がじょえん)↑の横を進んで目黒川を渡る。春先には花見で
賑わうソメイヨシノは、まだ枯れ枝のまま両岸に続いている。


 行人坂が都道317号・山手通りを横断した突き当たりが、弁財天の蟠隆寺(ばんりゆ
うじ)である。

 寺は、慶安元年(1648)に開創した称明院を、増上寺の霊雲上人が宝永6年(1709)
に蟠龍寺として改名再建したとか。本尊「木像阿弥陀如来像」(都指定文化財)を祭る本
堂前の生け花が、新春らしい彩り。
        

        
 「江戸名所図会」に記された当時の面影を残す境内、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に
石造弁財天が、弁天堂内↓には木造弁財天(八臂の天女像)が安置されていた。


 山手通りに戻って南東に少し、新しい羅漢像の横の通りを南西に進む。
      

 五百羅漢寺前を通過して、七福神の最後、目黒不動で知られる恵比寿神の瀧泉寺(りゅ
うせんじ)に着いた。

 龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれる古寺。本尊は不動明王
で、通称「目黒不動尊」で親しまれている。

 江戸時代には、3代将軍徳川家光により堂塔伽藍の造営が行われ、以後幕府の厚い保護
を受けたとか。また、江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして信仰
を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わったという。


 今日も、広い境内は多くの参拝客で賑わう。まずは山門前の左手、二つの池の間を進ん
で小さなお堂に祭られた恵比寿神に参拝する。
        


 山門前に戻り、露店も出て賑わう山門を入ると、その先にも露店がたくさん並んでいる。
正面の大きな本堂に上がって参拝した。


 本堂から下りて左手横を背後の台地に上がると、目黒区内最古の公園のひとつという不
動公園があり、ここが今日のゴール。11時56分に着いた。

 公園からは、弥生後期の竪穴式住居跡が出土し、縄文期の土器や石器も多数見つかった
という。

 心配された右足下肢の筋肉痛も、なんとか再発せずに着いた。だが後半は足取りも遅く
なり、参加者の最後部近くをついてきたので、もう一度ゆっくりと目黒不動尊参りをする
のは止めて、目黒駅に向かうことにする。

 公園の東側には瀧泉寺の墓地があり、その一角に、「甘藷先生」として知られる青木昆
陽の墓(国指定史跡)があった。
        

 坂を下って蟠隆寺の横に出て、大鳥神社横から目黒通りに入る。目黒川の新橋を渡って
権之助坂を上がり、JR山手線の目黒駅西口に12時25分に着いた。


 東口にあった軽食堂で昼食を済ませ、13時過ぎに帰路につく。

(天気 晴、距離 認定10㎞(実質8㎞)、地図 江戸東京七福神めぐり 恵比寿コー
 ス地図(1/2.5万 東京西南部)、歩行地 渋谷区、港区、目黒区、歩数 13,900)




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新ハイキング社から『東京近郊 七福神めぐり』発刊

2015-12-01 15:49:23 | 七福神めぐり
 2015年12月1日(火)

 いよいよ今年も残り1か月になりました。そろそろ年賀状の用意をと考えている方も居ら
れるかと思いますが、さらに、お正月になったらどこの七福神めぐりに出かけようかと思案
されている方も居られるのではないでしょうか…。

 そんな方に都合の良いガイドブックが、11月下旬に発売されました。それが新ハイキン
グ社の『東京近郊 七福神めぐり』です。

       

 本書は、月刊のハイキング誌「新ハイキング」に掲載されたコースを中心に、東京近郊に
ある昔からの七福神から、あまり知られていない新しい七福神まで、全部で43のコースを
紹介しています。

 本書にて紹介しているコースは以下の通りです。

 〇山手線圏内と下町の七福神
 
  谷中七福神、小石川七福神と日本橋七福神、山ノ手七福神、雑司が谷七福神、

  麻布七福神、亀戸七福神、板橋七福神、新千住七福神

 〇横浜・湘南方面の七福神

  荏原七福神、池上七福神、羽田七福いなり、横浜七福神、横浜金澤七福神、

  横浜磯子七福神、横浜瀬谷の八福神、湘南(逗子・葉山)七福神、三浦七福神、

  鎌倉・江ノ島七福神

 〇武蔵野・秩父地方の七福神

  武蔵野吉七福神、東久留米七福神、日野七福神、八王子八福神、武蔵五日市七福神、

  青梅七福神、武蔵野七福神、与野七福神、小江戸・川越七福神めぐり、

  武蔵越生七福神

 〇下総方面の七福神

  習志野七福神、佐倉七福神、印西七福神、とりで利根川七福神、

  三郷七福神・八木崎戸ヶ崎めぐり、草加七福神、伊興七福神

 〇足を延ばして

  足利七福神、伊豆長岡温泉の源氏山七福神、伊東七福神、箱根七福神、小幡七福神、

  くりはし八福神、中山道本庄宿街歩き、奥久慈大子七福神

 いかがでしょうか。いや、もう全コースを回っているよという方がおられたら敬服です。
私は、ざっと数えたところ19コースくらい訪ねていました。

 各々のコースについては、すべて執筆者が足で歩いて記したコースの詳細な情報のほか、
歩行時間、寺社間のコースタイム、費用(交通費)、必要な地図、問い合わせ先や社寺の
電話番号、そしてコース全体の略図、社寺や七福神のカラー写真なども掲載されています。

 さらにプラスアルファの情報として、七福神の由来、七つの神について解説したコラム、
七福神持ち物クイズ、新ハイキングクラブで実施している「七福神めぐり」、首都圏中心
のINDEX MAPも記されているなど、七福神についての盛りだくさんの情報がこの1冊に
盛り込まれています。

 そろそろ書店の店頭に並んでいるかと思いますので、手にとってご覧いただき、興味が
ありましたら入手され、本書を参考に新しい年の七福神めぐりをお楽しみ下さい。

(A5版251頁、編集・発行 新ハイキング社、本体1,700円(税込み1,836円))


 ちなみに、本書に掲載の43コースのうちの7コースは私の執筆したものです。執筆者
割引により税込み1,377円で購入できますので、購入を希望される方は12月15日
(火)までにメールいただければ、まとめて購入後、直接お渡しするか郵送いたします。




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鎌倉・江ノ島七福神めぐり(神奈川)〈続き〉

2015-01-28 22:47:25 | 七福神めぐり
 2015年1月25日(日) 〈続き〉

 長谷一丁目にケヤキの古木があり、その下に平家の武将平盛久が由比ヶ浜で斬首される
ときの観世音の霊夢のことを記した「謡曲「盛久」と由比ヶ浜」の説明板と石碑や、庚申
塔などが立っていた。



 鎌倉市景観重要建築物という「のり真安斉商店」↑の建物前を通過し、長谷観音前交差
点を横断すると突き当たりが長谷観音だが、手前の「鎌倉オルゴール堂」が目に入ったの
で寄ってみた。


    
 様々なスタイルのオルゴールが所狭しと並び、若い女性などがどれを買おうかと選んで
いる。周囲には、輸入品の古いオルゴールも10数点展示されていた。
    
     これは、1891年スイス製というオルゴール。

 正面の斜面一帯が「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれ、坂東三十三観音霊場の第4番札所
で、大黒天の祭られた長谷寺(はせでら)である。


 本尊は、長谷観音と呼ばれる十一面観世音菩薩で、奈良時代にクスノキの霊木から造ら
れたとか。像高9.1mあり、国内最大級の木造仏像という。

 山門の手前右手に、幹の太いタブの古木が目につく。山門を入り、池の横から石段を上
がる。


 境内には観音堂を中心に、阿弥陀堂、地蔵堂、大黒堂、弁天堂、経蔵、宝物館などの伽
藍(がらん)がある。

 観音堂の近くには、関東大震災の際に長谷寺に難を逃れ、戦中には寺の復興に尽力した
という、劇作家や小説家として知られる久米正雄の胸像や、仏足石などがあった。

    
 経蔵の近くに、マンサクや黒光(こっこう)と呼ぶボケが咲き、石段横の斜面にはたく
さんのミツマタも開花していた。

 経蔵の近くの見晴台からは、相模湾の展望が広がる。



 観音堂↑に参拝して階段を下り、卍池(まんじいけ)や千体地蔵の横をさらに下って放
生池のほとりへ。


 そばの出世大黒堂に、にこやかな大黒天が祭られている。
      

 池のほとりでは、紅梅や白梅が開花し始めていた。

 長谷観音前交差点から南へ、すぐ先の細道を右に入り、長谷観音の南側山裾にある福禄
寿の御霊(ごりよう)神社に回る。

 御霊とは、強く尊い祖先の御魂(みたま)のこと。神社の創建は平安時代後期と伝えら
れ、桓武天皇の子孫で鎌倉武士団を率いて武勇に名高い、領主の鎌倉権五郎景政(ごんご
ろうかげまさ)を祭る。

 9月の例大祭に行う、「面掛(めんかけ)行列」という珍しい行事に使われる特異な面
の中に福禄寿が含まれていて、これにちなみ福禄寿が宝物庫に安置されているという。


 境内には、神奈川の名木百選に選定され、樹高20m、樹齢約400年と推定されるタ
ブノキの古木や、「夫婦銀杏(めおといちよう)」↓と呼ぶ樹齢約400年の大イチョウ
がある。
      

 神社の南側を江ノ島電鉄が走り、すぐ西側で沿線で唯一のトンネルに入っている。


 長谷観音前交差点に戻り、県道32号を北に300mほど進んで鎌倉病院に行く。建物
の背後に回ると、展望病棟に上がれる日本最初という珍しい斜行エレベーターがあるが、
入口は閉ざされていた。
      
 斜行エレベータについては、昨年末に職場の上司だったHさんからもらった鎌倉情報で
知り、立ち寄って見たもの。


 もとの道を戻り、さらに南下して江ノ島電鉄長谷駅に行く。かなり混んでいる4両編成
の江ノ電で七里ヶ浜沿いを西へ、6つ目の江ノ島駅で下りる。


 土産店などの並ぶ狭い通りも、かなりの人出で賑わう。「えのでんはうす」と呼ぶ建物
には、記念撮影用に江ノ電の先頭部があり、壁面には江ノ電沿線の写真が展示され、江ノ
電のおもちゃやグッズなどを販売していた。
      


 江ノ島に渡る弁天橋際にあった観光案内所を少しのぞき、国道134号の片瀬橋の下を
くぐり、江ノ島弁天橋を渡る。橋には帰る人が多いが、これから向かう人も結構いる。


 渡りきった青銅の鳥居周辺も大変な人出で、静かな田園歩きを好むカントリーウオーカ
ーとしては、思いがけぬ人出にうんざりだ。


 土産店の並ぶ弁財天仲見世通りの狭い斜面を進み、朱塗りの鳥居をくぐって弁財天のあ
る江島神社境内の石段を上がる。

      
 唐風の随神門をくぐり、右から回り込んで江島神社の辺津宮(へつのみや)(下宮)に
上がって参拝し、朱印所で七福神の色紙に最後の8つ目の御朱印をいただく。


 江島神社は、1400余年前の欽明天皇の時代に天皇の命で島の洞窟に神様を祭ったの
が始めとされ、歴代の朝廷や源頼朝、秀吉、家康などの崇敬厚く、安芸の宮島、近江の竹
生島とともに日本三弁財大として知られている。

 左手にある弁天堂にも拝観料(150円)を納めて入り、「裸弁財天」と呼ばれる琵琶
を抱えた妙音弁財天を拝観した。


 その先の八坂神社の前に「むすびの樹」と呼ぶ、二つの幹が一つの根で結ばれたご神木
の大イチョウが立っている。
      

      幹の回りに、良縁成就を願う絵馬がたくさん奉納されていた。
      

 樹のそばからは、直下の弁天橋やその向こうの藤沢の街並みなどが見下ろせる。



 参道を右に回り込むと、眼下に江ノ島ヨットハーバーや対岸の鎌倉方面の海岸線などが
一望できる。


 さらに進んで、江島神社(中津宮(なかつみや)に参拝する。


 境内には「謡曲「江島」と弁財天」の説明板が立ち、社殿左手には水琴窟(すいきんく
つ)があり、水を流すと心地よい水音が聞ける。

 16時近いので戻ることにして石段を下って行くと、勝運(かちうん)の神と記された
児玉神社の鳥居があった。日露戦争で日本を勝利に導いた児玉源太郎を祭っているという。


 参拝に行く人はいない。斜面につけられた参道を右に回り込み、江島神社とはうって変
わって静かな拝殿に参拝する。本殿は、背後の高い石積みの上にあった。


 まだ人出の多い弁財天仲見世通りを戻り、江ノ島弁天橋を渡る頃には陽が傾き、往路で
は霞んで見えなかった西のあかね空に、丹沢山塊と富士山がうっすらと姿を見せた。


 それらを撮りながら橋を渡り、小田急江ノ島線の終点、社殿風の片瀬江ノ島駅に16時
29分に着いた。


 16時37分発の各停で藤沢駅まで乗り、JRに乗り換えて湘南新宿ラインで池袋駅に
向かう。

(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 戸塚、鎌倉、江ノ島、歩行地 鎌倉市、
 藤沢市、歩数 23,700)




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鎌倉・江ノ島七福神めぐり(神奈川)

2015-01-27 22:43:54 | 七福神めぐり
 2015年1月25日(日)

 暖かくなるという予報に誘われ、一年中御朱印もいただけるという鎌倉・江ノ島七福神
めぐりに出かけた。

 JR池袋駅から湘南新宿ラインに乗り、ちょうど1時間の9時38分に横須賀線の北鎌
倉駅に下車する。やはりこの暖かさに誘われたのか、たくさんの人がこの駅で下りた。


 西側を平行する県道21号・鎌倉街道を南東へ500mほど進み、踏切の手前で右折す
る。突き当たりが、布袋尊の浄智寺(じょうちじ)である。

 鎌倉五山の第4位で、豊富な木々に覆われた境内は国の史跡に指定されている。総門の
手前に、「鎌倉十井(じっせい)」の一つ、甘露の井がある。

 寺は、弘安4年(1281)、北条時頼の三男宗政が29歳で没後、夫人が夫の菩提を
ともらうために創建されたとのこと。

 鐘楼門を入ると、市の天然記念物のビャクシンの古木3本が立ち、境内を一周する遊歩
道を進むと、さらに大きなビャクシンがある。
      

 仏殿には、室町時代造立という阿弥陀・釈迦・弥勒の三世仏座像が並ぶ。



 かやぶき屋根の曲がり屋の背後に回ると、幾つかの洞窟の最後に、布袋尊が祭られてい
た。


        

 県道に戻り、細い歩道をさらに南東に進む。沿道には休憩や食事処、鎌倉彫の店など、
鎌倉らしい店が幾つも見られる。



 鎌倉五山第1位の建長寺前を通過し、巨福路坂(こぶくろざか)のアーチを抜ける。
右手に県立近代美術館別館↓を見てすぐ先を左折すると、鶴岡八幡宮(つるがおかはちま
んぐう)の社殿横に入れる。


 鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の宗社で、源氏の守護神として源頼朝が治承4年(1180)に
創建したもの。政子夫人が、源氏隆盛と平家滅亡を祈願して境内の東西に池を作り、東の
池に七福神の一つとなっている旗上(はたあげ)弁財天を祭ったのが始まりとか。


 社殿周辺を始め、境内一帯は結構な人出で賑わっている。参拝して石段を下り、人混み
の中を旗上弁財天に向かうと、ぼたん庭園の冬ボタンが見頃との表示がある。




 弁財天の参拝前に観ることにして「神苑ぼたん庭園」へ。池の周囲に巡らした園内を一
巡して、雪よけのこもを被ったたくさんの冬ぼたんをて観賞し、大鳥居近くの出入り口か
らぼたん庭園を出た(神苑ぼたんについては、前回投稿済み)。


 朱塗りの橋を渡って弁天島に入り、これも朱塗りの旗上弁天社に参拝する。


 鎌倉彫刻の代表傑作といわれる弁財天像は、重要文化財として国宝館に安置されている
という。朱印所では、団体の朱印をもらう人が先着していて、少し待たされた。

    
 そばの枯れ枝に白ハトが止まり、一見(いっけん)花のよう。旗上弁財天の左手背後に
は、パワースポットととして女性に人気という、「政子石」が鎮座していた。
    

 大鳥居を出て左へ、次の交差点の突き当たりが毘沙門天を祭る宝戒寺(ほうかいじ)で
ある。


 新田義貞の鎌倉攻めで、寺の南東の「腹切りやぐら」にて最後の執権・北条高時ほか
870名が自害したと伝えられており、滅亡した北条氏の霊をともらうためと修行道場と
して、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、北条氏の屋敷跡のこの地に建武2年(1335)
に寺を建立させたとのこと。

 境内には四季を通じて花が咲き、9月には白いハギで埋め尽くされる「萩の寺」として
知られるようだが、いまは花は見られず、本堂右手の「東久邇宮お手植え」という、ビャ
クシンの高木だけが目についた。
      

 毘沙門天は、本堂内の本尊で国重文の木造地蔵菩薩立像の横に祭られているというが、
法事中で拝観することはできなかった。


 南に延びる小町大路を少し進み、右手に見えた山門から寿老人の妙隆寺(みょうりゅう
じ)へ。


 創建は至徳2年(1385)で、六代将軍足利義教により投獄され、拷問で焼鍋を被せ
られたが信仰心で耐え、「鍋かぶり上人」と呼ばれた日親上人ゆかりの寺である。


      
 境内右手の小さいお堂に、寿老人像が祭られている。本堂右手には、日進上人が応永
34年(1427)の冬、100日間身を浸して修行したという池が残っていた。

 小町大路をさらに南下する。日蓮聖人が建長5年(1253)に安房(千葉県)から鎌
倉に来て草庵を結び、毎日この辺りで法華経の功徳を説く辻説法を行ったという「日蓮聖
人辻説法跡」がある。


 小町小路は緩やかに左カーブし、滑川の橋の手前で、夷(えびす)神(恵比寿)を祭る
本覚寺(ほんかくじ)に入る。


 本覚寺の創建は永享8年(1436)だが、それ以前にこの地には、源頼朝が鎌倉幕府
の守り神のひとつとして建てた夷堂があたったとのこと。

      
 現在の夷堂は、昭和56年(1981)に落成したというコンクリート造りの八角堂。

        
 堂内には、小さな恵比寿神が祭られ、運慶作と伝えられる本尊・釈迦三尊像を祭る本堂
は、修理中だった。


 橋を渡って大町四ッ角交差点まで進む。右折して県道311号に入り、若宮大路と交差
する下馬(げば)交差点や江ノ島電鉄の踏切を越える。





 六地蔵交差点を過ぎた辺りから、昼食のできるところを探しながら進んだら、「ふたば
や」という弁当も売る小さな食堂があった。
      

 日曜のためか、外に出ていたメニューより限られていたが、注文した豚のしょうが焼き
(900円)は美味しかった。
    

 〈続く〉




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江戸東京七福神めぐりで荏原七福神へ

2015-01-03 13:15:49 | 七福神めぐり
 2015年1月2日(金)

 東京都ウオーキング協会が毎年1月2日に7つのコースで開催している「江戸東京七福
神めぐり」、今年の第13回は、初めての荏原七福神に参加した。

 ちなみに荏原七福神は、平成3年(1991)に生まれたという新しい七福神である。


 集合は、JR京浜東北線や東急大井町線などの大井町駅から南西に7分ほどの大井中央
公園。JR大井町駅へは、池袋からりんかい線直通の埼京線で21分、わが家の最寄り駅、
西所沢からも59分で着いた。


 晴れていた空が、スタートした9時45分にはすっかり曇り、うすら寒い。

 大井一丁目のマンションなどのビル群の間を北進すると、東急大井町線の南側、立会
(たちあい)道路に面した狭い敷地に、福禄寿の大井蔵王権現神社がある。

 江戸時代、江戸の町に火事や疫病がはやったとき、この地域は大井村の権現神社の天狗
のお陰で、無事だったとか。


 ケヤキ並木の続く立会道路を南西へ500mほど進み、北へ少し入った「大盛湯」↑と
いう銭湯の先が、毘沙門天の東光寺である。

 開山は天文13年(1534)とのこと。当時この辺りは、平塚村大字下蛇窪と称した
という。毘沙門天は本堂に祭られているようだが、混雑していて確認できない。


 本堂前のカシの木の根元に、石仏などが並んでいた。



 さらに立会道路を東海道新幹線の高架下まで進み、JR横須賀線の西大井駅前を通過す
る。

 新幹線と横須賀線の高架を抜けた先に、うっそうとした木々に囲まれた伊藤博文の墓地
があるが、門が閉じていて参拝は出来ない。


 少しの間、新幹線と横須賀線の線路沿いに進み、線路が右カーブした辺りで線路から離
れる。間もなくの西大井五丁目に、広大な敷地を持つ布袋尊の如来寺がある。

 植栽の多い境内、斜面を上がる途中に新しい布袋尊があった。
 


 緩やかに上がった正面の大きなお堂、瑞應殿には、品川区有形文化財で「大井の大仏」
と呼び、像高3mある5体の木造五智(ごち)如来座像が祭られている。

 五智如来像は木喰但唱(もくじきたんしよう)が弟子とともに信濃国で建立し、寛永13
年(1636)に江戸高輪に如来寺を建てて安置し、明治30年代(1897~)に大井
村(現在地)に移ったとか。

 正面の宝生(ほうしよう)如来像の前に、小さな布袋尊が鎮座していた。
    

 折り返すように北西に向かう。伊藤小の前を通過し、朋優学園の先にあった「はらっぱ
公園」で、トイレ休憩となる。


 三間道路に出て北に少し入った双葉四丁目に、弁財天の上神明天祖神社がある。大正初
期に建立された大鳥居は、昭和20年(1945)の空襲で境内の建物や樹木などが焼け
た中で、ただ一つ戦火を免れたとか。


 天保年間の1644年頃には上、下神明神社に分かれていたとの史実に基づき、平成15
年(2003)には、鎮座360年奉祝大祭が行われたという。


 七福神のお堂は本殿右にあり、この弁天社には白蛇伝説の由来があるとのこと。境内に
は、中華そばなどの露店が出ていた。


 三間道路に戻って西進し、荏原町商店街に入って源氏前小前を通過する。



 いったん三間道路を離れて東急大井町線の荏原町駅↑横の踏切を渡ると、大きな本堂が
目に付く恵比寿神の宝蓮寺である。


 開山は蒙古襲来の頃の文永年間(1264~75)と伝えられ、八幡太郎の子孫という
この地の豪族荏原氏の館に創建されたといわれているらしい。

 徳川十一代将軍家斉(いえなり)が鷹狩りの途中に現在の旗岡八幡宮に立ち寄り、別当
寺だったこの寺の芝庭で、当時の住職、日詮上人(にっせんしょうにん)と相撲を取った
という伝承があるという。

 
 恵比寿様は、道路際の小さい社に祭られていた。


 三間道路に戻って荏原町商店街を更に西進する。旗の台四丁目商店街を抜けて、東急大
井町線と池上線の旗の台駅横を通過した。

 都道2号・中原街道を少しで、昭和大病院横から桜並木の続く通りを北に進む。第二延
山小横を過ぎてから西に向かうと、荏原七丁目にある寿老人の摩耶寺に着く。


 木々の多い境内、正面のコンクリート造りの本堂に、延命長寿の寿老人が祭られていた。


 開山は寛文年間(1661~73)で、本堂の左手には釈迦の生母・摩耶夫人立像を祭
る摩耶堂があり、精巧な摩耶夫人立像は。延宝6年(1678)の製作で、品川区有形文
化財という。

 境内のテントではお神酒と甘酒が振る舞われていたので、熱々の甘酒をいただいた。


 最後の七福神、大国天の小山八幡神社は、すぐ先の小高い斜面上にあった。創立年代は
不詳のようだが、鎌倉幕府の頃と社伝にはあるとか。口伝では、長元3年(1030)に
は旧小山村の氏神として崇敬されたという。


 品川区内随一の標高35mの高台にあり、境内からは区内のビル群などの展望がよい。


 大黒天は、社殿左手奥の社に祭られているというが、扉が閉ざされていて見られない。


 西小山桜通りを進み、東急目黒線西小山(にしこやま)駅前に11時55分にゴールす
る。今日の参加者は44人と発表された。東急目黒線はこの辺りは地下化されていた。


 曇っていた空も、後半には晴天となった。初めて乗る東急目黒線で目黒に出て、JR山
手線で池袋に向かう。

(天気 曇後晴、距離 認定10㎞、実測8㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、
 歩行地 品川区 歩数 11,400)




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西武鉄道ハイキングで雑司が谷七福神めぐり(東京)

2014-01-05 21:10:34 | 七福神めぐり
 2014年1月5日(日)

 今年2度目の、七福神巡りに出かけた。今日は、西武鉄道主催のウオーキングイベント
の一つ「雑司が谷七福神めぐり」である。

 スタート地は、西武鉄道池袋駅南口から徒歩10分ほどの、南池袋三丁目にある静観院。


    
 受付のテントで地図をもらい、そばの別のテントで七福神御朱印用の色紙(500円)
を求め、10時20分にスタートする。

        
 静観院の七福神は弁財天で、受付テントの左手に祭られた石造りのもの。境内はかなり
の参拝者で賑わう。

        
 参拝を終えた頃、笛と太鼓が聞こえてきて、七福神のお面を被った行列がやってきた。
まずは弁財天の前に並び、一行のお姿を参拝者に披露してくれた。
    

 南に進んで、突き当たりの雑司が谷鬼子母神境内に入る。広い境内には露店も並ぶ。


 雑司が谷鬼子母神といえば、すすきみみずくの人形が知られ、その店もある。
    

 大きな本堂に参拝後、手前右手にあった大黒天に詣でる。


        

 境内南側には、都指定天然記念物で、樹高30m、幹周8m、応永年間(1394~
1428)に植えたと伝えられるイチョウの大木が立っている。
      

 ケヤキ並木の参道を南下し、都電荒川線の線路沿いに出た。
      

 V字状に折り返して線路沿いを北東に進み、恵比寿神の大鳥神社に入る。
     
 茅の輪をくぐって社殿に参拝後、露座のままの恵比寿神に手を合わせる。
     

     
 境内のテントでは、東日本大震災復興支援チャリティ事業の甘酒が振る舞われていたの
で、少しの義援金を入れて暖かい甘酒をいただいた。

     
 次の踏切を渡って東に回り、南池袋四丁目の台地斜面にある清立院の階段を上がる。本
堂はコンクリート造り。


 毘沙門天は本堂の扉のそばに祭られていた。
     

 境内には日蓮上人像と、正嘉年間(1257~9)の雨乞いに霊験あったという雨乞い
の松が立つ。
        

 弦巻通りに出て南東に向かう。「雑二ストアー」の看板の出た店に、小さな置物など正
月の縁起物が並んでいた。
    

 日本女子大学寮の南側を回って不忍通りに出て、少し先を北に入ると吉祥天の精士鬼子
母神がある。ここだけは豊島区ではなく、文京区目白台二丁目である。


 本堂横にイチョウの古木が、ほかに文京区保護樹木のムクノキなどの高木が目につく。
吉祥天立像は、本堂の左手、ムクノキの近くに祭られていた。
        

 その横から境内を出て、折り返すように北西に向かう。雑司が谷幼稚園の横を東に入り、
雑司が谷旧宣教師館を見に回ってみた。

 「旧マッケーレブ邸」が正式名称のようで、明治40年(1907)にアメリカ人宣教
師マッケーレブが建てたもので、昭和16年(1941)に帰国するまで生活していたと
いう。

 19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅で、都内でも少ない
明治期の宣教師館として都の有形文化財に指定され、一般公開していた。

 都立雑司が谷霊園に南側から入り、中央部を北に抜ける。


 管理事務所近くに、「お鷹部屋と松」の説明板があり、「この辺りには江戸中期の享保
4年(1719)以降、幕府の御鷹部屋があり、鷹狩りに用いる鷹の飼育や訓練を行って
いて、将軍が鷹狩りの際には立ち寄って休息や食事の場所でもあったた」とのこと。
      
 説明板の後方に、当時をしのばせる松が残っている。

      
 都電荒川線の雑司が谷駅際の踏切を渡り、東(あずま)通りを西進する。


 池袋駅に近い、南池袋二丁目の中野ビル一階の小さな社殿に、笑顔の布袋尊が祭られて
いた。
        

 相対するビルの一階には「老眼めがね博物館」の看板が掛かり、数知れぬ眼鏡が壁面に
並ぶ。店の前にも店内にも老眼めがねがたくさん販売されていて、店内では時計修理も行
っている。



 次の角を右折して、突き当たった右手、同じ南池袋二丁目の仙行寺が最後の福禄寿尊。
本堂前のガラスケースに、「華の福禄寿」と呼ばれる小さな福禄寿尊が祭られていた。
        

 郵便局前を通過して西武鉄道池袋駅のある西武百貨店前に戻り、別館四階屋上のゴール
に、12時36分に着いた。
     

(天気 晴、距離 公称7㎞、実質5㎞、地図 「雑司が谷七福神めぐり」地図(西武鉄
 道製)、歩行地 豊島区、文京区)





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江戸・東京七福神巡りで深川七福神へ

2014-01-02 18:52:23 | 七福神めぐり
 2014年1月2日(木)

 今年の初ウオーキングに、東京都ウオーキング協会主催の「第12回 江戸・東京七福神
巡り」に出かけました。

 この催しは7つのコースがありますが、その中の「福禄寿コース・深川七福神」です。

 集合は、東京メトロ東西線の門前仲町駅から3分の深川公園。9時30分のスタートに
あわせ、9時過ぎに到着しました。


 出発を前にコース説明とストレッチ体操をして、9時40分にスタートしました。

 最初の七福神は、そばの富岡八幡宮にある恵比寿神へ。小さなお社に祭られていました。
    


 初もうででたくさんの参拝者が並ぶ参道を横切り、本殿の右手から背後に回ります。


 大きな横綱力士碑など相撲にゆかりの石碑が並んでいました。


 富岡八幡宮の境内を裏手に抜けて、首都高深川線の下を西進しました。


 首都高が右カーブする地点で離れて北に向かい、言問橋通りと葛西橋通りを横断して、
深川二丁目にある福禄寿の心行寺へ。


 福禄寿は、本堂の左手前にある小さいお堂です。


 境内には、ちゃんこ鍋などを味わえる出店がありました。


    
 通りの西側、深川一丁目の彩茶庵跡に芭蕉像があり、その横から仙台堀川沿いの遊歩道
に入ります。

 ここは「芭蕉俳句の散歩道」と呼ばれ、木板の芭蕉の句碑が並んでいました。
       

 次の橋を渡って清澄公園に入り、北に抜けました。都立清澄庭園の西側一帯です。


 清洲橋通りを過ぎ、小名木川の手前の通りの角にある深川稲荷神社が、3番目の布袋尊。
        
 狭い敷地で小さな社殿でした。


 すぐ西で隅田川に合する、小名木川の萬年橋を渡ります。


 北に少しで、江東区芭蕉記念館があり、その角を右折しました。



 深川神明宮に入り、寿老神にお参りします。ここも小さなお社。
    

 神明宮の本殿にも、たくさんの参拝者が訪れていました。


 
 ひとつ南のアーケードのある通りには、のらくろの垂れ幕が続いていました。作者の田
河水泡さんのお宅が、この近辺にあったのでしょうか…


 「のらくろ」といっても、若い人はご存じないでしょう。この漫画を見たことのある方
は、もう70歳代以上かも知れませんね。

 アーケードの切れたところで右折して南へ、小名木川の西深川橋を渡ります。橋の北側
にギョッ(魚)とする3mくらいもあるこんな魚像が…
     



 清洲橋通りに入って白河三丁目を東進し、東深川橋からの通りを南に向かい、三好二丁
目の角が毘沙門天の龍光院です。


 その角を西進し、三好一丁目との間の通りを南下し、6番目の円珠院へ。大黒天です。
     


 仙台堀川を渡り、葛西橋通りに入って深川二丁目の冬木弁天堂が、最後の弁財天でした。


 冬木の町並みの東側を南下して首都高深川線下を横断し、富岡一丁目の三十三間堂跡の
標石横を通過します。横に、三十三間堂の姿を刻んだ標石も並んでいました。
        

 その先の細い通りを西に向かい、富岡八幡宮の近くに戻ると、北に伸びる遊歩道に赤い
橋が見えました。

 八幡橋(旧弾正橋)で、明治11年(1878)に国産第1号の鉄橋として作られ、昭
和4年(1929)に現在地に移されて八幡橋と改称したようです。

 相変わらず参拝客でごった返す富岡八幡宮参道を横切り、出発地のそばの公園に11時
29分にゴールしました。


 一般の参拝客が多く、リーダーさんはゆっくり参拝する時間をとらずに回ったので、お
賽銭をあげる時間も無い七福神がほとんどでした。

(参加者 およそ70~80人 天気 快晴、距離 認定10㎞、実質6k、地図 
 9000分の1都市図、歩行地 江東区、歩数 10,100)




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