あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

隅田川七福神巡り(東京)

2013-01-08 20:38:38 | 七福神めぐり
 2013年1月6日(日)

 新春2度目の七福神巡りとして、隅田川七福神巡りに出かけた。

 隅田川七福神は、約200年前の文化年間(1804~17)に始まったといわれ、向
島文化園に集う文人たちが園主が愛蔵していた福禄寿像に目をとめ、お正月の楽しみとし
て七福神詣でをしたいと相談して周辺の寺社を探し、見つからないところは知恵をめぐら
せてコースを編んでいったという。

 東武伊勢崎線の堀切駅を9時56分にスタートし、線路を歩道橋で越えて線路の西に平
行する道を南下する。


 600mほどで右折すると、毘沙門天の多聞寺(たもんじ)である。創建は天徳年間
(957~60)の古寺で、400年ほど前にこの地に移ったとか。本尊の毘沙門天は、
弘法大師の作と伝えられているという。


 かやぶき屋根の山門をくぐり、本堂に祭られている毘沙門天に参拝する。境内には庭木
が多く、六地蔵の座像のほか、新しい永代供養塔である常楽塔や、映画人墓碑などが目に
付いた。


 隅田五丁目の住宅地を南下して鐘ヶ淵通りに出る。墨堤(ぼくてい)通りを横断して梅
若橋の手前を左折し、隅田川左岸沿いに細長い都立東白髭(ひがししらひげ)公園に入る。
この辺はゼロメートル地帯なので、震災時などの防災拠点として造成されたもの。

 園内の一角に、梅若寺とも呼ばれる木母寺(もくぼじ)がある。境内の梅若塚は謡曲な
どで知られた旧跡。

 「たづね来て問はばこたえよ都鳥(みやこどり)すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で
死んだ梅若丸は当時12歳だったとか。


 新しいお堂の隣に塚があり、境内には謡曲「隅田川」の碑など30基の石碑が並んでいる。

 公園の中ほどに、石造のまといがシンボルタワーとして立っていた。


 すぐ先、首都高速道路を背にした隅田川神社にも立ち寄り参拝する。境内の霜は寒さで溶けずに白い。


 防災拠点の一環として、公園の東側には屏風のように13階建ての高層住宅が並び、建
物には防災シャッターや避難用ゲートが設けられているという。


 公園の東端から明治通りに出て、白髭橋東詰交差点から墨堤通りへ。すぐ先に、セイコ
ーミュージアムがあったので入館する(無料)。

 館内には時と時計の進化、和時計のコレクション、セイコー時計の製品史などの展示、
スポーツ時計の体験コーナーなどがあり、時計に興味ある人は立ち寄りの場だ。

 白髭神社上交差点の先を入り、寿老神の白髭神社に行く。天暦5(951)年、慈恵大
師が近江国の白髭大明神の分霊を祭ったのが起源とされるという。


 境内には、墨田区保護樹木のケヤキやイチョウ、シイノキなどが立ち、富士講の講社が
建立した「山玉向島講社の碑」や、多くの句碑などが並ぶ。


 御輿蔵(みこしぐら)には、嘉永元(1848)年製で重量1,150㎏の大御輿など
が並んでいた。


 神社の先を南東に300mほどで、福禄寿の向島百花園である。江戸の町人文化が花開
いた文化、文政期(1804~30)に、花の咲く草花鑑賞を中心の花園として開園され
たもの。現在は国指定名勝・史跡になっている。


 冬期で花は少ないが縦横に巡れる遊歩道が設けられていて、東側には池もあり、都心と
は思えぬ静かなたたずまい。売店では甘酒や七草かゆなどが味わえる。



 福禄寿は、売店の先の小さいお堂に祭られていた。売店近くの東屋には、毎年皇室に献
上しているという春の七草を盛り込んだ「七草籠」が展示されている。


 隣接する児童公園の角から折り返すように西に向かい、左からの地蔵坂通りと合して墨
堤通りの交差点に出る。

 交差点際の小スペースにあるのが子育て地蔵尊の地蔵堂。文化年間(1804~18)
の隅田川堤防修繕工事で土中から発見されたものとか。

 天保3(1832)年には十一代将軍徳川家齊が鷹狩りに来て参拝したという。すぐ先
には、きびだんごを販売する小さい店もあった。


 墨堤通りを南進し、アサヒビール前を通過して少年野球場交差点まで行く。すぐ右手、
首都高速道路の手前に言問団子(ことといだんご)の店がある。


 交差点を渡った小公園には、隅田川七福神の案内石碑が立っていた。


 墨堤通りから伸びる見番(けんばん)通りに入ってすぐ右手が、弁財天の長命寺(ちょ
うめいじ)である。

 比叡山延暦寺の末寺で、三代将軍家光が鷹狩りの途中で腹痛になり休憩し、境内の井戸
水を飲むと快癒した。喜んだ家光は井戸に「長命水」の名を与え、寺にも長命寺の称号を
授けたとのこと。


 弁財天は琵琶湖の弁財天の分身で、通称「老女弁天」と呼ばれているという。本堂はコ
ンクリートづくり。境内には芭蕉雪見の句碑など石碑が多い。

 境内にはテント張りの店も出て、七草がゆや金太郎飴、縁起物などを販売していた。


 境内から西側の門を出ると、首都高速のそばに「長命寺桜もち」を販売する山本やの店
舗があり、参拝者などで賑わっていた。


 南に隣接しているのが布袋尊の弘福寺(こうふくじ)。

 見番通りが表門だが、西側の首都高速道路側にも門がある。関東には少なく中国色の強
い黄檗宗(おうばくしゆう)の寺で、中国風二層の本堂はこの七福神の寺社中で最大、東
側の山門も唐風の独特のものである。


 山門を入り右手の小さいお堂には、咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)といわれる男女
2体の石像が祭られていて、口中に病あるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快
したらいり豆と番茶をそえてお礼供養する風習が残っているという。

 境内のテントでは、せき止飴を販売していた。

 見番通りを先に進む。小さい通りの角に京小間物の店があり、京都のみやびな人形など
が並んでいた。


 次の信号の手前を右手に折れ、最後の恵比寿神と大国神を祭る三囲(みめぐり)神社に
入った。

 文和年間(1352~6)に近江の三井寺の僧が改築の際に老翁の像を見つけ、その像
の回りを白狐が3回回って消え去ったことから神社の名が生まれたとか。

 三井家が江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、境内には三越呉服店の創始者、
日比翁助(ひびおうすけ)の歌碑や、2009年に三越池袋店から移設された青銅製のラ
イオン像がある。


 恵比寿神と大国神は、本堂左手の社殿に祭られていた。


 本殿前左手の狐像は目尻が下がった温和な表情で、「三囲のコンコンさん」と呼ばれて
いる。境内には芭蕉門下の第一の高弟、宝井其角(たからいきかく)の句碑や、伊賀上野
城主藤堂高睦奉納の記念銘石、老翁老嫗の石像、包丁塚、三角石鳥居など興味深いものが
多い。

 七福神巡りを終え、浅草駅に向かう。見番通りの少し先にある、すみだ郷土文化資料館
で新春イベントとして隅田囃子の演奏をしているというので入館する。



 入口近くで演奏を少し聴いた後、常設展示の「すみだのあゆみ」や、特別展示の「隅田
川の情景ー橋と渡し」、東京空襲の悲惨な様子を描いた区民の絵などを鑑賞する。

 言問橋東交差点からは、東京スカイツリーが間近に望まれる。


 すぐ先の牛島神社にも入って参拝し、南に接する隅田公園に入る。牛島神社の鳥居の向
こうにも、東京スカイツリーがよく見える。


 中心の池にはカモメなど水鳥が多く、周囲の松にはは金沢の兼六園のような雪吊りが施
されている。

 公園は水戸徳川邸旧跡で江戸時代は花見の名所として知られ、明治遷都後の明治8(18
75)年には明治天皇が花宴を開催したとのことで、天皇御製の碑もある。

 東武伊勢崎線の高架下を抜けて北十間川(きたじゆつけんがわ)を渡る。


 墨田区役所に沿って首都高速道路下に回り、隅田川沿いに出る。



 新しい勝海舟像の立つ市役所西側の広場を抜けて吾妻橋↓を渡り、東武伊勢崎線や東京
メトロ銀座線の浅草駅際に14時41分に着いた。




(天気 晴、距離 6.5㎞、地図(1万分の1) 青戸、上野、日本橋、歩行地 足立
 区、墨田区、台東区、歩数 12,700)

 このあと、初詣客で賑わう浅草観音・浅草寺にも回って参拝して、東京メトロ銀座線の
浅草駅から上野駅経由で帰途につく。




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江戸東京七福神巡りで港七福神へ

2013-01-02 21:09:54 | 七福神めぐり
 2013年を向かえました。首都圏は元日、2日とも好天に恵まれましたが、皆さまの
ところはいかがだったでしょうか…。本年もどうぞよろしくお願いいたします

========================================

 2013年1月2日(水)

 今年の初歩きは、NPO東京都ウオーキング協会恒例の「第11回江戸東京七福神巡り」
に参加しました。この催しは、七福神にちなむ7つのコースがあるのですが、私は今回か
らの新しいコースという港七福神を巡る大黒天コースに参加しました。

 このコースの集合地は、都営地下鉄三田線芝公園駅下車の港区立芝公園です。公園から
は間近に東京タワーが望まれます。

 昨年は、新しい電波塔・東京スカイツリーが完成して話題になりましたが、首都圏のテ
レビ電波はまだ、この東京タワーから発射されています。

 集合前に、公園内にある芝東照宮にお参りしました。


 9時半頃、出発式が始まり、東京都ウオーキング協会の役員さんからあいさつ、コース
説明や準備体操が行われました。


 9時40分にスタートし、ますはそばにある旧台徳院霊廟(れいびょう)の惣門をくぐ
ります。

 この公園はもと増上寺の境内で、台徳院とは徳川2代将軍徳川秀忠公とのこと。その霊
廟が増上寺にあったのです。

 石段を上がって公園の上部に出ます。当時の惣門はこの階段を上がったところにあっと
か。周辺には広い開放されたエリアがありましたが、もとプリンスホテルがあった場所の
ようです。




 公園の西に下ると、樹木に囲まれた池があり、そのすぐ先が弁財天の宝珠院(ほうじゅ
いん)です。


 境内には、三すくみの由来があるとかの石造のカエルがあります。


 拝殿の右手には、寄せ木造り高さ2mの閻魔(えんま)大王が祭られていました。

 七福神の2つ目は、東京タワーの近く麻布台2丁目にある熊野神社、恵比寿神です。

 近くの飯倉に住んでいた島崎藤村がこの付近を散歩し、好きな場所のひとつだったとか。

 神社の提灯には八咫烏(やたがらす)が描かれていました。


 麻布台の通りを西に向かい、クラシックな造りの麻布郵便局前を通過しました。


 六本木1丁目と3丁目の間の首都高沿いに北上し、左からの首都高と合した谷町ジャン
クションの近く、六本木2丁目の久国(ひさくに)神社が3番目の布袋尊の社。


 境内に変わった石像が立っていました。


 裏通りを回って桧町公園に入り、トイレ休憩を。


 公園の南側には池があり、池に向かって回様式の流れが園内を巡っていました。


 4つめは六本木7丁目の天祖神社。福禄寿です。


 少し西に進むと国立新美術館があり、その前を左折して南に向かいます。

 建物の設計は黒川紀章とのこと。

 六本木ヒルズの西を通過して、西麻布3丁目にある5番目は寿老神の櫻田神社へ。


 寿老神は、本殿右手の小さな福寿稲荷神社に祭られています。


 途中で、東京都ウオーキング協会の新しい協会旗が披露されました。


 
 港区には各国の大使館がありますが、中国大使館の塀の壁面には、中国主要都市の写真
が掲示されています。


 有栖川宮記念公園の東側を通過して、元麻布1丁目にある6番目は毘沙門天の氷川神社。

 太田道灌が現在地より300mほど北に勧請し、万治年間(1658~61)に現在地に
移転したとか。

 境内には港区の保存樹木が多く、イチョウも何本がありました。


 今日のコースは坂があちこちにありましたが、元麻布2丁目のこの辺りも坂を下りました。


 最後は大黒天の大法寺、元麻布1丁目です。

 開山は慶長2年(1597)で、甲子(きのえね)の祭日には縁日が開かれていたとか。

 境内では、参拝者に甘酒が振る舞われていたので、私も1杯ごちそうになりました。


 寺の左隣には竹製品の店があり、正月らしい飾り物がたくさん並んでいました。


 これで七福神は全部回りましたが、ここではもう一つ、十番稲荷神社へ。


 七福神としては珍しい宝船の巡拝所になっていて、階段の手前には石造の宝船が。


 また、このあたりの火災の時に屋敷を守ったという、麻布七不思議のひとつのカエルの
石造もありました。


 これで港七福神は無事満願、ちょうど12時でした。神社のそばに都営地下鉄麻布十番
駅があり、ここから大江戸線の新宿駅経由で帰宅しました。

 (天気 快晴、距離 10㎞、歩行地 東京都港区、歩数 11,500)



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横浜 磯子七福神巡り(神奈川)

2012-01-21 18:27:49 | 七福神めぐり
 2012年1月19日(木)
 
 昨年12月上旬から続いていた、からから天気が明日から崩れるとの予報なので、今春
2度目の七福神巡りとして、横浜磯子七福神を回ることにした。

 横浜磯子七福神は大正7年(1918)に始まったといわれ、太平洋戦争の混乱で一時
途絶えていたが、昭和53年(1978)に磯子区制50周年記念事業の一環として、巡
拝コースが整備されたという。

 10時過ぎ、京浜急行の弘明寺(ぐみようじ)駅に下車する。七福神巡りの前に、駅の
すぐ東側にある、坂東三十三観音霊場第14番札所で「弘明寺観音」とも呼ばれている
弘明寺に参拝する。

 養老5年(721)、インドの禅無畏(ぜんむい)三蔵法師が仏教伝通のために日本に
渡来したときに開創され、天平9年(737)に諸国に悪病流行の際、行基菩薩が観音様
を彫刻し、安置したという。


 堂々たる本堂や太い柱とどっしりした屋根の鐘楼など、坂東札所にふさわしいたたずま
い。境内には、禅無畏三蔵法師ゆかりの七ツ石があり、霊石として多くの信仰を集めてい
るようだ。



 東側の石段を下り、これもどっしりした山門を出て、アーケードの続く観音通りの商店
街に入る。

 飲食店や喫茶、衣料店、靴店など並ぶ活気ある通りを進み、大岡川のさくら橋を渡り、
下を市営地下鉄1号線が走る県道21号へ。

 正面は横浜国大付属中の正門、門前にりっぱな「鎌倉街道」の石碑が立ち、下は地下鉄
弘明寺駅。横浜南警察署のすぐ先、旧道入口交差点から、その旧道に入る。

 善然寺前を過ぎ、大岡二丁目のポストのある角から左折する。上り坂の手前の十字路を
右折、大岡住宅前バス停の先で左折して、東側の大岡三丁目の台地に上がる。

 坂上バス停をピークに下りとなる。大黒天通りに平行する旧道に下って右折、南に少し
で最初の寺、大黒天の金剛院に入る。


 今春の七福神開帳は15日(日)で終わり、納経所は閉ざされている。本堂はコンクリー
ト製。左手の護摩堂のそばに、陶器製の大黒天とタヌキが並ぶ。


 その横のコンクリート製のひな壇にも、小さい七福神が並んでいた。


 地層の露出地点もある旧道を南側の笹堀交差点まで進み、大黒天通りに入る。左側、ポ
ストのある三差路を左折して岡村七丁目の住宅地へ。七曲がり坂を短縮する急階段を台地
に上がった(下の写真は階段上から振り返る)。


 すぐ先の笹堀第五公園横がピークで、その先は下り坂となる。左にカーブし、磯子六丁
目から古い住宅も残る七丁目へ。宮戸屋酒店や斜面にスイセンの咲く旧宅の前を進み、畳
店のところで磯子旧道の手前を走る細道に右折する。

 すぐ先に、「磯子観音」とも呼ばれる弁財天の金蔵院(こんぞういん)があった。


 開創は嘉暦3年(1328)、鎌倉幕府の3代執権北条泰時が、京の明恵上人から薬師
如来をいただき、本尊として祭ったという。

 南側背後に広葉樹林が広がり、本堂の左上に、上州、妙義神社の護摩堂を移築した、朱
塗り色鮮やかな観音堂が目につく。


 観音堂には、色あせてはいるが天井絵が描かれていた。


 磯子旧道に出て北東へ、国道16号に合してすぐ先、浜バス停の横から北西に入る。磯
子小の校門前が、毘沙門天の真照寺(しんしようじ)である。

 寿永元年(1182)、源頼朝の御家人で「吾妻鏡」に名のある平子平右馬丞有長が再
興した寺。有長は、頼朝が富士の巻狩りの折、曽我十郎と刃を合わせた人という。


 白亜コンクリート造りの本堂、正面から見ると人の顔にも見えるのは私だけだろうか…。
毘沙門天は、本堂右手の庫裡(くり)の前に、弘法大師像と並んで立っている。


 境内には、干支の守り本尊の新しい石造の仏像や、当山ご住職と14世ダライラマ法皇
との写真を刻んだ石碑などがあった。


 磯子小の北側を東進し、2つ目の交差点を左折して中浜町交差点を横断、滝頭二丁目に
ある布袋尊の密蔵院に入る。


 慶長時代(1596~1615)の開山といわれ、布袋尊はコンクリート造り方形屋根
の本堂の、わずかに開いた最前部に安置されていた。境内には、枝をいっぱい伸ばしたイ
チョウが立つ。


 密蔵院前の通りを北へ、300m足らずで横浜市電保存館があったので入館する。昭和
47年(1972)3月末で廃止された横浜市電の、滝頭(たきがしら)車庫のあったと
ころ。65歳以上は無料である。


 館内には、横浜市電の歴史パネルや、記念乗車券、市電の運転台、パンタグラフなどと
ともに、保存されている市電6台や、貨物車も展示されている。



 最奥部にある、木製の円テーブルと椅子の並ぶコーナーを借りて、そばで上映している
廃止直前の市電の映像を見ながら昼食をした。

 すぐ北側の丸山二丁目交差点を左折、堀割川に沿った国道16号に出て、北側最初の橋、
根岸橋を渡る。流れには、レジャーボートが何台も係留されている。


 台地下の住宅地の中を進み、少し高見にある恵比寿尊の宝積寺へ。

 道路際に、大きな石に刻まれた真民の詩碑があり、山門前には、双体道祖神や関東大震
災の追悼碑、お地蔵さんなどが並ぶ。「あかし尋常小学校」の古い看板の掛かる山門を入る。


 正面にどっしりした本堂が立ち、その前にパンジーなどの花が咲く。シダレザクラや枝
振りのよい松、石灯籠、仏足石など、境内は趣きよいたたずまい。


 本堂左手には、赤いマントをまとったたくさんの水子地蔵が並んでいる。恵比寿神は、
本堂階段上に釣り竿を持って立っていた。


 ミツマタのつぼみがふくらみ、ロウバイやスイセンの咲く境内を出て、堀割川沿いに下
って磯子区と南区との区境の天神橋を渡る。


 国道の「南区」の標識横を西に入る。本立寺横を過ぎて、台地下を回って西側の石段を
上がると、豊富な広葉樹林を背にした寿老神の宝生寺境内に入る。


 もと灌頂堂だったという本堂は、延宝8年(1680)の造営で市有形文化財に指定さ
れている。

 背後の弘誓院に続く「宝生寺・弘誓院の寺林」は、タブノキ、スダジイ、シラカシなど
の常緑樹に覆われていて、商店街や住宅密集地に残る貴重な自然として、市の天然記念物
になっている。


 鐘楼前にはソテツの古木があり、近くには大きな「関東大震災韓国人慰霊碑」が立って
いた。

 肝心の寿老神はどこにあるのか…、本堂は閉ざされ、これまで回った何か所かで相次い
で出入りしていた、中年の姉妹らしいお二人にも分からなかったようだ。


 鐘楼の裏手、墓地の横に敷石があり、崩れていて危険の立て札があるが、広葉樹林に入
るとすぐにピークとなり、北に下って弘誓院の墓地を通過して本堂横に出る。


 コンクリート造り宝形屋根の弘誓院の、わずかに開いた本堂の最前部に、黒ずんだ福禄
寿が立っていた。本堂前庭は、広い砂利敷きになっている。


 今日回った七か寺とも、高野山真言宗の寺。この寺にも、弘法大師の修行大師像が立っ
ていた。

 午前中は薄日も出て幾分暖かさも感じられたが、午後はすっかり雲が広がり冷たくなっ
てきた。

 寺の北側に回って堀ノ内町の住宅地を西に進み、市営地下鉄の蒔田(まいた)駅に15
時3分に着いた。

 ちなみに、磯子七福神巡りの色紙と宝船は500円、朱印は各寺に用意してあり、参拝
者が各自で押印するようになっているようだ。

(コースタイム)京急弘明寺駅-2分-弘明寺-35分-金剛院-35分-金蔵院-13分
 -真照寺-10分-密蔵院-5分-市電保存館-15分-宝積寺-14分-宝生寺-5分
 -弘誓院-18分-蒔田駅 

(天気 晴後曇、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 横浜西部、戸塚、本牧、横浜東部、
 歩行地 横浜市南区、磯子区、歩数 18,300)
 


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とりで利根川七福神めぐり(茨城)(続き)

2011-02-03 22:01:44 | 七福神めぐり
 2011年1月30日(日)続き

 東谷寺本堂前の急な石段を下り、竹林の間を進んで、利根川左岸の舗装路に出た。


 枯れススキに沿って斜面林の下を右に回り込むと、高い堤防が現れた。先ほど北
側を通った、国交省相野谷川排水機場の手前で堤防に上がる。


 相野谷川が利根川へ流入する地点を通過し、上流である西に向かって堤防を進む。
向かい風が強く、雲も増えて寒くなってきた。


 浄水場横を過ぎると、北に筑波山が、午前中よりはっきりと望まれる。



 堤防上に展望台があったので上がり、利根の流れや筑波山などを一望する。


 その先の河川敷は、取手緑地運動公園になっていて、少年野球やサッカーなどの
グランドがある。対岸の遠くのビルの上に、霞んではいるが↓富士山も望まれた。


 海から83㎞地点の少し先で堤防を離れ、東三丁目の住宅地付近から県道11号の
本陣通りに入った。

 右手に墓地が見えたので、石段を上がると、突き当たりに念仏院の本堂があり、
その前に大イチョウが枝を広げている。


 福禄寿は、本堂前のツバキの生け垣の中に、赤ずきんと赤い前垂れをかけて立って
いた。


 県道には、街道筋らしい古い蔵造りなどの建物が、幾つか見られる。


 取手総鎮守の八坂神社には、節分祭ののぼりが立ち、鳥居の両側の狛犬は、溶岩
のような黒い固まりの上に乗っていた。


 取手一丁目まで進み、旧取手宿本陣・染野家住宅前へ。公開しているとの表示が
あったので、門を入ってかやぶき屋根の建物に上がって、内部を拝観した。


 染野家は、代々取手宿の名主で、貞享4年(1687)に水戸徳川家から本陣を命じ
られたという。建物の西側斜面を上がると、九代水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)の読
んだ、歌碑があった。


 漬け物の新六本店の先を右折して、突き当たりの石段を上がり、最後の長禅寺に入
る。承平元年(931)、平将門が創建したと伝えられ、三代将軍家光以来、代々の徳
川将軍から朱印地を賜っているという。

 新四国相馬霊場八十八か所の総本地で、一番、五番、八十八番の札所にもなって
いる。

 山門を入った突き当たりの三世堂は、宝暦13年(1763)の建立。外観は二層だが
内部は三層で、守り本尊の十一面観音と、坂東三十三か所、秩父三十四か所、西国
三十三か所の本尊が祭られていて、参拝者は入口から順路を進めば、交差すること
なく一巡できる「さざえ堂」形式になっているという。



 七福神最後の大黒天は、本堂前に祭られていたが、本堂内にもあるようだ。広い境
内には大樹が多く、ほかに大師堂、八十八か所総拝堂、鐘楼などの建物がある。


 午後は雲が増えて風が冷たく、体も手も冷え切った。寺の西側下を回り、取手駅に
は15時32分に戻った。

 (天気 快晴後晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 取手、歩行地 取手市、歩数
 23,700)

 【コースタイム】JR取手駅10:15ー光明寺10:43~50ー普門院11:03~13ー相野谷川
  機場公園11:49~58ー明星院(昼食)12:15~45ー福永寺12:53~13:01ー東谷寺
  13:12~23ー展望台13:55~14:00ー念仏院14:25~35ー八坂神社14:39~43ー旧
  取手宿本陣14:46~15:05ー長禅寺15:10~27ーJR取手駅15:32


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とりで利根川七福神めぐり(茨城)

2011-02-02 22:33:21 | 七福神めぐり
 2011年1月30日(日)

 寒かった1月、最後の日曜日に、「とりで利根川七福神」めぐりに出かけた。


 JR常磐線取手駅東口を10時15分に出て、線路に沿って北へ。取手一高や取手
井野郵便局前を通過し、次の通りで踏切を渡り、線路の北側に回った。


 線路沿いに進み、キリンビール取手工場の東へ回り、まずは寿老人の光明寺へ。
石造りの寿老人は、本堂前に立ち、その前に、陶器製のミニ七福神がたくさん並ん
でいた。


 境内には、松が4本のほかにナンテンが多く、「南天の寺」と呼ばれている。また、
「一本刀土俵入り」の作者、長谷川伸がこの地を愛したとのことで、土俵入り姿の新
しい石像と、長谷川伸作の歌碑もあった。


 南に向かい、線路を渡って屋敷集落に入る。昌松寺のそばを回って行くと、田んぼ
を背にした布袋尊の普門院がある。


 石造りの布袋尊は、本堂前に軍配を持って立ち、その前にもミニ七福神や宝船が
並ぶ。


 境内には筆塚もあり、ロウバイが花を見せる。幕末に近くの牛久藩に生まれ、カッパ
の絵で知られる、小川芋銭(うせん)ゆかりの寺のようだが、その説明は何もなかった。

 集落東側の広い車道に出た。すぐ先で左折し、田んぼの中を貫く真っ直ぐの車道を
南東に向かう。車道には桜並木が続き、北に目を向けると、少し霞んではいるが、筑
波山が望まれる。



 相野谷(あいのや)川沿いに出て、カモの泳ぐ流れを見下ろしながら南進し、県道
11号の下をくぐる。国交省相野谷川排水機場の近くで橋を渡って戻ると、県道横に
小公園がある。


 相野谷川機場公園で、この場所が旧相野谷機場跡。公園の中央に、農業用水の
汲み上げに用いたポンプらしいのが展示され、機場の概要の説明板もあった。


 県道に出て、広い歩道を東へ、すぐ先のカーブ点北側に、上の面足(おもたる)神社
周辺を回る「市民いこいの森遊歩道」の看板があり、その台地に上がると、茨城百景
「大利根の展望」が得られるようだが、寄るのは省略した。

 信号のある交差点際にセブンイレブンがあり、その先に並ぶ大師霊園と呼ぶ墓地の
間を回って、少し高台にある、大きな本堂の明星院に上がった。


 明星院は、関東八十八か所四十三番と相馬八十八か所十九番札所で、厄除大師と
しても知られているようだ。


 恵比寿神は、本堂前の梅の古木の下の大岩に、色鮮やかな朱の衣をまとい、笑顔
で座っている。下の台座には、やはり陶器製のミニ七福神が並んでいた。

 本堂手前の大師堂前そばに、シダレザクラがあり、近くの白梅やロウバイが花を開
き始めていた。道路を隔てた東側、薬師堂横の集会所風の前にシートを広げて、昼食
の場とさせてもらう。

 県道に戻り、次の信号のある交差点を北に入り、中妻集落の中心にある、毘沙門天
の福永寺へ。本堂には色鮮やかな五色の幕が張られ、本堂前のモクレンのつぼみが
かなりふくらんでいる。


 本尊の毘沙門天は本堂内に、七福神の毘沙門天は、本堂の右に並ぶ寺務所奥の
お堂に祭られているようだが、朱印をもらえる時期を過ぎているので、拝観は省略した。

 県道の交差点に戻り、南東への斜めの小道に入り、カーブの多い道を進むと、弁財
天の東谷寺本堂裏手に出る。朱印所は本堂北側にあり、道を挟んだ北側が墓地。

 本堂の東側を回って境内へ。弁財天は本堂内に鎮座しているようだが、ここも拝観
は省く。


 新四国八十八か所六十六番札所で、相馬八十八か所の札所でもあり、本堂東側に
大日堂や如意輪観音堂がある。


                                (続く)

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くりはし八福神めぐり(埼玉)

2010-01-21 16:23:14 | 七福神めぐり
 2010年1月19日(火)



 日光街道の要衝として関所があった埼玉県東北部の町・栗橋は、源義経を慕
った静御前ゆかりの地でもある。旧日光街道や田園風景、利根川沿いなどに広
がる「くりはし八福神」巡りに出かけた。

 JR宇都宮線と東武日光線が交差する、栗橋駅西口を9時53分にスタートした。
今日は、好天で温かくなるとの予報である。

 改装された新しい駅とともに、駅西口周辺の道路も区画整理され、広い通りが
西に延びている。2つ目の角を左折して、まずは弁財天の迎盛院(こうじよういん)
へ。


 弁財天は小さい屋根の下に祭られ、周囲を真っ赤なコイが泳いでいた。そばに
ヘビを形どった珍しい神様の石像もある。


 南側の千勝神社境内を抜け、すぐ先のスーパー・マミーマートで昼食を購入する。

 広い通りを南へ、4月から栗橋北彩高と変わる県立栗橋高そばの交差点を過ぎ
ると、松永の古くからの集落に入る。

 松永神社の角を曲がり、東側の旧道に出て国道125号際へ。稲荷木落の流れ
に沿って、「カインズモール大利根」と呼ぶ、新しい大型集合店舗が出来ていた。

 交通量の多い国道と並行する道を500mほど進み、佐間の集落で右に分かれ
る旧道に入る。再び国道が近づいたところに、吉祥天の宝聚寺(ほうじゆじ)が
あった。

 山門の2階が鐘楼になっている鐘楼門は、慶安2年(1649)に北方の十王の地
から移築したものとか。


 吉祥天は鐘楼門の傍らに立つている。墓地の一角には、江戸中期の西暦1700
年代の馬頭観音像が集められていた。

 寺の前が高柳交差点、国道をまたぐ歩道橋で南に回る。田園地帯を進んで栗橋
西小の横を通過し、布袋尊の定福院(じようふくいん)に入った。

 山門前や広い境内のあちこちに、五百羅漢像が並んでいる。専門の石工による
ものではなく、近所の檀家を始め、マスコミで紹介されて興味を持った人など、し
ろうとの方々が彫ったものらしい。

 それぞれの思いが込められたユニークな石像が多く、現在は500体を超えて
いるという。

 駐車場近くには四国霊場八十八か所の本尊を彫った石仏も並び、お砂踏み場
になっていた。


 にこやかに笑う布袋尊は、本堂の前に鎮座している。ちなみに、「くりはし八福
神」は、平成12年に制定された「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」
に認定され、その認定石碑が各寺にあった。

 佐間集落の東で、県道316号の呉服跨線橋に並行する跨線橋でJR宇都宮線
の線路を越える。

 田園地帯を抜ける広い道を北東に進む。国道125号が再接近したところにある
栗橋町役場に入り、構内の一隅で昼食にした。

 ここ栗橋町は、久喜市、菖蒲町、鷲宮町と合併して、3月23日に新しい久喜市
となる。庁舎には、そのことを記した横断幕が掲げられていた。

 役場の先で東武日光線の踏切を渡り、国道のガード下を抜ける。五郎兵衛用水
沿いに進んで栗橋小の南側を右折する。

 旧日光街道に出てすぐ先を右折、国道下をトンネルで抜けて、利根川の堤防際
にある大黒天の常薫寺(じようくんじ)に行く。

 開山は約700年前、当地に小庵を建立して基礎を築いたとか。江戸時代には、
住人の池田鴨之助が徳川幕府の命を受け、ここを拠点に栗橋町の開発を行った
という。

 大黒天は、石造りの堅牢な建物に納まっていた。

 そばの利根川右岸堤防上に東屋(あずまや)が見えたので上がり、ゆったりした
利根の流れや、下流のJR宇都宮線の鉄橋↓、上流にかかる国道の利根川橋など
を眺める。

 東屋の横には、水神社が祭られていた。

 旧日光街道に戻り、すぐ北にある毘沙門天の顕正寺(けんしようじ)へ。


 毘沙門天は国道の壁面下に、新しい馬頭観世音と並んで立っていた。


 墓地には、後の栗橋宿となる上河辺新田を開発し、顕正寺を現在の古河市から
移したという池田鴨之助の墓がある。

 旧日光街道を挟んで西側にあるのが、寿老人の浄信寺(じようしんじ)。ケヤキや
桜など境内は樹木が豊富である。


 扇を持った寿老人は、山門を入って右手に立つ。


 墓地には、2代将軍徳川秀忠が日光東照宮参拝の折、暴風雨で利根川を渡る
橋が危なくなったとき、命をかけて橋の安全を守ったという梅沢太郎右衛門の墓
がある。

 旧日光街道を次の交差点で左折、その突き当たりが、恵比寿神の深広寺。山
門を入って右手に、大きなタイを背にした恵比寿神が立つている。


 境内には、高さ約3m60㎝の六角の石塔に「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれ
た、「六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)」と呼ぶ石塔が21基並んでいる。

 建立は承応3年~明和3年(1654~66)といい、ほかでは見たことのない
石塔だった。

 さらに旧日光街道を北に進み、栗橋駅入口交差点を左折する。次の通の角が、
最後となる福禄寿の福寿院(ふくじゆいん)。

 福禄寿は、境内とは思えぬ門前の道路際の一隅にある。

 寺の北側、緩やかにカーブする通りを西へ向かい、線路際を左折すると小さい
広場があり、「静御前の墓」が屋根の下に祭られていた。

 義経を慕って京都から平泉に向かった静御前は、下総の国で義経討死の報を
耳にして悲しみに暮れ、京都へ戻ろうとしたが病気になり、文治5年(1189)9
月15日、この地で死去したと伝えられているという。

 ゴールの栗橋駅東口はすぐそば。15時7分に着いた。

 予報通り温かい日差しとなり、昼食後は上着を脱いで回ることができた。

 なお、幹書房発行の「埼玉七福神めぐり」には、ご朱印の取扱期間は1月3日
~20日となっていたが、今年は15日で終わったとのことだった。


 (天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 栗橋、歩行地 栗橋町、歩数
 21,300)
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くりはし八福神・定福院の五百羅漢など(埼玉)

2010-01-19 22:20:24 | 七福神めぐり
 3月中旬並みの暖かさになった今日、1月19日(火)は、埼玉県東部の町、
栗橋にある「くりはし八福神」巡りに出かけました。



 八福神めぐりのレポートは明日以降アップしますが、3番目に訪れた定福院
(じょうふくいん)の、五百羅漢像などをご覧いただくことにしましょう。

 定福院は、栗橋町佐間にある真言宗豊山派の寺院です。山門の前や境内の
いたるところに、五百羅漢像が並んでいました。




 この寺の羅漢さんは、石工が彫ったのではなく、近所に住む檀家の方により始
まったようです。



 素人が石で仏像を彫るということは、国内でも珍しく、マスコミに数多く紹介
され、そのたびに参加希望者が100名、200名と増え、彫る人も自信を持っ
てのみをふるうようになったとのこと。



 そんな中で、特に熱心な小宮さんという方を中心に「五百体を達成し、名実
とも五百羅漢にしたい」という目標が生まれ、平成11年(1999)5月には、
500体目の羅漢が完成したようです。



 それ以後も着々と増加して今日に至っているとのこと。





 また、羅漢を彫った方々から、四国霊場八十八か所の本尊を制作してはという
意見が出て、第15回羅漢祭りの日に開眼となったそうです↓。



 
 なお、ここ定福院の羅漢さんについては、1月14日付け朝日新聞東京本社版
夕刊の「仏像日和7」で、「思いで彫れば羅漢さん」と題して報じられています。



コメント (2)
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江戸東京七福神めぐり「浅草名所七福神」コースへ

2010-01-02 22:15:38 | 七福神めぐり
 2009年1月2日(金)



 元旦に続いて今日も、恒例のNPO東京都ウオーキング協会主催「第8
回江戸東京七福神めぐり」に出かけました。

 全部で7コースあるのですが、今回は、「浅草名所(などころ)七福神・
布袋尊コース」です。

 集合地は、東武鉄道や東京メトロ銀座線の浅草駅から5分ほど、隅田
川のほとりの隅田公園です。

 隅田川遊覧船が出発しました。その向こうに見える工事中の塔は、首
都圏の地デジ電波の発射元となる東京スカイツリー、高さ634mの塔が
2年後の早春に完成の予定で、現在はの高さは250mくらいのようです。
V

 このコースの参加者は100人足らずかと見られました。9時55分に出発
しました。

 まずは東側から浅草寺に入り、工事中でシートに覆われた浅草寺大本堂
の裏手にある、恵比寿神の浅草神社へ。


 次は、浅草寺本堂の西側にある影向堂(ようごうどう)、大黒天が祭られて
います。


 浅草寺を北に抜けて浅草6丁目を経て、隅田川右岸に近い待乳山(まっち
やま)聖天に行きました。大イチョウの並ぶ広い境内、毘沙門天の寺です。


 北側、すぐ近くにあるのが福禄寿の今戸神社。康平6年(1063)、源頼義・
義家父子が京都石清水八幡宮を勧請(かんじょう)したものとか。


 茅の輪(ちのわ)の右手には、たくさんの絵馬が奉納されていました。


 さらに隅田川右岸近くを北に進むと、白髭橋の近くに橋場不動尊で知られる
橋場寺不動院があり、布袋尊が祭られています。

 開創は奈良時代末期の天平宝字4年(760)という古寺で、現在の本堂は
弘化2年(1845)の建立とのことです。

 橋場不動尊は、関東三十六不動霊場第23番札所でもあります。

 白髭通りの白髭橋西詰を横断、すぐ北には寿老人の石浜神社が鎮座して
います。聖武天皇の神亀2年(724)創建という古社です。ここにも茅の輪が
用意されていました。


 社殿の右手前には、富士講の人たちが積み上げたのでしょうか。黒石だけ
の独特の富士山が…。


 白髭通りを西に少し進み、南側の狭い通りを入って国指定史跡・平賀源内
の墓に参拝しました。

 エレキテル(摩擦式発電機)の発明で知られていますが、本草学、医学、
儒学などを学び、物産会の主催、鉱山開発などマルチに活躍した人物です。

 石浜公園でトイレ休憩後、東浅草1丁目の東善寺へ。本堂前に、江戸六
地蔵のひとつ、高さ2.71m、宝永7年(1710)造立という銅造の大きな
お地蔵さんが鎮座していました。東京都有形文化財です。


 「見返り柳」のある吉原大門から吉原仲之町通りを進んで吉原神社へ。
たくさんののぼりでお分かりのとおり、弁財天です。


 すぐ近くには、酉の市発祥の神社で知られる鷲(おおとり)神社、

 茅の輪もりっぱで、飾り付けもなかなかきらびやかでした。


 千束2丁目からかっぱ橋道具街へと南進し、最後、9番目は福禄寿の矢先
稲荷神社でした。


 参拝の後、熱い甘酒の振る舞いをいただきました。


 ゴールは、近くの松葉公園。12時35分に着きました。南側の浅草通り
に出てJR上野駅まで歩き、山手線で帰途につきました。 
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与野七福神めぐり

2009-01-27 18:49:59 | 七福神めぐり
 2009年1月25日(日)



 JR京浜東北線の北浦和駅西口を11時25分に出発、活気ある商
店街、ハッピーロードに入る。大規模スーパー・サティで弁当を求め、
大戸小の横を北に進んだ。

 里見通りの北に入ると、桜やサザンカなどの木々に囲まれた二度
栗山と呼ぶ台地に、弁財天の弘法尊院(こうぼうそんいん)がある。

 弘法大師が関東行脚(あんぎや)の途中で立ち寄り、栗の実を年2
度実らせ、霊水もわき出させて災難を除去したといわれるところ。

 川崎大師、西新井大師と並ぶ関東三大師霊場のひとつとのことだ
が、お堂は改築中で、プレハブの小さな仮堂に本尊が祭られていた。


 境内の中心に、四国八十八か所の仏像が円形に積み重ねられて
いて、その周囲を4周すると四国霊場を巡拝したのと同じ功徳が得
られるのだという。

 琵琶を弾く石造毘沙門天像は、その横に屋根無しで鎮座していた。


 里見通りに戻って西へ、若いケヤキ並木の通りを与野中央公園の
テニスコートそばまで進む。鴻沼川の中里橋を渡り、JR埼京線や
東北・上越新幹線の高架下を抜けたすぐ先が、毘沙門天の鈴谷大
堂(すずやだいどう)である。

 石段を上がると左で、寛文7年(1667)造立という六地蔵が迎え
てくれる。


 正面の方形屋根の本堂は、嘉永2年(1849)の再建。小さな木造
毘沙門天像は、堂内に祭られていた。


 与野西中グランド横から、「彩の国さいたま芸術劇場」の北に回る。
ステーキ「どん」の角の小さい交差点を北に入り、布袋尊の円福寺
(えんぷくじ)へ。山門前の右手に、石造の布袋様が立っている。


 室町時代以来という古寺。正面の大きな本堂内にも鋳造の布袋
尊が立ち、釈迦堂には、市内でも古いもののひとつという鎌倉時代
後期の木造釈迦如来座像が祭られていた。

 境内にはほかに、鐘楼や石造の十三重塔などがある。

 東に少しで本町西1丁目の住宅地に入り、北に進んだ突き当たり
が、今は枯れ枝が広がるが木立の豊富な与野公園である。


 公園内にあるのが、寿老神の天祖神社(てんそじんじや)。白木造り
の簡素な社殿の隅に、寿老神の小さな社が置かれていた。


 神社の左手の池には銭洗(ぜにあらい)弁天があり、池の中央の噴
水の周囲で、カルガモがたくさん泳いでいた。

 園内の日だまりのベンチで昼食を済ませ、東の本町通りへ向かう。
途中、「彩の国七福神せんべい」の看板の立つ喜多山という店があ
ったが、この日は閉店していた。

 本町通り面して、新しい仁王門のあるのが大黒天の円乗院(えん
じよういん)。鎌倉時代の武将、畠山重忠が創建したという名刹(めい
さつ)だという。

 広くて樹木も豊富な境内には、大きな本堂を中心に、客殿、大日堂、
多宝塔、納骨堂など、幾つもの建物が並ぶ。特に目につく多宝塔は、
高さ30mあり、日本三大多宝塔のひとつらしい。


 本堂前には、「千代桜」と呼ぶ樹齢約3百年のエドヒガンザクラが
大きく枝を広げ、その下に、石造の大黒様がにこやかに座っていた。


 本町通を北に向かう。通りには、中山道脇往還をしのばせる蔵造り
などの建物が、何棟か残っていた。


 与野高入口の先まで進んで、恵比寿神の一山(いつさん)神社境内
へ。嘉永年間(1848~53)に木曽御岳講中が創立したものとか。

 冬至の日には、境内でユズなどを供えて火をたき、行者や参加者
が火渡りをする冬至祭があるという。


 鳥居のそばに、枯れ枝がいっぱい伸びた大イチョウが立ち、社殿の
周囲は、うっそうとした常緑樹に覆われている。

 さらに本町通りを進み、八幡通を越えた先に、最後、福禄寿の氷川
神社がある。現在の社殿は宝永6年(1709)再建とのこと。


 ヒノキの高木の多い境内は、入口から奥の社殿に進むにつれ、境
内が末広がりになり、「扇の宮」とも呼ばれているという。


 八幡通に戻り、両側に幅広い歩道のある通りを東に進む。交差する
国道17号を南に少しで、JR埼京線北与野駅がある。埼京線や東北・
上越新幹線の高架下を抜け、けやき広場に上がって、JR京浜東北線
さいたま新都心駅に15時02分に着いた。

(天気 快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市)
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第7回江戸・東京七福神めぐり(東海七福神)へ

2009-01-03 19:04:01 | 七福神めぐり
 元旦の大江戸初歩きに続き、1月2日(金)は、東京都ウオーキング
協会主催の江戸・東京七福神めぐりに出かけました。

 この日は、全部で7つの七福神を巡るコースがあるのですが、私は
東海七福神に参加しました。

 

 集合は、品川駅東口に近い品川セントラルガーデン。私が10数年
前、品川駅東口が職場だったころは、東海道新幹線の電車基地だっ
たところ。現在は超高層ビルが建ち並び、ビルに囲まれた公園です。

 毎年この催しに参加しているウオーカーが2~300人集まり、出発
式をして9時45分にスタートしました。


 コースは、主に京浜急行の東側、旧東海道沿いにある寺社7つを
巡ります。

 京浜急行北品川駅の近くで第1京浜国道を越え、まず大黒天の
品川(しながわ)神社へ。社殿は、急な石段を上がった上にあります。

 文治3年(1187)、源頼朝が安房国(千葉県)の須崎明神をここ
に祭ったのが創始。室町時代には、太田道灌が素戔嗚尊(すさの
おのみこと)を祭り、徳川家康は、関ヶ原合戦に出陣の折、戦勝を
祈願したとのことです。

 階段を下った鳥居のそばにある、新しい大黒天。


 新馬場駅そばで再び京浜急行の東に戻り、布袋尊の養願寺に参
拝しました。

 養願寺は正安元年(1299)の創建と伝えられ、本尊は虚空蔵菩
薩。牛寅年生まれの守り本尊として信仰を集め、「品川の虚空蔵さ
ま」と呼ばれているとのこと。今年の干支の守り本尊ということにな
ります。 

 三つ目、寿老人の一心寺はすぐ近くでした。山門をくぐった庭は
広くはありませんが、成田山の提灯が幾つも下がり、七福神めぐり
の人で賑わっていました。

 江戸時代末期の安政2年(1855)に、品川の土地に町民一体と
なり町内発展と守護のために創建。旧東海道筋で裏鬼門を守護す
る寺です。

 東海道品川宿や東海七福神ののぼりが並ぶ旧東海道の商店街
を南下します。

 シャッター通りの多い昨今の商店街ですが、さすが東海道、この辺
の商店街は結構賑わっています。

 目黒川に沿って少し西に入り、恵比寿さんの荏原(えばら)神社に
参拝しました。

 飛鳥から奈良時代へ移る和銅2年(709)創建という古社で、龍神
を祭る品川宿の総鎮守。天正19年(1591)、徳川家康から神領を
寄進され、歴代将軍の庇護を受けたとか。東京遷都の際は、明治
天皇の内侍所となり、菊花御紋章を賜ったそうです。

 社殿には、精巧な木彫が施されています。

 
 神社の前の目黒川には、朱塗りの橋がかかっていました。
 
 さらに旧東海道を進み、緑の多い毘沙門天の品川寺(ほんせんじ)
に入ります。

 承応元年(1652)の中興で、本尊水月観世音菩薩は太田道灌
の念持仏と伝えられているとか。寺宝の大きな鐘があり、「鐘の寺」
と呼ばれているようです。

 境内には、幹回り3.5m、樹高25m、推定樹齢600年という大
イチョウが枯れ枝を広げていました。

 門前には、「江戸6地蔵のひとつ」とウオーカーの一人が言ってい
た、大きなお地蔵さまが鎮座しています。


 立会川のなみだ橋を渡ると、福禄寿の天祖諏訪神社です。

 天祖神社の創建は、建久年間の記録から1100~1190年ころと
推定され、諏訪神社は、寛永8年(1621)以前の創建と思われる
とのこと。かつては、両社とも東京湾に面し、立会川を挟んで祭られ
ていたようです。
 
 お正月でお顔を見せた福禄寿。頭をなでると御利益があるとか。


 その先の品川区民公園に入ってトイレ休憩を。園内のなかほど、
梅林に咲くロウバイ。

 公園は南北に長く、少年野球場、室内プール、キャンプ場、池
などがあり、緑も豊富な区民の憩いの場。南西端には、「海の散
歩道」と呼ぶトンネル水槽が人気の、しながわ水族館もあります。

 ここまでは品川区内でしたが、最後は大田区に入って第1京浜
沿い、弁財天の磐井(いわい)神社です。

 起源は敏達天皇の2年8月といわれ、1400年の歴史があるとか。
「日本三代実録」官社に列せられとの記録や、延喜式神名帳にも記
されている古社。江戸名所図会には、「鈴森八幡宮」の名で記録され
多くの参拝者で賑わったようです。 

 国道の歩道の所には、磐井の井戸と呼ぶ古井戸が残っています。

 神社の社名の由来となった井戸で、東海道を往来する旅人に利用
され、霊水とか薬水とかいわれていたとか。土地の人々は、この井
戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪なら塩水という伝説も伝えら
れているようです。

 これで七福神巡りも無事満願です。近くの公園で11時50分に散会
となり、私はJR大森駅から帰途につきました。

 (天気 快晴、距離(公称) 10km、歩行地 品川区、大田区)
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