あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

大宮盆栽村や大宮公園周辺をカントリーウオーク(埼玉)

2015-02-12 22:18:10 | カントリーウオーク
 2015年2月11日(祝・水)

 埼玉のカントリーウオークグループの22年目の記念日である、第220回例会に参加
した。

 最高気温は12℃の予報で、この時期としては暖かい日和に恵まれた。わがグループは
遅れて到着のTさんを待ち、10時30分にJR宇都宮線の東大宮駅東口を出た。

 == 芝川と見沼代用水を渡り盆栽村へ ==

 
 線路に平行する通りを南下し、県道5号・第二産業道路の下を抜ける。県道に平行する
道路を少しで八雲神社がある。


 路傍の盛土の上に御嶽社が祭られ、その下には初めて見る「堅窂地神」と刻まれた文化
8年(1811)造立の石碑が立つ。
        

 敷地は広いが社殿は小さく、傍らの桜の古木の下に、市の民俗文化財「砂の万灯」の説
明板がある。境内南西端には、市の天然記念物で「砂の大ケヤキ」と呼ばれる樹高30m、
樹齢600年と推定されるケヤキの大木が立っていた。
      


 東大宮一丁目の住宅地を抜けて、芝川の左岸堤防に出る。この辺りの河川敷は広く、周
辺にはたくさんの家庭菜園が広がる。



 芝川の見沼橋を渡り、りっぱな校舎の土呂(とろ)中の南へ。


 見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)の橋を渡り、土呂町二丁目の住宅地を
南下すると、次の三差路際に大きな長屋門が残っていた。

 土呂村の名主を務めた小島(おじま)家で、長屋門の右側には、弘化2年(1845)
に高野長英が「蛮社の獄」から逃走して逃亡中にかくまったという6畳間があるとか。

 長屋門の左側には、明治時代に剣道の発展に尽くして剣聖と言われた、高野佐三郎の道
場、明信館の分館が置かれていたという。

 南側の見沼公園には、わらべ歌の歌詞と所作を記したベンチが幾つか並ぶ。
  


 それに続く森には神明社と八雲神社が祭られ、神明社の背後には、大石の「土呂土地区
画整理完成記念碑」が目につく。


 神明社の由緒によれば、境内東側は江戸中期まで見沼が広がっていて、この地「土呂」
は「瀞(とろ)」と同じ意味で、静かに水をたたえる場所を示す語だという。


 それまで気付かなかったが、鳥居の横に並ぶ庚申塔など三つの石塔を見て、この神社は、
昨年9月21日に東武野田線の大宮公園駅スタートの「続カタツムリ歩行」のゴールだっ
たと思い出す。

    
 見沼代用水西縁沿いを少しで、市民の森・グリーンセンターに入る。建物の近くの大き
なマンサクがいっぱいの花を見せ、その先のロウバイにもまだ花が残っていた。


 JR土呂駅に延びる広い道路を横断し、さらに代用水沿いを進む。右手には建設中の東
大宮総合病院の大きな建物が目につき、高齢化に伴う患者の急増に対処するためかとうか
がえる。


 見沼代用水が東武野田線の線路に接したところで用水を離れ、土呂町に入る。周辺は区
画整理中で新しい道路ができはじめており、工事中の東大宮総合病院の西側にも大きな長
屋門が残っていた。


 その西側にポツンとあるのが「土呂の地蔵堂」。一説では、江戸時代の土呂村領主旗本
の初鹿野(はじかの)氏の墓守堂(はかもりどう)として建てたものともいわれているが、
「新編武藏風土記稿」には「村民の持(もち)」と記されているという。


 ちなみに、初代初鹿野氏は甲斐国武田氏の家臣だったが主家滅亡後、徳川家康に仕えて
土呂村領主となったとか。初鹿野という名は、JR中央本線甲斐大和駅の旧駅名だったこ
とを思いだし、出身地があの辺りだったのかと知れる。

 車の途切れるのを待って県道35号・産業道路を横断して、大宮盆栽村とも呼ばれる盆
栽町に入る。昼食地の「盆栽四季の家」には12時6分に着いた。朝の用事を済ませてか
ら駆けつけたKTさんも、同じ頃到着する。




 
 == 大宮公園を抜けてさいたま新都心へ ==

 昼食後、近くで公開している盆栽園・蔓青園(まんせいえん)に入り、松やケヤキ、梅
など見事に仕立てたたくさんの盆栽を眺める(園内は撮影禁止・外から撮る)。


 ミーティングと記念撮影を済ませ、13時8分に盆栽四季の家を後にした。


 2本西の「かえで通り」に回り、さいたま市立漫画会館で30分の観覧時間をとる。


 漫画会館は、旧大宮市が生んだ日本の近代漫画の創始者、北澤楽天(1876~1955)
の業績を記念するとともに、漫画文化の発展を図るため、楽天の邸宅跡に建設されたもの。
        
 楽天は福沢諭吉に認められ、諭吉の発刊した新聞、時事新報紙上で、国際政治から子ど
も向けまで広範囲の漫画を掲載し、「漫画」という言葉も楽天が使い始めたものだという。

 展示室を回り、楽天の生涯や作品のほか、4日後の15日まで開催中の「さいたま市民
漫画展2014」の入賞・佳作作品展のほほえましい作品の数々や、楽天が住んでいた当
時から残るという日本庭園などを観賞する(入館料無料、館内は撮影禁止)。


 漫画会館前の住宅に、背の低くてずんぐりした変わった姿の馬がいた。
     

 近くの植竹稲荷神社は境内が広いが社殿は小さく、鳥居際のスダジイの高木だけが目に
ついた。


 東武野田線大宮公園駅の南側を回り、産業道路を横断して寿能町(じゅのうちよう)二
丁目へ。日本山妙法寺の狛犬はライオンのような顔立ち。
        

 その先の寿能公園は、敵対していた北条氏の備えのために、岩槻城の支城として永禄3
年(1560)頃築かれたといわれる寿能城跡。

 岩槻の太田資正(おおたすけまさ)の子、潮田出羽守資忠(うしおだでわのかみすけた
だ)の居城と言われ、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原城攻めの際に、豊臣勢
の攻撃で落城したとか。物見櫓(ものみやぐら)の跡とも呼ばれる塚の上に、潮田出羽守
資忠の墓がある。



 再び見沼代用水沿いの遊歩道を進む。用水の水量は、先ほどより豊富になっているよう
に見えた。水車小屋のところで見沼代用水を離れ、歩道橋で産業道路の上を越えて大宮公
園に入る。


 大宮競輪場と県営球場の横を通過し、球場と大宮アルディージャのホームグランド、
NACK5(なつくふぁいぶ)スタジアムの間を進むと、「蛇松(鷹止の松)跡」の説明
板があり、寛永年中(1624~44)に徳川家光がこの地で鷹狩りを行った際のことが
記されていた。

 西に抜けたところにあった頑丈そうな保護建物の中に、第2代埼玉県令(知事)白根多
助頌徳碑があるが、碑が浸食されていて碑文は判読し難い。
     


 赤松林の中を進んで、先週に続き武藏一宮、氷川神社に参拝する。建国記念の日のため
か、拝殿には参拝者の列ができていた。


      
 参道を南へ、二の鳥居まで進み、交差点の南東側にある結婚式場、清水園の1階ロビー
に入る。

 ここには、昭和9年(1934)に描かれた大宮の絵地図があり、この清水園が公園だ
ったことが知れる。


 二の鳥居の一つ北側の通りに戻り、西進して中山道際にある東光寺へ。


 本堂背後の広い墓地の一角に北沢楽天の墓地があり、新しい北沢楽天像や、楽天が描い
た100の絵を並べた「北沢楽天百絵摩尼車(まにぐるま)」など、ユニークな石造物が
並んでいた。
         

 本堂はどっしりしたコンクリート造り。南側には、りっぱな仁王門を再建中だった。



 東光寺の東側から南に延びる通りを南下し、大宮区役所横などを通過して氷川神社参道
の南端付近に入り、ゴールのJRさいたま新都心駅下に16時12分に着く。

(参加 17人、天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、浦和、歩行地
 さいたま市見沼区、北区、大宮区、歩数 15,900)




アウトドア ブログランキングへ



にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする