2015年2月15日(日)
続カタツムリ歩行の例会が、ゴールの大牧氷川女体神社で散会となった13時過ぎに、
一人でもう少し回ってから東浦和駅に向かうことにした。
見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)の橋を渡り、東側の見沼田んぼの中
を東に進む。相変わらず北西からの強風が吹きさらしの芦原を吹き抜けるので寒い。
芝川右岸近くまで行くと、その先は調整池の工事範囲のようで通行止め。北に向かう
遊歩道で国道463号に出る。
芝川を渡ったすぐ先の一帯が、さいたま市の博物館の一つ「浦和くらしの博物館民家
園」である。ここも何度か訪れているが、もう一度入ってみる。入るといっても囲いは
ないので出入りは自由である(入場無料)。
浦和くらしの民家園は、さいたま市内に残された伝統的な建物を移築復元し、公開し
ている野外博物館で、平成7年(1995)に開館し現在は7棟の建物を公開している。
国道側にある駐車場の先に、最初に目につくのが旧高野家住宅。
建築年代は江戸時代末期で、さいたま市指定文化財である。
かやぶき屋根の商家建築で、中山道浦和宿の中では最も古い建物のひとつ。明治に至り、
中山道沿いの浦和区岸町7丁目で煎餅(せんべい)店だったという。
建物内には、煎餅店当時の展示が残っていた。
その西隣は旧綿貫家住宅。
建築年代は江戸時代末期から明治初期のようで、市指定文化財である。
中山道沿いの浦和区常盤2丁目で、雑貨や砂糖などを扱っていた店蔵。防火に優れた塗
屋造りで、虫籠に似た「虫籠窓(むしごまど)」(格子窓)が特徴とか。
内部には、当時のはかりなどが展示されている。
通路を挟んで旧高野家住宅の東側には、旧浦和市農業協同組合三室(みむろ)支所の長
い倉庫がある。
もとは大正8年(1819)、栃木県小山市でかんぴょうの倉庫として建設されたもの
を、昭和31年(1956)に緑区三室に移築され、米の倉庫として利用したという。
栃木の特産大谷石(おおやいし)と漆喰(しっくい)の土蔵造りで、国の登録有形文化
財となっている。
その倉庫の南に回ると、古代蓮の植えられた池があり、いまは枯れ枝だが、初夏にはき
れいなハスの花が楽しめそう。
蓮池の先から、2つの住宅と長屋門などが並んでいる。
旧中島家穀櫃 旧蓮見家住宅
旧野口家住宅 旧武笠家表門
南側の畑の方から回り、まずは旧武笠家表門を入る。
寄棟造りかやぶき屋根の長屋門で、緑区三室にあったのを移築したとのこと。天明3年
(1783)の護摩札が確認されていて、約230年前の建立のよう。
結婚式や葬式などの特別の日にしか門は開閉せず、普段は脇にあった出入口を使用して
いたという。やはり市指定文化財である。
現在は開放されている表門を入ると、内部に農機具などが展示されていた。
旧武笠家表門を入ると、庭の北側に旧蓮見家住宅がある。
いまから約250年前の江戸中期に建てられた、さいたま市内で一番古い民家と考えら
れているようで、緑区井沼方から移築されたもの。市指定文化財である。
右手入口を入った奥に、餅をつくうすやきねなどが並ぶ。
いろりも残っている。
丸竹を並べた天井、養蚕の場だったのだろうか。
同じ庭の西側にあるのが、旧中島家穀櫃(こくびつ)で、江戸時代後期の建築らしい。
農家の穀類を保管する板倉で、緑区三室から移築されたもの。内部は三等分に仕切られ
ていて、前面の落とし板をスライドさせて収納する仕組みになっているようだ。
園内西南の隅にあるのが旧野口家住宅。
当初は、南区大谷口の寺の庫裏(くり)として使っていたが、明治初年には廃寺となり、
その後は同家の母屋として使われていたとのこと。
解体時に安政5年(1858)の墨書が確認されていて、約150年前の幕末の建築と
考えられるという。これも市指定文化財になっている。
土間にあるかまど
いろりの周辺、奥に見えるのは機織り機らしい。
吹き抜けの天井裏
建物めぐりを終え、農協倉庫の裏手にある管理棟の展示室に向かう。倉庫の北側には新
しい「蛍(ホタル)の碑」がある。かつては見沼田んぼにも、ホタルが飛んでいたという。
管理棟の展示室には、正月の飾り羽子板や農具などが展示されていた。
民家園を出て芝川を渡り、交通量の多い国道463号を西南に向かう。
強風に吹きさらしの見沼田んぼが終わり、見沼代用水西縁を過ぎると大牧の家並みに入
る。
代用水のすぐ先のT字路際に、十勝甘納豆本舗の店があったので入り、甘納豆どら焼き
を求めた。
T字路を左折して、JR東浦和駅横に延びる車道を南下する。国道ほどの交通量はなく、
歩道も広いので安心して歩ける。
明の星短大バス停付近にあった清泰寺に立ち寄ったが、本堂は再建のために解体作業を
終えたところで、近代建築の会館のほかには鐘楼しか残っていない。
鐘楼の周辺には、土留めのようにおびただしい数の庚申塔が並んでいた。
全部で351基あり、天明3年(1783)と万延元年(1860)に建てられたもの
で、市指定文化財になっているという。
北側の墓地の奥には、武田信玄の娘で、徳川2代将軍秀忠の子、幸松丸(後の会津23
万石城主・保科肥後守正之)を養育したことで知られる見性院(けんしょういん)の墓が
あった。
墓は、県の旧跡に指定されている。
さらに少し南下すると、カシの古木に囲まれた大牧氷川神社がある。
一間流造りの本殿は、寛文7年(1667)に武蔵国一宮の氷川神社が再建された際、
旧本殿をもらい受けたもので、市指定文化財になっているという。
ここまで来れば駅は近い。JR武蔵野線東浦和駅には、14時40分に戻った。
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続カタツムリ歩行の例会が、ゴールの大牧氷川女体神社で散会となった13時過ぎに、
一人でもう少し回ってから東浦和駅に向かうことにした。
見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)の橋を渡り、東側の見沼田んぼの中
を東に進む。相変わらず北西からの強風が吹きさらしの芦原を吹き抜けるので寒い。
芝川右岸近くまで行くと、その先は調整池の工事範囲のようで通行止め。北に向かう
遊歩道で国道463号に出る。
芝川を渡ったすぐ先の一帯が、さいたま市の博物館の一つ「浦和くらしの博物館民家
園」である。ここも何度か訪れているが、もう一度入ってみる。入るといっても囲いは
ないので出入りは自由である(入場無料)。
浦和くらしの民家園は、さいたま市内に残された伝統的な建物を移築復元し、公開し
ている野外博物館で、平成7年(1995)に開館し現在は7棟の建物を公開している。
国道側にある駐車場の先に、最初に目につくのが旧高野家住宅。
建築年代は江戸時代末期で、さいたま市指定文化財である。
かやぶき屋根の商家建築で、中山道浦和宿の中では最も古い建物のひとつ。明治に至り、
中山道沿いの浦和区岸町7丁目で煎餅(せんべい)店だったという。
建物内には、煎餅店当時の展示が残っていた。
その西隣は旧綿貫家住宅。
建築年代は江戸時代末期から明治初期のようで、市指定文化財である。
中山道沿いの浦和区常盤2丁目で、雑貨や砂糖などを扱っていた店蔵。防火に優れた塗
屋造りで、虫籠に似た「虫籠窓(むしごまど)」(格子窓)が特徴とか。
内部には、当時のはかりなどが展示されている。
通路を挟んで旧高野家住宅の東側には、旧浦和市農業協同組合三室(みむろ)支所の長
い倉庫がある。
もとは大正8年(1819)、栃木県小山市でかんぴょうの倉庫として建設されたもの
を、昭和31年(1956)に緑区三室に移築され、米の倉庫として利用したという。
栃木の特産大谷石(おおやいし)と漆喰(しっくい)の土蔵造りで、国の登録有形文化
財となっている。
その倉庫の南に回ると、古代蓮の植えられた池があり、いまは枯れ枝だが、初夏にはき
れいなハスの花が楽しめそう。
蓮池の先から、2つの住宅と長屋門などが並んでいる。
旧中島家穀櫃 旧蓮見家住宅
旧野口家住宅 旧武笠家表門
南側の畑の方から回り、まずは旧武笠家表門を入る。
寄棟造りかやぶき屋根の長屋門で、緑区三室にあったのを移築したとのこと。天明3年
(1783)の護摩札が確認されていて、約230年前の建立のよう。
結婚式や葬式などの特別の日にしか門は開閉せず、普段は脇にあった出入口を使用して
いたという。やはり市指定文化財である。
現在は開放されている表門を入ると、内部に農機具などが展示されていた。
旧武笠家表門を入ると、庭の北側に旧蓮見家住宅がある。
いまから約250年前の江戸中期に建てられた、さいたま市内で一番古い民家と考えら
れているようで、緑区井沼方から移築されたもの。市指定文化財である。
右手入口を入った奥に、餅をつくうすやきねなどが並ぶ。
いろりも残っている。
丸竹を並べた天井、養蚕の場だったのだろうか。
同じ庭の西側にあるのが、旧中島家穀櫃(こくびつ)で、江戸時代後期の建築らしい。
農家の穀類を保管する板倉で、緑区三室から移築されたもの。内部は三等分に仕切られ
ていて、前面の落とし板をスライドさせて収納する仕組みになっているようだ。
園内西南の隅にあるのが旧野口家住宅。
当初は、南区大谷口の寺の庫裏(くり)として使っていたが、明治初年には廃寺となり、
その後は同家の母屋として使われていたとのこと。
解体時に安政5年(1858)の墨書が確認されていて、約150年前の幕末の建築と
考えられるという。これも市指定文化財になっている。
土間にあるかまど
いろりの周辺、奥に見えるのは機織り機らしい。
吹き抜けの天井裏
建物めぐりを終え、農協倉庫の裏手にある管理棟の展示室に向かう。倉庫の北側には新
しい「蛍(ホタル)の碑」がある。かつては見沼田んぼにも、ホタルが飛んでいたという。
管理棟の展示室には、正月の飾り羽子板や農具などが展示されていた。
民家園を出て芝川を渡り、交通量の多い国道463号を西南に向かう。
強風に吹きさらしの見沼田んぼが終わり、見沼代用水西縁を過ぎると大牧の家並みに入
る。
代用水のすぐ先のT字路際に、十勝甘納豆本舗の店があったので入り、甘納豆どら焼き
を求めた。
T字路を左折して、JR東浦和駅横に延びる車道を南下する。国道ほどの交通量はなく、
歩道も広いので安心して歩ける。
明の星短大バス停付近にあった清泰寺に立ち寄ったが、本堂は再建のために解体作業を
終えたところで、近代建築の会館のほかには鐘楼しか残っていない。
鐘楼の周辺には、土留めのようにおびただしい数の庚申塔が並んでいた。
全部で351基あり、天明3年(1783)と万延元年(1860)に建てられたもの
で、市指定文化財になっているという。
北側の墓地の奥には、武田信玄の娘で、徳川2代将軍秀忠の子、幸松丸(後の会津23
万石城主・保科肥後守正之)を養育したことで知られる見性院(けんしょういん)の墓が
あった。
墓は、県の旧跡に指定されている。
さらに少し南下すると、カシの古木に囲まれた大牧氷川神社がある。
一間流造りの本殿は、寛文7年(1667)に武蔵国一宮の氷川神社が再建された際、
旧本殿をもらい受けたもので、市指定文化財になっているという。
ここまで来れば駅は近い。JR武蔵野線東浦和駅には、14時40分に戻った。
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