第3回 2002年4月13日(土) 〈用土から武蔵嵐山まで〉
スタートのJR八高(はちこう)線 用土〈ようど〉駅に、10時01分着で下りたのは
8人。JR埼京線が遅れて、4人は次の列車との携帯での連絡がある。待ち合わせ場所を
決めて10時33分に出発した。

==花園大橋で合流、今市へ==
駅前から県道に出て左折すると諏訪神社がある。本殿は新しいが、創建は応和年間(961
~4)という古社。江戸時代から続く獅子舞は、町の無形文化財という。
踏切の少し先に、文政12(1830)年と記された馬頭観音など、3基の古い石塔が
並んでいた。

その先の十字路には、「川越街道脇往還」と記された↑2mくらいある石の道標が立ち、
そばに文化元(1804)年銘の大黒天や庚申宝塔などが並んでいる。そばの畑のコバン
ソウが、もうすぐ咲きそう。

住宅の庭に咲き競うハナミズキ、ヤマブキ、ボタン、桃などを見ながら花園町に入る。
この辺りは「武蔵野」という字名(あざな)の通り、麦畑でヒバリがさえずり、二つ煙出
しをつけた大きな農家などの見える、のどかな農村風景である。
中郷集落の中心にある常光寺に寄る。開いていた本堂の隅に、2mくらいの大だるまが
あった。本堂横の自然石の石塔に、象形文字のような珍しい字が刻まれている。古い馬頭
観音や庚申塔も多い。

南西に接する八幡神社前に「鎌倉街道上道道しるべ」の案内板が立つ。

主要地方道62号に出て、県道と分かれて真っ直ぐ進む。桑畑のあぜ道の先で、秩父鉄
道の線路を越えて工業団地を抜ける。国道140号線とそのバイパスを越えると、荒川を
見下ろすところに、「お茶々が井戸」というのがあった。
鎌倉時代、旅人が休息する茶店があり、於茶々という美人の娘がお茶の接待をしたとこ
ろだという。いまは無粋な四角いコンクリート造りの井戸だが、どんな干天でも枯渇した
ことはないとのことで、濁ってはいたが確かに水はあった。
お茶々が井戸の東側の民家

荒川左岸の河川段丘上の道を東に向きを変えて進む。川に近い道に入ったが行き止まり。
細い流れを渡って上の道に出たりして時間を食い、後着の4人を花園大橋で1時間以上も
待たせてしまった。11時38分に無事合流する。
橋を渡り、「あらかわ紀行」で歩いた荒川右岸の道へ。ナノハナの咲く気持ち良い道を
500mほど進むと、1947年まであったという赤浜の渡し跡。目印になった、獅子岩
とも川越岩とも呼ばれる大きな岩がある。

中央の岩が獅子岩↑

カワラヒワがたくさん飛び、新吉野川を渡った坂道の三差路には、「鎌倉街道山王の渡
し」の道標が立つ↓。この北側にも山王の渡しというのがあったようだ。


坂道を南に上る。左手の竹やぶに鎌倉街道跡が残っているはずだが見当たらない。その
まま進み、13時25分に赤浜の普光寺に着き、遅くなった昼食とする。


寺の山門にはだるまが吊してある。庫裡の駕籠寄玄関は天保14(1843)年のもの
で、柱上部に見事な狛犬の彫刻が施されている。

庭の隅には屋根付きの板碑群が並ぶ。中央の五輪塔は大同4(809)年と読め、文化
2(1265)年の板碑もある。


本堂裏の杉林に回り、鎌倉街道の名残という掘割を確認して、14時20分に寺を出た。
寺の東側に立つ史跡の標柱

==のどかな里道を市野川沿いに==
中世には鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほど栄えたという、塚田の三島
神社の東で畠山からの鎌倉街道と合し、南に向かう。
神社には、南北朝末期から室町初期に当地の塚田鋳物師が鋳造したと考えられる鰐口が、
御神宝として残っているという。
今市(いまいち)集落の西端にある十字路に、寛政2(1790)年11月と刻まれた
大きな百万遍供養塔や、二十一夜塔、札所供養塔などが並んでいた。

次の十字路南の畑の中には、宝永5(1708)年と享保15(1730)年の庚申塔
がある。小さいがきれいに磨かれていて、とても江戸時代のものとは見えない。

左折して東南に進む街道からは、市野川(いちのかわ)の向こうに淡い新緑の里山が広
がり、のどかにニワトリが鳴く。ガードレールが無ければ鎌倉時代そのままとも思われる
光景だ。
葉桜となった桜並木の先に、杉やカシで覆われた今市集落の鎮守、児泉(こいずみ)神
社があったのでひと休みする。境内南側の杉林にも、鎌倉街道跡と思われる掘り割りが残
っていた。
市野川沿いに進んでクリーンセンターの先で、私が小中学校時代を過ごした小川町に入
る。鎌倉時代に高見城があった四津山(よつやま)が、名のように四つの山並みを見せて
いる。

能増(のうます)の十字路を左折して、市野川のそばにある八宮(やみや)神社に入る。
明日の春祭りのため、集落の人が4、5人で境内の清掃中。

私は、この神社の社務所に中三の時、両親や弟はその後も15年住んでいた。35年ぶ
りに訪ねたのだが、社務所も開けてあったので見ることが出来て、大変懐かしかった。

ここで今日の記念撮影を。


十字路に戻り、少し西側の道を入って鎌倉街道の標柱に従い南に進む。草に覆われた土
の道は、チゴユリの咲くヒノキの林を抜けて、田んぼに出る。

小さい流れを回り道して再び林の中に入ると、諏訪神社奉祀遺跡という小さな祠が残っ
ていた。この辺り、昔ながらの街道の雰囲気の残るところだ。

八和田(やわた)神社への道標に従い、新屋敷(あらやしき)の丘陵を下って行くと古
い馬頭観音があった。

奈良梨の十字路に出て、長い境内を北に戻り八和田神社で最後の休憩。本殿の東側に、
樹高30m、樹齢800年という見事な杉が立っている。

子供の頃、屋台が並びささら獅子が舞う八和田神社の秋祭りは楽しみだったが、この大
杉の記憶はない。
奈良梨の十字路から県道を進み、新川(しんかわ)の高橋(たかばし)を渡る。すぐ先、
下横田の集落裏手を流れる小川の土手に、4基の小さい馬頭観音が欠けた1基とともに並
んでいた。


県道沿いの満開の八重桜の下には、もっと大きい馬頭観音もある。昔は、農耕の主役と
して馬が大切にされていたことがうかがえる。
鎌倉街道はこの先、県道を嵐山町(らんざんまち)まで続くのだが、我々は車を避けて
市野川の東に出て、山すその越畑(おつぱた)集落を結ぶ道を進む。
杉山城跡に近づいた辺りで、西の山並みにオレンジ色の夕日が落ちて一瞬のうちに沈ん
だ。静かな山里の幻想的なひとときである。
陽が落ちたのにそばの林でウグイスが盛んに鳴く。先を急ぎ、すっかり暗くなった嵐山
町むさし台の住宅街に入り、18時49分に東武東上線武蔵嵐山駅に着いた。
(参加 12人、天気 晴、距離 22㎞、地図〈1/2.5万〉 寄居、三ヶ尻、武蔵
小川、歩行地 寄居町、花園町、小川町、嵐山町)
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スタートのJR八高(はちこう)線 用土〈ようど〉駅に、10時01分着で下りたのは
8人。JR埼京線が遅れて、4人は次の列車との携帯での連絡がある。待ち合わせ場所を
決めて10時33分に出発した。

==花園大橋で合流、今市へ==
駅前から県道に出て左折すると諏訪神社がある。本殿は新しいが、創建は応和年間(961
~4)という古社。江戸時代から続く獅子舞は、町の無形文化財という。
踏切の少し先に、文政12(1830)年と記された馬頭観音など、3基の古い石塔が
並んでいた。


その先の十字路には、「川越街道脇往還」と記された↑2mくらいある石の道標が立ち、
そばに文化元(1804)年銘の大黒天や庚申宝塔などが並んでいる。そばの畑のコバン
ソウが、もうすぐ咲きそう。

住宅の庭に咲き競うハナミズキ、ヤマブキ、ボタン、桃などを見ながら花園町に入る。
この辺りは「武蔵野」という字名(あざな)の通り、麦畑でヒバリがさえずり、二つ煙出
しをつけた大きな農家などの見える、のどかな農村風景である。
中郷集落の中心にある常光寺に寄る。開いていた本堂の隅に、2mくらいの大だるまが
あった。本堂横の自然石の石塔に、象形文字のような珍しい字が刻まれている。古い馬頭
観音や庚申塔も多い。

南西に接する八幡神社前に「鎌倉街道上道道しるべ」の案内板が立つ。

主要地方道62号に出て、県道と分かれて真っ直ぐ進む。桑畑のあぜ道の先で、秩父鉄
道の線路を越えて工業団地を抜ける。国道140号線とそのバイパスを越えると、荒川を
見下ろすところに、「お茶々が井戸」というのがあった。
鎌倉時代、旅人が休息する茶店があり、於茶々という美人の娘がお茶の接待をしたとこ
ろだという。いまは無粋な四角いコンクリート造りの井戸だが、どんな干天でも枯渇した
ことはないとのことで、濁ってはいたが確かに水はあった。
お茶々が井戸の東側の民家

荒川左岸の河川段丘上の道を東に向きを変えて進む。川に近い道に入ったが行き止まり。
細い流れを渡って上の道に出たりして時間を食い、後着の4人を花園大橋で1時間以上も
待たせてしまった。11時38分に無事合流する。
橋を渡り、「あらかわ紀行」で歩いた荒川右岸の道へ。ナノハナの咲く気持ち良い道を
500mほど進むと、1947年まであったという赤浜の渡し跡。目印になった、獅子岩
とも川越岩とも呼ばれる大きな岩がある。

中央の岩が獅子岩↑

カワラヒワがたくさん飛び、新吉野川を渡った坂道の三差路には、「鎌倉街道山王の渡
し」の道標が立つ↓。この北側にも山王の渡しというのがあったようだ。


坂道を南に上る。左手の竹やぶに鎌倉街道跡が残っているはずだが見当たらない。その
まま進み、13時25分に赤浜の普光寺に着き、遅くなった昼食とする。


寺の山門にはだるまが吊してある。庫裡の駕籠寄玄関は天保14(1843)年のもの
で、柱上部に見事な狛犬の彫刻が施されている。

庭の隅には屋根付きの板碑群が並ぶ。中央の五輪塔は大同4(809)年と読め、文化
2(1265)年の板碑もある。


本堂裏の杉林に回り、鎌倉街道の名残という掘割を確認して、14時20分に寺を出た。
寺の東側に立つ史跡の標柱

==のどかな里道を市野川沿いに==
中世には鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほど栄えたという、塚田の三島
神社の東で畠山からの鎌倉街道と合し、南に向かう。
神社には、南北朝末期から室町初期に当地の塚田鋳物師が鋳造したと考えられる鰐口が、
御神宝として残っているという。
今市(いまいち)集落の西端にある十字路に、寛政2(1790)年11月と刻まれた
大きな百万遍供養塔や、二十一夜塔、札所供養塔などが並んでいた。

次の十字路南の畑の中には、宝永5(1708)年と享保15(1730)年の庚申塔
がある。小さいがきれいに磨かれていて、とても江戸時代のものとは見えない。

左折して東南に進む街道からは、市野川(いちのかわ)の向こうに淡い新緑の里山が広
がり、のどかにニワトリが鳴く。ガードレールが無ければ鎌倉時代そのままとも思われる
光景だ。
葉桜となった桜並木の先に、杉やカシで覆われた今市集落の鎮守、児泉(こいずみ)神
社があったのでひと休みする。境内南側の杉林にも、鎌倉街道跡と思われる掘り割りが残
っていた。
市野川沿いに進んでクリーンセンターの先で、私が小中学校時代を過ごした小川町に入
る。鎌倉時代に高見城があった四津山(よつやま)が、名のように四つの山並みを見せて
いる。

能増(のうます)の十字路を左折して、市野川のそばにある八宮(やみや)神社に入る。
明日の春祭りのため、集落の人が4、5人で境内の清掃中。

私は、この神社の社務所に中三の時、両親や弟はその後も15年住んでいた。35年ぶ
りに訪ねたのだが、社務所も開けてあったので見ることが出来て、大変懐かしかった。

ここで今日の記念撮影を。


十字路に戻り、少し西側の道を入って鎌倉街道の標柱に従い南に進む。草に覆われた土
の道は、チゴユリの咲くヒノキの林を抜けて、田んぼに出る。

小さい流れを回り道して再び林の中に入ると、諏訪神社奉祀遺跡という小さな祠が残っ
ていた。この辺り、昔ながらの街道の雰囲気の残るところだ。

八和田(やわた)神社への道標に従い、新屋敷(あらやしき)の丘陵を下って行くと古
い馬頭観音があった。

奈良梨の十字路に出て、長い境内を北に戻り八和田神社で最後の休憩。本殿の東側に、
樹高30m、樹齢800年という見事な杉が立っている。

子供の頃、屋台が並びささら獅子が舞う八和田神社の秋祭りは楽しみだったが、この大
杉の記憶はない。
奈良梨の十字路から県道を進み、新川(しんかわ)の高橋(たかばし)を渡る。すぐ先、
下横田の集落裏手を流れる小川の土手に、4基の小さい馬頭観音が欠けた1基とともに並
んでいた。


県道沿いの満開の八重桜の下には、もっと大きい馬頭観音もある。昔は、農耕の主役と
して馬が大切にされていたことがうかがえる。
鎌倉街道はこの先、県道を嵐山町(らんざんまち)まで続くのだが、我々は車を避けて
市野川の東に出て、山すその越畑(おつぱた)集落を結ぶ道を進む。
杉山城跡に近づいた辺りで、西の山並みにオレンジ色の夕日が落ちて一瞬のうちに沈ん
だ。静かな山里の幻想的なひとときである。
陽が落ちたのにそばの林でウグイスが盛んに鳴く。先を急ぎ、すっかり暗くなった嵐山
町むさし台の住宅街に入り、18時49分に東武東上線武蔵嵐山駅に着いた。
(参加 12人、天気 晴、距離 22㎞、地図〈1/2.5万〉 寄居、三ヶ尻、武蔵
小川、歩行地 寄居町、花園町、小川町、嵐山町)


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