第5回 2002年6月22日(土) =武蔵高萩から東村山まで==
明け方に激しい雨のところもあったが、JR川越線 武蔵高萩駅に着いたら、ほぼ雨の
心配は無くなった。気温も20℃以下か、歩くには絶好の日和となった。
地図を配ろうとザックを開けたが無い。忘れてしまったようだ。しばらくは、Kaさんが
用意してくれた絵図だけで歩いてもらうことにして、9時42分に出発する。
==智光山公園から狭山市内へ==
駅前の桜並木を下って県道を横切る。以前の例会でも歩いた住宅地を抜けて霞野神社へ。


「女影ケ原古戦場の記」があり、「建武2(1335)年に北条時行が幕府軍の足利直義
などに撃破された古戦場だ」との説明が記されている。

近くの交差点には、鎌倉街道の案内板も立っていた。

第二小畦川に沿って、緑が色濃くなった水田が広がる。川の先、道の東側に「鎌倉街道
上道碑」と説明板がある。



この辺りは緑が多く、気持ち良い道筋である。


坂を上がった国道407号線との十字路↑は「鎌倉街道」交差点。日高カントリーの南
端沿いに進み、圏央道をくぐると智光山公園。一時間余り歩いたので休憩する。
狭山工業団地に入り、コンビニで地図をコピーして皆さんに配る。工業団地を抜けて、
入間川に向かう下り道は信濃坂。信濃に通じていたことから名付けられたようだ。
坂の下、七差路の手前に陰隠(かげかくし)地蔵が立つ。木曽義仲の子、義高が源頼朝
の刺客から身を隠したが捕らえられたという。

地蔵は高さ1m余りしかなく、発見されるのも当然と思われた。

そばに、道しるべにもなっていた安政5(1858)年の石橋供養塔もある。
街道は真っ直ぐに入間川を渡しで越えたようだが、我々は左に入り、↓水天宮の石碑の先
で昭代橋を渡る。

狭山市の市街地となり、市民会館の先から右折、裏手から天満天神社へ。
「新編武蔵風土記稿」にも記された社。表に抜けて、西側の交差点を左折して徳林寺へ。
徳林寺は、新田義貞が入間川合戦の際の本陣だったところ。境内にはお願い地蔵という
のがあり、こぶし大くらいの石がたくさん奉納されている。

武蔵野三十三観音霊場の第十七番札所でもある。
西武新宿線の狭山市駅前に出て南側の踏切を渡る。踏切の手前に200年前の庚申塔が
立っていた。
この先は所沢市内まで、鎌倉街道は交通量の多い県道50号線になっている。車を避け
て東側を平行する住宅地の道を進む。
狭山工業高校の先にある富士見公民館に13時に着き、遊歩道のある東側の林で昼食に
する。今日も、Ktさんが美味しいコーヒーを沸かしてくれた。

ここで、思いがけない出会いが起きた。この歩きに参加されているIkさんのお姉さん、
Skさんと、Kfさんが30数年前、同じ職場の同じ部にいた同期生と分かり、皆ビックリ!
世の中は広いようで狭いとは本当にこのこと。今回の歩きでの大きなトピックとなった。
==所沢を通過して東村山へ==
13時45分に出発。県道に出て500m足らずの不老川(としとらずがわ)の北側に、
「七曲井(ななまがりのい)」があった。

建仁2(1206)年が起源といわれ、平安中期に武蔵国府により掘られたと推定され
る井戸。周囲70m余り、直径18~26mのすり鉢状で、10m下に井桁があり、周囲
は金網で囲まれている。
川の南側には、県指定文化財の「入曽(いりそ)の獅子舞」が奉納される入間野神社。

神社前には、「鎌倉街道(上道)」の大きな案内板が立っていた。
再び車を避けて狭山市水野では西側の住宅地を、所沢市北岩岡では東側に平行する畑の
中の細道を進む。畑にはサトイモやカボチャ、トマト、大豆などが多く、畑の境に茶の木
が植えてある。排気ガスや騒音から解放されてホッとする。
霜よけの換気ファンの並ぶ広い茶畑を過ぎると住宅地になり、新所沢駅北側の踏切に出
た。商店街に入り、新所沢団地の中心にある緑町中央公園で休憩。もう一度、Ktさんのコ
ーヒーをいただく。
峰の坂交差点を南に下り、東川(あずまかわ)のそばにある新光寺に寄る。竜宮門のよ
うな入口や奥の六角堂が珍しい。

建久4(1193)年に源頼朝が那須野へ狩りに行く途中立ち寄り寄進した寺で、元弘
3(1333)年の鎌倉攻めの際、新田義貞が戦勝祈願をしている。武蔵野三十三観音第
十番札所でもある。
南小の先で西武池袋線下を抜けて、住宅地の中を少し回り道して長久寺の前に出る。寺
の創建は戦国時代といわれ、開山した玖阿上人は、この先にある徳蔵寺の「元弘の板碑」
を造った人とか。庫裡前のミッキーマウス

境内に豊川稲荷があり、地形図上では神社だけが記されていた。
少し先、柳瀬川に架かるのが勢揃橋(せいぞろいばし)。新田義貞の軍勢が勢揃いして
鎌倉を目指したところのようだが説明板も無く、言われなければ通り過ぎてしまう平凡な
橋だ。ここで、もう一度記念撮影を。

南側の林は、八国山(はちこくやま)と呼ぶ狭山丘陵の東端。薄暗くなってきた林に入
り、遊歩道を上がると将軍塚があった。

新田義貞が鎌倉攻めの時に、白旗を立てたところだという。「元弘青石塔婆所在碑」も
立っていた。
八国山は、かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望む
ことができたことから名付けられたが、現在は樹林に囲まれていて展望は得られない。
この稜線が都県境で南側は東京都東村山市。稜線を少し進み、濡れた笹に覆われた遊歩
道をもぐるようにして南に下る。
前川の東に回ると徳蔵寺がある。新田義貞が鎌倉攻めの陣を置いたと伝わる場所。文化
年間(1804~)に八国山の廃寺に放置されていた元弘の板碑を保存した。板碑は現在、
国宝となり立派な板碑保存館に収蔵されている。
西武新宿線西側の住宅地や商店街を進んで、18時17分に今回の終着、東村山駅に着
いた。
(参加 9人、天気 曇、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 飯能、川越南部、所沢、
歩行地 日高市、狭山市、所沢市、東村山市)
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明け方に激しい雨のところもあったが、JR川越線 武蔵高萩駅に着いたら、ほぼ雨の
心配は無くなった。気温も20℃以下か、歩くには絶好の日和となった。
地図を配ろうとザックを開けたが無い。忘れてしまったようだ。しばらくは、Kaさんが
用意してくれた絵図だけで歩いてもらうことにして、9時42分に出発する。
==智光山公園から狭山市内へ==
駅前の桜並木を下って県道を横切る。以前の例会でも歩いた住宅地を抜けて霞野神社へ。


「女影ケ原古戦場の記」があり、「建武2(1335)年に北条時行が幕府軍の足利直義
などに撃破された古戦場だ」との説明が記されている。

近くの交差点には、鎌倉街道の案内板も立っていた。

第二小畦川に沿って、緑が色濃くなった水田が広がる。川の先、道の東側に「鎌倉街道
上道碑」と説明板がある。



この辺りは緑が多く、気持ち良い道筋である。


坂を上がった国道407号線との十字路↑は「鎌倉街道」交差点。日高カントリーの南
端沿いに進み、圏央道をくぐると智光山公園。一時間余り歩いたので休憩する。
狭山工業団地に入り、コンビニで地図をコピーして皆さんに配る。工業団地を抜けて、
入間川に向かう下り道は信濃坂。信濃に通じていたことから名付けられたようだ。

坂の下、七差路の手前に陰隠(かげかくし)地蔵が立つ。木曽義仲の子、義高が源頼朝
の刺客から身を隠したが捕らえられたという。

地蔵は高さ1m余りしかなく、発見されるのも当然と思われた。

そばに、道しるべにもなっていた安政5(1858)年の石橋供養塔もある。

街道は真っ直ぐに入間川を渡しで越えたようだが、我々は左に入り、↓水天宮の石碑の先
で昭代橋を渡る。

狭山市の市街地となり、市民会館の先から右折、裏手から天満天神社へ。
「新編武蔵風土記稿」にも記された社。表に抜けて、西側の交差点を左折して徳林寺へ。
徳林寺は、新田義貞が入間川合戦の際の本陣だったところ。境内にはお願い地蔵という
のがあり、こぶし大くらいの石がたくさん奉納されている。

武蔵野三十三観音霊場の第十七番札所でもある。
西武新宿線の狭山市駅前に出て南側の踏切を渡る。踏切の手前に200年前の庚申塔が
立っていた。
この先は所沢市内まで、鎌倉街道は交通量の多い県道50号線になっている。車を避け
て東側を平行する住宅地の道を進む。
狭山工業高校の先にある富士見公民館に13時に着き、遊歩道のある東側の林で昼食に
する。今日も、Ktさんが美味しいコーヒーを沸かしてくれた。

ここで、思いがけない出会いが起きた。この歩きに参加されているIkさんのお姉さん、
Skさんと、Kfさんが30数年前、同じ職場の同じ部にいた同期生と分かり、皆ビックリ!
世の中は広いようで狭いとは本当にこのこと。今回の歩きでの大きなトピックとなった。
==所沢を通過して東村山へ==
13時45分に出発。県道に出て500m足らずの不老川(としとらずがわ)の北側に、
「七曲井(ななまがりのい)」があった。

建仁2(1206)年が起源といわれ、平安中期に武蔵国府により掘られたと推定され
る井戸。周囲70m余り、直径18~26mのすり鉢状で、10m下に井桁があり、周囲
は金網で囲まれている。
川の南側には、県指定文化財の「入曽(いりそ)の獅子舞」が奉納される入間野神社。

神社前には、「鎌倉街道(上道)」の大きな案内板が立っていた。
再び車を避けて狭山市水野では西側の住宅地を、所沢市北岩岡では東側に平行する畑の
中の細道を進む。畑にはサトイモやカボチャ、トマト、大豆などが多く、畑の境に茶の木
が植えてある。排気ガスや騒音から解放されてホッとする。
霜よけの換気ファンの並ぶ広い茶畑を過ぎると住宅地になり、新所沢駅北側の踏切に出
た。商店街に入り、新所沢団地の中心にある緑町中央公園で休憩。もう一度、Ktさんのコ
ーヒーをいただく。
峰の坂交差点を南に下り、東川(あずまかわ)のそばにある新光寺に寄る。竜宮門のよ
うな入口や奥の六角堂が珍しい。

建久4(1193)年に源頼朝が那須野へ狩りに行く途中立ち寄り寄進した寺で、元弘
3(1333)年の鎌倉攻めの際、新田義貞が戦勝祈願をしている。武蔵野三十三観音第
十番札所でもある。
南小の先で西武池袋線下を抜けて、住宅地の中を少し回り道して長久寺の前に出る。寺
の創建は戦国時代といわれ、開山した玖阿上人は、この先にある徳蔵寺の「元弘の板碑」
を造った人とか。庫裡前のミッキーマウス

境内に豊川稲荷があり、地形図上では神社だけが記されていた。
少し先、柳瀬川に架かるのが勢揃橋(せいぞろいばし)。新田義貞の軍勢が勢揃いして
鎌倉を目指したところのようだが説明板も無く、言われなければ通り過ぎてしまう平凡な
橋だ。ここで、もう一度記念撮影を。

南側の林は、八国山(はちこくやま)と呼ぶ狭山丘陵の東端。薄暗くなってきた林に入
り、遊歩道を上がると将軍塚があった。

新田義貞が鎌倉攻めの時に、白旗を立てたところだという。「元弘青石塔婆所在碑」も
立っていた。
八国山は、かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望む
ことができたことから名付けられたが、現在は樹林に囲まれていて展望は得られない。
この稜線が都県境で南側は東京都東村山市。稜線を少し進み、濡れた笹に覆われた遊歩
道をもぐるようにして南に下る。
前川の東に回ると徳蔵寺がある。新田義貞が鎌倉攻めの陣を置いたと伝わる場所。文化
年間(1804~)に八国山の廃寺に放置されていた元弘の板碑を保存した。板碑は現在、
国宝となり立派な板碑保存館に収蔵されている。
西武新宿線西側の住宅地や商店街を進んで、18時17分に今回の終着、東村山駅に着
いた。
(参加 9人、天気 曇、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 飯能、川越南部、所沢、
歩行地 日高市、狭山市、所沢市、東村山市)


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