11月13日(火)に、トトロの森とその周辺の樹林
を訪ねたときは、紅葉ももう少しという感じでしたが、
2週間近く経過し、紅葉の進み具合はどんなものだ
ろうかと、11月26日(月)に、前回より東側の狭山
丘陵東端付近を訪ねました。
西武池袋線西所沢駅から南東に下り、台地を背に
した永源寺に寄りました。
本堂の前にあるムクロジは、すっかり葉が落ち、
正月の羽根突きの羽根の玉になる実が色づいてい
ます。中の実は、もう黒くなっていることでしょう。
久米の住宅地を南に進み、豊かな樹林に囲まれた
久米八幡宮から、そばの久米水天宮に回ります。
毎年1月5日は水天宮の初大祭で、境内はダルマ
市で賑わいます。
本殿の裏側の落ち葉の上に、なぜか古いダルマが
ちょこんと乗っていました。
西側一帯の広葉樹林は鳩峰公園と呼ばれており、
その一角にトトロの森2号地があります。
周辺の紅葉は、まだ少し早めでした。
南に下ると西武松が丘団地と呼ばれる戸建ての
住宅地。その中ほどにある松が丘中央公園のモミ
ジが見ごろです。
松が丘住宅の南側一帯の丘陵は八国山緑地と呼
ばれ、豊富な広葉樹林に覆われています。その東端
から稜線を貫く遊歩道に上がりました。
八国山とは、かつて駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、
上野、下野、信濃の八か国の山々が望めたことから
呼び伝えられたとのことです。
鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道(かみつ
みち)が南北に走っていました。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒そうと挙兵した
新田義貞が、この地で一時逗留(とうりゅう)し、塚に
旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと
伝えられた場所です。
付近の広葉樹の色づきも、まだ少しあとのよう。
一見、新緑時のような彩りを見せています。
2㎞余り続く八国山緑地の遊歩道を西に抜け、県
道を少し北へ、さらに西武園ゴルフ場の北側を進ん
で、地元冨士講の人たちが築いた荒幡富士の下に
着きました。
一帯は、荒幡富士市民の森。広葉樹の色づきが
はじまっています。
ニシキギでしょうか、赤く色づいた葉っぱも見られ
ます。
市民の森を北に出て、荒幡の住宅地を進むと、畑
の隅の木の実も色づいていました。
西武狭山線下山口駅のそばで昼食をして、自宅に
向かいました。
を訪ねたときは、紅葉ももう少しという感じでしたが、
2週間近く経過し、紅葉の進み具合はどんなものだ
ろうかと、11月26日(月)に、前回より東側の狭山
丘陵東端付近を訪ねました。
西武池袋線西所沢駅から南東に下り、台地を背に
した永源寺に寄りました。
本堂の前にあるムクロジは、すっかり葉が落ち、
正月の羽根突きの羽根の玉になる実が色づいてい
ます。中の実は、もう黒くなっていることでしょう。
久米の住宅地を南に進み、豊かな樹林に囲まれた
久米八幡宮から、そばの久米水天宮に回ります。
毎年1月5日は水天宮の初大祭で、境内はダルマ
市で賑わいます。
本殿の裏側の落ち葉の上に、なぜか古いダルマが
ちょこんと乗っていました。
西側一帯の広葉樹林は鳩峰公園と呼ばれており、
その一角にトトロの森2号地があります。
周辺の紅葉は、まだ少し早めでした。
南に下ると西武松が丘団地と呼ばれる戸建ての
住宅地。その中ほどにある松が丘中央公園のモミ
ジが見ごろです。
松が丘住宅の南側一帯の丘陵は八国山緑地と呼
ばれ、豊富な広葉樹林に覆われています。その東端
から稜線を貫く遊歩道に上がりました。
八国山とは、かつて駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、
上野、下野、信濃の八か国の山々が望めたことから
呼び伝えられたとのことです。
鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道(かみつ
みち)が南北に走っていました。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒そうと挙兵した
新田義貞が、この地で一時逗留(とうりゅう)し、塚に
旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと
伝えられた場所です。
付近の広葉樹の色づきも、まだ少しあとのよう。
一見、新緑時のような彩りを見せています。
2㎞余り続く八国山緑地の遊歩道を西に抜け、県
道を少し北へ、さらに西武園ゴルフ場の北側を進ん
で、地元冨士講の人たちが築いた荒幡富士の下に
着きました。
一帯は、荒幡富士市民の森。広葉樹の色づきが
はじまっています。
ニシキギでしょうか、赤く色づいた葉っぱも見られ
ます。
市民の森を北に出て、荒幡の住宅地を進むと、畑
の隅の木の実も色づいていました。
西武狭山線下山口駅のそばで昼食をして、自宅に
向かいました。
赤い実は梅もどきです。
ございます。この実は何だっけなーと思いながら、
名前が出ませんでした。