残暑が治まらず、新しいレポートづくりのための歩きが出来ないので、21年前の
2002年2月から11月にかけて歩いた、鎌倉街道上道(かみつみち)のレポートを
9回に分けて報告します。
当時、私はまだデジカメでなくてフィルムカメラで撮り、プリントがやや色あせていま
すがご了承下さい。
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第1回 2002年2月16日(土) 〈高崎から群馬藤岡まで〉
カントリーウオークグループの2月例会にて、「この指止まれ」で「鎌倉街道上道(か
みつみち)を高崎から鎌倉の鶴岡八幡宮まで歩きませんか」と呼びかけ、第1回をさっそ
くその週末の今日実施することにした。
ちなみに鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網のことで、鎌
倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿のもとに馳せ参じた道。
特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかの
みち)・下道(しもつみち、しものみち)と呼ばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線
道3本。さらに支線も加わり、いまも「鎌倉街道」の名を残すところも多い。
このうち、鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至
る古道で、鎌倉から化粧坂、瀬谷、本町田、小野路、府中、所沢、入間、笛吹峠、奈良梨
(小川町)、山名を経て高崎までのルートのよう。今回は、このコースを北から南へ、高
崎から鎌倉まで群馬、埼玉、東京、神奈川の1都3県をはせ参じようという企画である。
なお、参考にしたのは、「鎌倉街道夢紀行 上道コース」(テレビ埼玉編、さきたま出
版会発行)である。
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本書に記載の鎌倉街道の全体図
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この図の左上、高崎から中央部下(南へ)鎌倉へのルートが上道
=高崎駅から市内の旧跡へ=
3人くらいは参加するかなと八高線経由で高崎駅へ行ったら、11人も集まった。
駅西口をバックに記念撮影し、10時15分「いざ鎌倉!」へと出立した。
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穏やかな快晴でウオーク日和。まず西に向かい、鎌倉時代初期に和田正信が築いたとい
う和田城、のち井伊氏が大きく改修した高崎城跡へ。
現在残るのは三の丸外囲の土居と堀、そして乾櫓(いぬいやぐら)と東門で、一帯は公
園になっている。
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公園と高層建築の市役所との間を南へ、噴水のある公園を抜けて光明寺横に出る。
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古墳上に護摩堂があったので、ここで旅の安全を祈願する。
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聖石橋に通じる車道を横切り小万坂を下る。国道17号線を横断、城南大橋下から烏川
左岸に出る。西側の展望が開け、真っ白な浅間山が見えてきた。
少し先で左折、上信電鉄の踏切を越えると琴平神社。等身大の古い烏天狗が二つ立つ。
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本殿は小山の上。大ケヤキや大きなムクノキがある。北側の荘厳寺との間の細道が鎌倉
街道だと、Kuさんが寺の人に聞いてきた。
細い路地を上越新幹線の東へ。和田多中町の三差路に双代道祖神があるのを、Kaさん
が見つけた。男女神が体を触れていないのは珍しく、県下で唯一のようだ。
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佐野窪町の三差路近くに、佐野の船橋歌碑があった。
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「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」と万葉集
東歌の一首が刻まれている。碑文は文政10(1827)年の記。
『橋には烏川を挟んだ二つの村の男女の伝説があり、謡曲「船橋」の素材になった。歌
碑は二人の怨霊を慰めるために建てられた』と記されていた。
その先で案内に従い右折、新幹線線路際の常世(つねよ)神社に寄る。
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室町時代の謡曲「鉢の木」の舞台になったと言われるところ。小さな社の前に、佐野源
左衛門常世が鉢の木を切っている絵がある。
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一昨年秋の特別例会にて、今日参加されたIeさんの生家近くの佐野市内で、源左衛門
の館跡に寄っており、不思議な縁を感じた。
200m余り先、新幹線西側の杉林の森に定家神社があった。創建は江戸時代中期で、
祭神は鎌倉時代の和歌の名人・藤原定家。本殿内には定家の
「来ぬ人の 待つほの潮の夕なぎの…」の掲額がある。
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定家は、家督を子の為家に譲った後、この佐野の松原に庵を結んだという。境内には古
墳も2基あった。
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ここで正午になったが、昼食はおあずけ。東に浅間山古墳を見ながら佐野町を抜け、新
幹線の西に出て交通量の多い一本松橋を渡る。 橋からの浅間山や妙義山方面
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橋の西側が高崎商科短大。トイレ借用の了解を得て、烏川右岸土手にザックを下ろす。
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静かな川面の向こうに浅間、妙義、榛名などの山並みを眺めながら昼食にした。
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=山名八幡宮から古墳群へ=
40分の昼食を終えて13時15分に出発する。車道を700mほど進み上信電鉄山名
(やまな)駅の横に入り、線路下をくぐって西側の山名八幡宮へ。
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太いケヤキが2本。石段上の本殿は、平成3(1991)年に塗り直したという極彩色
の「神を守る動物」の彫刻で彩られている。
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明和6(1769)年に上州田沢村の関口文治郎の刻。本殿は裏側からも参拝で来る珍
しい造り。本殿裏の丘陵に続く道が鎌倉街道だったからだという。
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山すそを南東に進み、展望のよい田園地帯に出る。上信電鉄の南側に高さ数mの古墳が
5つ並ぶ。そばの田んぼでは、放射状に発掘した遺跡を2人で調査していた。
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回り道して鏑川(かぶらがわ)橋を渡り、藤岡市に入る。上落合集落の南に、空堀に囲
まれた国史跡の七興山古墳があった。
地形を生かした三段構成の前方後円墳。全長148m、後円部径87m、前方部幅106m
高さ16mという立派なもの。
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東側から、桜の古木に覆われた墳丘に上がって休憩。高崎の町並や、浅間、赤城から日
光連山にかけての展望が良い。
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花の咲く頃もう一度来てみたいところだ。南東からの↓七興山古墳
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北原集落の東には皇子塚古墳が見え、集落の南、未舗装の細い鎌倉街道のすぐ東側には、
大きな石碑の立つ稲荷山古墳↓があった。この一帯、古墳の多いところだ。
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=吉良氏陣屋跡から神流川へ=
15時を過ぎたが、予定の道のりは長い。ひと休みしようと下郷の龍泉寺に寄る。
説明板を読むと、「吉良上野介の父、義冬(よしふゆ)(1606~68)が創建した
と伝えられる寺。近くに吉良氏の陣屋が置かれていて、忠臣蔵では悪名高いが、ここでは
領民から慕われた名君だった」という。
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立派なシダレザクラがあ、花時は見事であろうと思われた。
下郷橋を渡り、鮎川の左岸を1㎞余り進む。陽が傾き西側の山並みが逆光に映える。鮎
川集落を抜け、鎌倉街道は田んぼの中を南東へ。南町の十字路には、「右鬼石道、左藤岡」
と彫られた古い道標が立つ。
庚申山の南側を緩い上り坂が続き、庚申塔や道祖神、二十二夜塔が並ぶ辺りから下り道
に。鎌倉街道は藤岡モータースクールの先から神流川に向かってさらに真っ直ぐ伸びてい
たようだが、橋がないので車道を別所集落へ下る。
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17時近くなり冷えてきた。集落東の田の畦(あぜ)で最後の休憩。打合せをして、地
形図上、八高線の鉄橋北にある「せき」マークまで行き、渡れないようなら群馬藤岡をゴ
ールとする。
下郷集落の東に出た。土師神社の北に本郷埴輪窯跡があるようだが寄らず、手前から八
高線を越え、線路沿いに回って神流川の左岸堤防へ。
河原に下る道を入り、せきの見えるところに出た。残念ながらせきは大水で流され、一
部しか残っていなかった。
川の横断は諦め、うす暗くなった根岸集落から八高線の西に出て、並行する車道を藤岡
の町並みに入る。すっかり暗くなった18時03分、群馬藤岡駅に着いた。
(参加 12人、天気 快晴後晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 高崎、藤岡、
歩行地 高崎市、藤岡市)
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2002年2月から11月にかけて歩いた、鎌倉街道上道(かみつみち)のレポートを
9回に分けて報告します。
当時、私はまだデジカメでなくてフィルムカメラで撮り、プリントがやや色あせていま
すがご了承下さい。
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第1回 2002年2月16日(土) 〈高崎から群馬藤岡まで〉
カントリーウオークグループの2月例会にて、「この指止まれ」で「鎌倉街道上道(か
みつみち)を高崎から鎌倉の鶴岡八幡宮まで歩きませんか」と呼びかけ、第1回をさっそ
くその週末の今日実施することにした。
ちなみに鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網のことで、鎌
倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿のもとに馳せ参じた道。
特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかの
みち)・下道(しもつみち、しものみち)と呼ばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線
道3本。さらに支線も加わり、いまも「鎌倉街道」の名を残すところも多い。
このうち、鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至
る古道で、鎌倉から化粧坂、瀬谷、本町田、小野路、府中、所沢、入間、笛吹峠、奈良梨
(小川町)、山名を経て高崎までのルートのよう。今回は、このコースを北から南へ、高
崎から鎌倉まで群馬、埼玉、東京、神奈川の1都3県をはせ参じようという企画である。
なお、参考にしたのは、「鎌倉街道夢紀行 上道コース」(テレビ埼玉編、さきたま出
版会発行)である。
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本書に記載の鎌倉街道の全体図
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この図の左上、高崎から中央部下(南へ)鎌倉へのルートが上道
=高崎駅から市内の旧跡へ=
3人くらいは参加するかなと八高線経由で高崎駅へ行ったら、11人も集まった。
駅西口をバックに記念撮影し、10時15分「いざ鎌倉!」へと出立した。
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穏やかな快晴でウオーク日和。まず西に向かい、鎌倉時代初期に和田正信が築いたとい
う和田城、のち井伊氏が大きく改修した高崎城跡へ。
現在残るのは三の丸外囲の土居と堀、そして乾櫓(いぬいやぐら)と東門で、一帯は公
園になっている。
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公園と高層建築の市役所との間を南へ、噴水のある公園を抜けて光明寺横に出る。
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古墳上に護摩堂があったので、ここで旅の安全を祈願する。
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聖石橋に通じる車道を横切り小万坂を下る。国道17号線を横断、城南大橋下から烏川
左岸に出る。西側の展望が開け、真っ白な浅間山が見えてきた。
少し先で左折、上信電鉄の踏切を越えると琴平神社。等身大の古い烏天狗が二つ立つ。
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本殿は小山の上。大ケヤキや大きなムクノキがある。北側の荘厳寺との間の細道が鎌倉
街道だと、Kuさんが寺の人に聞いてきた。
細い路地を上越新幹線の東へ。和田多中町の三差路に双代道祖神があるのを、Kaさん
が見つけた。男女神が体を触れていないのは珍しく、県下で唯一のようだ。
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佐野窪町の三差路近くに、佐野の船橋歌碑があった。
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「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」と万葉集
東歌の一首が刻まれている。碑文は文政10(1827)年の記。
『橋には烏川を挟んだ二つの村の男女の伝説があり、謡曲「船橋」の素材になった。歌
碑は二人の怨霊を慰めるために建てられた』と記されていた。
その先で案内に従い右折、新幹線線路際の常世(つねよ)神社に寄る。
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室町時代の謡曲「鉢の木」の舞台になったと言われるところ。小さな社の前に、佐野源
左衛門常世が鉢の木を切っている絵がある。
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一昨年秋の特別例会にて、今日参加されたIeさんの生家近くの佐野市内で、源左衛門
の館跡に寄っており、不思議な縁を感じた。
200m余り先、新幹線西側の杉林の森に定家神社があった。創建は江戸時代中期で、
祭神は鎌倉時代の和歌の名人・藤原定家。本殿内には定家の
「来ぬ人の 待つほの潮の夕なぎの…」の掲額がある。
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墳も2基あった。
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ここで正午になったが、昼食はおあずけ。東に浅間山古墳を見ながら佐野町を抜け、新
幹線の西に出て交通量の多い一本松橋を渡る。 橋からの浅間山や妙義山方面
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橋の西側が高崎商科短大。トイレ借用の了解を得て、烏川右岸土手にザックを下ろす。
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静かな川面の向こうに浅間、妙義、榛名などの山並みを眺めながら昼食にした。
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=山名八幡宮から古墳群へ=
40分の昼食を終えて13時15分に出発する。車道を700mほど進み上信電鉄山名
(やまな)駅の横に入り、線路下をくぐって西側の山名八幡宮へ。
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太いケヤキが2本。石段上の本殿は、平成3(1991)年に塗り直したという極彩色
の「神を守る動物」の彫刻で彩られている。
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明和6(1769)年に上州田沢村の関口文治郎の刻。本殿は裏側からも参拝で来る珍
しい造り。本殿裏の丘陵に続く道が鎌倉街道だったからだという。
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山すそを南東に進み、展望のよい田園地帯に出る。上信電鉄の南側に高さ数mの古墳が
5つ並ぶ。そばの田んぼでは、放射状に発掘した遺跡を2人で調査していた。
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回り道して鏑川(かぶらがわ)橋を渡り、藤岡市に入る。上落合集落の南に、空堀に囲
まれた国史跡の七興山古墳があった。
地形を生かした三段構成の前方後円墳。全長148m、後円部径87m、前方部幅106m
高さ16mという立派なもの。
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東側から、桜の古木に覆われた墳丘に上がって休憩。高崎の町並や、浅間、赤城から日
光連山にかけての展望が良い。
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花の咲く頃もう一度来てみたいところだ。南東からの↓七興山古墳
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北原集落の東には皇子塚古墳が見え、集落の南、未舗装の細い鎌倉街道のすぐ東側には、
大きな石碑の立つ稲荷山古墳↓があった。この一帯、古墳の多いところだ。
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=吉良氏陣屋跡から神流川へ=
15時を過ぎたが、予定の道のりは長い。ひと休みしようと下郷の龍泉寺に寄る。
説明板を読むと、「吉良上野介の父、義冬(よしふゆ)(1606~68)が創建した
と伝えられる寺。近くに吉良氏の陣屋が置かれていて、忠臣蔵では悪名高いが、ここでは
領民から慕われた名君だった」という。
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立派なシダレザクラがあ、花時は見事であろうと思われた。
下郷橋を渡り、鮎川の左岸を1㎞余り進む。陽が傾き西側の山並みが逆光に映える。鮎
川集落を抜け、鎌倉街道は田んぼの中を南東へ。南町の十字路には、「右鬼石道、左藤岡」
と彫られた古い道標が立つ。
庚申山の南側を緩い上り坂が続き、庚申塔や道祖神、二十二夜塔が並ぶ辺りから下り道
に。鎌倉街道は藤岡モータースクールの先から神流川に向かってさらに真っ直ぐ伸びてい
たようだが、橋がないので車道を別所集落へ下る。
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17時近くなり冷えてきた。集落東の田の畦(あぜ)で最後の休憩。打合せをして、地
形図上、八高線の鉄橋北にある「せき」マークまで行き、渡れないようなら群馬藤岡をゴ
ールとする。
下郷集落の東に出た。土師神社の北に本郷埴輪窯跡があるようだが寄らず、手前から八
高線を越え、線路沿いに回って神流川の左岸堤防へ。
河原に下る道を入り、せきの見えるところに出た。残念ながらせきは大水で流され、一
部しか残っていなかった。
川の横断は諦め、うす暗くなった根岸集落から八高線の西に出て、並行する車道を藤岡
の町並みに入る。すっかり暗くなった18時03分、群馬藤岡駅に着いた。
(参加 12人、天気 快晴後晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 高崎、藤岡、
歩行地 高崎市、藤岡市)
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