もうすぐクリスマスである。
この、もう百年をも経て日本に定着した行事は、すっかり日本の風物詩となっている。
日本の伝統の年の瀬の情緒と相俟って、一層、感興の高いものにしている。
しかし、もとより『クリスマス』とはキリスト教の習わしなのであり、この辺の日本人の知識のいい加減さは今に始まったことではない。
まあ、神父と牧師の区別がつかないのは極端な例としても、それなりの地位の人が公の場で、堂々と誤謬を述べている。
12月19日付の日経新聞に橋爪大三郎なる社会学者が『クリスマスはイエスの誕生日?』と題して一面コラムを書いている。
一般的な日本人と比べると、『クリスマス』に関する認識はさすがに深いのだが、それでも突っ込みどころ満載である。
曰く「日本では、ハロウィーンが終わるとすぐクリスマス商戦に突入。奇妙な感じだ」。欧米も同じである。十月の末にはクリスマスの飾りがなされ、クリスマス用の商品が売り出される。ハロウィーンとクリスマス商戦が混在するのは欧米も同じである。
キリスト教国だから、厳密にアドベント(待降節)を待って、クリスマスシーズンが始まるだろうと思ったら大間違いである。
曰く「クリスマスは「キリスト教的」でないから、祝わないプロテスタント教会も多かった」。とんでもない。クリスマスがローマの土俗宗教、ミトラ教に端を発しているのはその通りだが、「祝わないプロテスタント教会」も「キリスト教的」でないから、祝わないのではない。それは【聖書的】でないから、祝わないのである。要はクリスマスは聖書に根拠がないから、一部の宗派は行事として祝わない。ちなみに、そうした宗派は「イースター」も祝わない。【聖書的】でないからである。
ちなみに、聖書を唯一の聖典として、それに忠実に基づくキリスト教の保守的な宗派でもクリスマスを祝うところはたくさんある。
曰く「クリスマスツリーは古いヨーロッパの俗信で、異教的」・・・・ツリーがドイツの土俗的習慣に端を発しているのはその通りだが、ツリーの根源は、ドイツ出身のヴィクトリア女王の夫君、アルバート公が自分の生地の習わしをイギリス王室に持ち込んだのが、世界的に広まったものである。
もとよりキリスト教信仰とはなんの関りもないので、俗信も何もない。
まあ、自ら社会の木鐸を持って任ずるマスコミもこの程度である。
月曜日に伯父が亡くなった。
葬祭場も斎場も暮のスケジュールが詰まっていて、変則的な告別式の日時なので、かーたんと火曜日にお弔いに行ってきた。
家法が浄土真宗ということで、線香を二つに追って横に置く、慣れない焼香の仕方を教わったが、クリスチャンのうちら夫婦もそれに従った。
三茶から、行ったので、『きゃんどる』で昼食を摂っていった。いつものように美味美味・・・・先にお浄めをした格好である。
年は暮れていく。
冬温しガラス戸越しに背戸の祠 素閑
茶碗の底珈琲残り冬温し 素閑
校舎より望める干し物冬温し 素閑
冬温し日傾き冷えが来る頃や 素閑
北向きの部屋になきがら冬温し 素閑
丹沢の光たのしみ冬温し 素閑
膝さすり冬温きころあらまほし 素閑