たぶん、我々の人生で初めて出会う嘘は両親の「嘘はついてはいけない」という戒めの言葉だ。
どんなときであっても嘘はついてはいけない、というわけではないことを我々は経験上知っている。
例えば、初めてのデートで、彼女が早起きして作ってくれたお弁当の卵焼きがクソ不味かったとする。
そんなとき、「この卵焼き、クソ不味いよね」といってよいかどうか。
どう答えるべきかは書かずともわかるだろう。
我々は、成長するにつれて、どういったときに嘘をついた方がいいのか、また嘘をつくべきなのかを学んでいく。
大人になるということはつまり嘘のつき方を覚えることでもあるのだ。
無論、なぜ両親が「嘘はついてはいけない」と戒めるのかはわかる。
一般に幼い子どものつく嘘は、当然ながら拙く、自己弁護のためのものだ。
そういった嘘はつくべきではない。
が、それでも両親は「嘘をついてはいけない」というべきではないと思う。
なぜなら、子どもは両親の「嘘をついてはいけない」という言葉を自分にいいように解釈して、「本当のことなら何を言ってもよい」と思ってしまうからだ。
本当のことなら何を言ってもよいのか?
そんなわけはない。
事実は、事実であるために、それを指摘することで時に嘘よりはるかに深く人を傷つける。
本来であれば、言葉は嘘かどうかよりも、人を傷つけるかどうかで、非難されるべきだろう。
しかし言うまでもなくそれは至難の業だ。
その人がどれだけ傷ついたのか、心の傷は外からは見えないからだ。
だから人は言葉を非難するとき、その言葉が嘘なのかどうかを非難の基準の第一位に置く。
しかしそろそろ発想を変えてはどうだろうか。
「嘘をつくな/嘘をついてはいけない」ではなく、「人を傷つけるな/人を傷つけるようなことを言ってはいけない」と言ってはどうか。
自分は、何かイタズラがばれて、言い訳のために必死になって嘘をこしらえようとしている子どもの姿を見るのが好きだ。
腹が立つ、というより、むしろ微笑ましく思える。
まだまだそんなもんじゃ大人は騙せないぞ、と思う。
世の親で、自分の子どもが嘘をついてるのかどうかわからない人がいるとしたら、言っちゃなんだが、普段の観察が足りないのではないだろうか。
もっとよく子どもを見ろ、と言いたくなる。
どういった仕草や表情から嘘だとわかるのか、知りたいという人は、『Lie to me』を見ればいい。
たちどころにわかるようになる。
むろんそれも嘘かもしれないが、生憎責任を取るつもりは毛頭ない。そこのところを理解願いたい。
どんなときであっても嘘はついてはいけない、というわけではないことを我々は経験上知っている。
例えば、初めてのデートで、彼女が早起きして作ってくれたお弁当の卵焼きがクソ不味かったとする。
そんなとき、「この卵焼き、クソ不味いよね」といってよいかどうか。
どう答えるべきかは書かずともわかるだろう。
我々は、成長するにつれて、どういったときに嘘をついた方がいいのか、また嘘をつくべきなのかを学んでいく。
大人になるということはつまり嘘のつき方を覚えることでもあるのだ。
無論、なぜ両親が「嘘はついてはいけない」と戒めるのかはわかる。
一般に幼い子どものつく嘘は、当然ながら拙く、自己弁護のためのものだ。
そういった嘘はつくべきではない。
が、それでも両親は「嘘をついてはいけない」というべきではないと思う。
なぜなら、子どもは両親の「嘘をついてはいけない」という言葉を自分にいいように解釈して、「本当のことなら何を言ってもよい」と思ってしまうからだ。
本当のことなら何を言ってもよいのか?
そんなわけはない。
事実は、事実であるために、それを指摘することで時に嘘よりはるかに深く人を傷つける。
本来であれば、言葉は嘘かどうかよりも、人を傷つけるかどうかで、非難されるべきだろう。
しかし言うまでもなくそれは至難の業だ。
その人がどれだけ傷ついたのか、心の傷は外からは見えないからだ。
だから人は言葉を非難するとき、その言葉が嘘なのかどうかを非難の基準の第一位に置く。
しかしそろそろ発想を変えてはどうだろうか。
「嘘をつくな/嘘をついてはいけない」ではなく、「人を傷つけるな/人を傷つけるようなことを言ってはいけない」と言ってはどうか。
自分は、何かイタズラがばれて、言い訳のために必死になって嘘をこしらえようとしている子どもの姿を見るのが好きだ。
腹が立つ、というより、むしろ微笑ましく思える。
まだまだそんなもんじゃ大人は騙せないぞ、と思う。
世の親で、自分の子どもが嘘をついてるのかどうかわからない人がいるとしたら、言っちゃなんだが、普段の観察が足りないのではないだろうか。
もっとよく子どもを見ろ、と言いたくなる。
どういった仕草や表情から嘘だとわかるのか、知りたいという人は、『Lie to me』を見ればいい。
たちどころにわかるようになる。
むろんそれも嘘かもしれないが、生憎責任を取るつもりは毛頭ない。そこのところを理解願いたい。